エドワード三世(アンジュー朝#8)

感性と理論

エドワード三世(アンジュー朝#8)

https://ja.wikipedia.org/wiki/イングランド君主一覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード3世_(イングランド王)

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_III_of_England

 1312年11月13日 – 1377年6月21日、プランタジネット朝(アンジュー朝)

貴族や議会と基本的に良好な関係を維持して安定的な治世を築き、商工業を振興し、海軍の再編成に努めた。当時のイングランドの国力から見て相応以上の成果を上げ、近隣諸国に「イングランド王国あり」という認識を与えた王であった


即位

1327年、15歳で即位。

スコットランド王ロバート1世は少年王の即位を好機とみてイングランド北部への侵攻を開始した。軍資金の確保に苦しむ母イザベラとモーティマーは、戦争継続は不可能と判断してロバート1世に講和を懇願し、エディンバラ=ノーサンプトン条約英語版)を締結した。

これによりイングランドはスコットランドが独立国であることとロバート1世がスコットランド王であることを承認した。


百年戦争と議会の成立

1337年フランス王フィリップ6世がイングランド王のアキテーヌ公領を没収したのに対抗して母の血筋を根拠にフランス王位を請求してフィリップ6世に宣戦布告したことが百年戦争の始期と見なされる。

エドワード3世が即位した1327年以降の代表制集会は完全に議会(パーラメント)の一部となり、構成面で見れば中世イングランド議会はエドワード3世時代に完成した。

百年戦争の莫大な戦費を必要としたエドワード3世は、議会の同意を得て国民に課す租税が不可欠であり、課税については何らかの形式で臣民の集団的同意がいるという原則に以下を加えた。

  1. 臣民の課税同意を与えるのは議会であるという原則
  2. 国王大権による課税は破棄、あるいは厳重に制限を加える原則

フランス王位請求

1328年にシャルル4世が崩御した時、嫡男がおらす、フィリップ4世の弟の子ヴァロワ伯フランス語版フィリップフィリップ6世としてフランス王に即位し、カペー朝からヴァロワ朝となった。

当時の社会通念上男子しか認められないのはローマ皇帝神聖ローマ皇帝)とローマ教皇だけであった。

そのためエドワード3世は分家に過ぎないヴァロワ伯よりはフィリップ4世の娘イザベラの子である自分の方がフランス王位の正統な継承者だと考えてい

カペーの奇跡

フランス王国カペー朝フィリップ2世(尊厳王)(在位1180~1223年)は、イングランド王リチャード1世の死後、後を継いだジョン王が暗愚なのを見てノルマンディーアンジューを奪うことに成功した。

一時はロンドンまでを支配するなど、領土を大きく拡大した。また、内政においても大学の設置や人材登用など、パリの発展に尽くすなどして、その後におけるフランス王国の基礎を作り上げた。

カペー朝の国王と違ってイングランド王室と血縁関係がないフィリップ6世スコットランドと呼応してイングランドに敵対姿勢を取った。


フランドル伯領

フランドル伯領は当時であり、基幹産業の毛織物加工の材料である羊毛はもっぱらイングランドに依存していた。

1336年、エドワード3世は、羊毛をもっぱらイングランドに依存していた欧州屈指の富裕な商工地帯フランドル伯領に対し、フランドル伯ルイ1世を牽制する目的で羊毛輸出を禁止した。

1337年、フランドル伯領の諸都市でフィリイプ六世に近く反英的なフランドル伯に対する不満が高まりフランドル伯は追放、エドワード3世は1338年にイングランド軍を率いてフランドルに上陸、フランドル諸都市はエドワード3世をフランス王と認め、1339年12月にはイングランドとフランドル諸都市の間に攻守同盟が成立した。


黒死病と労働者法

1349年、黒死病がイングランドで猛威を振るい、推計で人口の30%から45%が黒死病で死んだであろうとする推定がある。イングランドの人口はこの黒死病で激減した後、14世紀末には黒死病発生以前の人口の半分である200万人にまで落ち込んでいた。

黒死病による労働力不足に付け込んで、多くの労働者が賃上げを要求するようになり、それに成功した労働者は労働者階層にふさわしくない贅沢な身なりや生活をするようになった。

「労働者は酷く思い上がって従順でなくなり、王の命令にまったく敬意を払わない。労働者を雇いたければ彼らの要求に屈するしかない」と表現している。農業労働者も同様であり、より高い賃金を要求して農業労働者の移動が激しくなった。

1351年、土地所有者たちはこれに憤慨し、国王エドワードに労働者の不当な賃上げ要求を許さない法律の制定を求め、エドワード3世は労働者規制法英語版)を制定して賃金率を固定し、農業労働者の移動の抑制を図った。

さらに1363年にはぜいたく禁止法英語版)を制定し、労働者階級が身分にふさわしくない身なりや生活をするのを規制しようとした。


穀物法

イギリス穀物法(1361年〜1835年)

1361 年、イングランドとアイルランドの間で部分的自由貿易が確立した。

同時に、イングランドのどこからであっても、穀物の輸出は禁じられていた。もちろん、アイルランドはそれから除外されていた。

イングランドとアイルランドの両方に財産をもつイングラ ンドの人々は、関税を支払うや否や、穀物、家畜、食糧をアイルランドに送ることができ るし、同様に、アイルランドからイングランドに送ることができることを定めている。

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