ジェームズ1世 (スチュアート朝#1)

感性と理論

ジェームズ1世 (スチュアート朝#1)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ1世_(イングランド王)

イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年3月24日 – 1625年3月27日)である。

非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた[1]。

スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。

有力なイングランド王位継承権者でもあったが、これは母方の祖父ジェームズ5世ヘンリー8世の姉(エリザベス1世の伯母)マーガレット・テューダーの息子であったことによる。

1586年、ジェームズ6世はイングランドとベリック条約(英語版)を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、1588年にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った

また1596年、娘のエリザベスが生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている

1603年3月に入るとエリザベス1世は崩御し、ジェームズ6世は4月にエディンバラを出発、ロンドンで熱狂的な歓迎を受け7月25日に戴冠、同君連合でイングランド王ジェームズ1世となった。

これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、1707年合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。

宗教政策

1604年、ジェームズ1世はハンプトン・コート宮殿イングランド国教会ピューリタンなど宗教界の代表者たちを招いて会議を行った(ハンプトン・コート会議英語版))。この中でジェームズ1世は、カトリックとピューリタンの両極を排除することを宣言したが、これによりカトリックとピューリタンの両方から反感を買うことになった[7][60][61]。一方でイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けたため、この会議でスコットランドではカルヴァン派の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた[

イングランド国王就任時からアイルランド植民地となっており、先代からの反乱(アイルランド九年戦争英語版))の首謀者・ティロン伯ヒュー・オニールはイングランドに降伏していた(1607年に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は1608年から1610年まで、アイルランド北部アルスター地方へジェントリを通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少のジェームズ・バトラー(後のオーモンド公)を引き取りプロテスタントに養育、1613年アイルランド議会庶民院の選挙介入も行い、プロテスタント議員がカトリック議員より人数を上回るようにした。

外交政策

1606年には、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、ジョイント・ストック・カンパニーバージニア会社勅許を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。ジェームズタウンの建設を進め、ロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。1620年のピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)によるメイフラワー号も有名である[7

東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に東インド会社が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった)

日本との交易

1613年にはジャワ島のバンテンに商館を持っていて、日本にいる三浦按針から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていたジョン・セーリスが日本に行き、徳川家康秀忠親子と交渉して、平戸イギリス商館を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい[81]。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど)[82]だったため、1623年アンボイナ事件以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された)

財政

ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに、関税を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。

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