イングランド国教会

感性と理論

イングランド国教会

https://ja.wikipedia.org/wiki/イングランド国教会

https://www.y-history.net/appendix/wh0903-051.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_England

16世紀1534年)のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称で、世界に広がる聖公会アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会[1]

イギリス宗教改革によってローマ・カトリック教会から分離・成立したイギリス国王を首長とする教会とその信者を言う。

プロテスタントではあるがピューリタンなど非国教徒とは対立し、名誉革命後は国家宗教として確立した。

ヘンリ8世及びエリザベス1世の制定した首長法(国王至上法)、エドワード6世が制定した一般祈祷書、エリザベス1世の時に完成した統一法、および信仰箇条などの規定からまとめると次のような特徴がある。

  • イギリス国王が教会の首長となること。(国王が教会の最高統治者となる。)
  • 主教制による教会組織。(国王-大主教-主教-副主教-司祭長-司祭)
  • 教義はカルヴァン主義に近い。(信仰義認説、聖書主義、予定説など)
  • 儀式はカトリックのものを残す。(聖職服の着用、聖餐式の時の跪拝など)

イギリスとカトリック教の歴史

他のヨーロッパ諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にプランタジネット朝ヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。

イングランド王権と教会はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。教皇は王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。カンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例(クラレンドン法)があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。

この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権はイングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなり、教皇によるイングランド教会支配が強まった。


教皇権の衰退(アヴィニョン捕囚、黒死病、オスマン帝国、大分裂)

1303年フランスフィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件)が起こった。

教皇はこの直後に病死。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていった。アヴィニョン捕囚(アヴィニョンほしゅう)とは、キリスト教カトリックローマ教皇の座がローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年 – 1377年)を指す。

14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。

1377年神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニヨンの教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を実現させたが急死、ローマで新たに教皇ウルバヌス6世が選出されるが、間もなくフランス人枢機卿が選挙は無効だと宣言して、別に教皇クレメンス7世対立教皇)を選出した。こうして、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマ教会大分裂)が起こる。

1139~1453年の百年戦争の時代は、黒死病の流行、オスマン帝国の圧力、1453年のコンスタンティノープル陥落など、ローマ教皇の権威だけでなく、キリスト教世界全体の動揺をさらに深めることとなった。


ヘンリー8世によるローマカトリック教会からの離脱

テューダー朝第二代ヘンリー8世は、薔薇戦争(1455年5月22日 – 1487年6月16日)の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望した。

始まってまだ日の浅いテューダー朝には正統性に対する疑義があり、王位継承権を主張するかもしれないライバルの貴族が多数存在した。

ヘンリー八世には多くの庶子がいたが、当時のイングランドでは庶子の権利が大幅に制限され、たとえ認知されたとしても王位につくことは難しかった。

このような理由から、ヘンリーは6度の結婚を繰り返すこととなった。しかし、世継ぎとなる嫡出の王子が生まれないために、ヘンリーは王妃キャサリンに愛想をつかし、その侍女でメアリー・ブーリンの姉妹のアン・ブーリンを求めるようになったが、アンは正式な結婚を求めた。

ヘンリーは離婚(正確には婚姻の無効)を画策したが、スペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であるキャサリンとの離婚は容易ではなく、教皇クレメンス7世と対立し、イングランド国教会を分離成立させてイングランドにおける宗教改革を始めることになった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑なども絡んだ、複雑な政治問題であった。

1529年に宗教改革議会を召集、側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受け、1533年には上告禁止法を発布し、イングランドは「帝国」であると宣言した。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイングランド国教会の長とするとともに、カトリック教会から離脱した