フランス革命#4

感性と理論

フランス革命#4

マルセイユ義勇軍の攻勢

フランスの危機にこたえて義勇兵がパリに到着し、彼らは「連盟兵」と呼ばれた。武装蜂起を計画していたパリの諸区は王権の停止を議会に請願していたが、議会主義の枠内ではどうにもならないと判断して1792年8月9日の夜にルイ16世のいるチュイルリー宮殿を包囲した

このときは急進左派が開戦責任をとって失脚し、穏健保守派の政権だった。義勇軍もやりすぎに見えるが、「国家存亡の危機」という大義名分は大きい。

こんな君主は嫌だ!?

ルイ十六世は、1790年10月に国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、1791年6月20日に脱出計画が実行されたが、国境近くのヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻されるという君主としての失態があった(ヴァレンヌ事件)。

立憲君主制に移行した1791年憲法には、ルイ十六世にはまだ、行政権(拒否権)があった。しかし、国王は事実上の囚われの身が不満だったのか、外国の干渉によって解放されることを期待した。

そこで立法議会では国王は拒否権を乱発して政局を停滞させた。

立憲君主制の王の「権限」は極めて制限されるが、君主としての「権威」は維持されるべきである。

しかし、王としての「権限」を回復するために他国との内通や行政拒否権を乱発しては立憲君主国の君主の「権威」さえ維持できなくなるだろう。

義勇兵が王権の停止を議会に請願したが、あくまでも立憲君主制を維持したい保守派は拒否した。

国家の危機、既に君主として国民の信頼を失った、ルイ十六世の下での戦争は勝てない。

保守派も君主の「権威」の維持ために、王権の停止(拒否権の制限)を認めてよかったのではなかろうか。そのような立憲君主国はいくらでもある。

保守派の敗北

8月10日は貴族階級の命運を分けた死闘になった8月10日事件

武装蜂起の側(マルセイユ義勇軍)は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった。

戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。

8月10日で敗北したものは、フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族だった。彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあった。

旧体制の既得権益を守るためとはいえ、急進左派の対外戦争敗北、物価上昇という内政の失策がなければ情勢は変わっていのかもしれない。

領主、地方貴族に対する農民の反乱、国家存亡の危機という都市部での義勇軍の勢いには穏健保守派は対抗できなかった。

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