ポーランド王国

感性と理論

ポーランド王国

https://ja.wikipedia.org/wiki/ポーランド王国

1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国である。


ポーランド王国の成立

ポーランドは、10世紀まで地方ごとにいくつかの西スラヴ人の公国によって分割支配されていた。

10世紀後半にピャスト朝の公ミェシュコ1世によって統一され、キリスト教化、このとき神聖ローマ帝国を介さずローマによって直接行われたため、帝国とは対等の完全独立国である。

11世紀、ミェシュコの子のポーランド公ボレスワフ1世(「勇敢王」)は、神聖ローマ帝国の東部(マイセンなど)、キエフ地方までのウクライナボヘミア王国の西部、ポメラニア公国などを支配下に収め、広大な領土を実現、これによってボレスワフ1世はポーランド国王の称号を内外から認められるようになり、ポーランド王国を成立させる。

ポーランド王国は、後に「貴族共和政」に発展した有力者の分権的性格が建国以前から根強いため、王族や貴族による内紛が頻発、父ボレスワフ3世遺言状で国土が多くの子供に分割相続されてしまい、頂点にピャスト家の大公を戴く複数の公国へと分裂した。


モンゴル侵攻#1

1241年バトゥ率いるモンゴル帝国軍の第1次ポーランド侵攻、ポーランド軍は彼我の兵力差などから大敗した。

1242年、モンゴル帝国の第2代皇帝オコディの死亡によって、モンゴル軍は撤退、ポーランドの土地がモンゴル人から完全に占領されることはなかった。

https://en.wikipedia.org/wiki/First_Mongol_invasion_of_Poland

ポーランドの分裂状態を収拾して国家の再統合を実現しつつあったシロンスク公ヘンリク2世の死により、ポーランド統合は白紙に戻った。

この時期の欧州は、グレゴリウス9世フリードリヒ2世を支持するロンバルディア同盟とが対立した「教皇派と皇帝派」の対立の真最中であった。

教皇グレゴリウス9世は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している。騎士修道会は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。

ポーランド・ドイツ連合軍には、主力となるドイツ騎士団、オポーレ公ミェシュコ2世の軍隊、トゥルスクとフミェルニクで敗北したポーランド軍、そしてテンプル騎士団ホスピタル騎士団のメンバー達と少数の外国人義勇兵が加わっていた。ヘンリクの軍勢は敵と同数かそれ以上の数の軍隊を擁し、有効な戦略を採用していたが、組織・規律・武装・経験に勝るモンゴル軍には全く歯が立たず、ヘンリク2世は戦死した。

バトゥ率いる本隊は、モヒの戦いでハンガリー軍を破るとバイダルの支隊と合流し、孤立していたバーベンベルク家フリードリヒ2世ウィーンを目指した。

ボレスワフ5世は、1245年ヤロスラヴの戦いで、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(キエフ・ルーシー王国)にモンゴル軍と共に侵攻、ルーシー王国は滅亡し、その中部・南部の地域がリトアニア大公国とポーランド王国に併合される。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はジョチ・ウルス(キプチャク・ハーン)の属国と化した。

ルーシー王国(ウクライナ)

モンゴル侵攻#2

侵略は、モンゴル軍が、ガリシアのダニエル王(ルーシー王国)の独立した行動を罰するために、1259年後半に始まった。

モンゴル軍による第2次ポーランド侵攻では、ボレスワフ5世ハンガリーに亡命する。

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