イングランド共和国

感性と理論

イングランド共和国

https://en.wikipedia.org/wiki/Commonwealth_of_England

https://ja.wikipedia.org/wiki/イングランド共和国

https://www.y-history.net/appendix/wh1001-047.html

サミュエル・クーパーによるオリバー・クロムウェル(1656年

1649年、清教徒革命イングランド内戦)、ランプ議会(残部議会)によってその樹立が宣言されてから、チャールズ2世のブレダ宣言、長期議会が解散する1660年まで。

Commonwealth  とは、本来は「公共の福祉」という意味である。

第二次世界大戦後にはイギリス連邦のことをコモンウェルスというようになっている。もとは、1931年に成立した the British Commonwealth of Nations 。


アイルランド弾圧

1649年、オリバー・クロムウェルはニューモデル軍を率いてアイルランド侵略を敢行、アイルランド・カトリック同盟および王党派を各地で撃破、アイルランドを併合、ほぼ植民地化した。

この時、ニューモデル軍はアイルランドにいるカトリックへの悪名高い住民虐殺を繰り返し、現在まで続くアイルランド問題の発端を作った。


スコットランド遠征

1650年、スコットランド遠征(第三次イングランド内戦)にクロムウェルが司令官となり、ニューモデル軍は9月3日のダンバーの戦い、翌1651年9月3日のウスターの戦いで連勝、チャールズ1世の息子チャールズ2世を亡命へ追いやり内戦を終結させた。


ニューモデル軍と議会の対立

1651年、「クロムウェル航海法」とよばれる航海条例の制定によって、第一次英蘭戦争が勃発、ランプ議会は財政が傾いたため軍の給料減額と軍縮を進めた。

1653年、ランプ議会はクロムウェルとニューモデル軍のクーデターで解散させられた。ニューモデル軍は士官会議によって『統治章典』を公布、クロムウェルを護国卿とした政権を発足させた。

1657年、議会と軍の対立は続き、クロムウェルの安定体制のため、議会は彼の国王即位を提案したが、軍は反対、事実上、王政に近い体制を作る『謙虚な請願と勧告』が公布されたが、安定体制には至らなかった。


共和政の崩壊

1658年、第二議会は解散、9月にクロムウェルも死去した。世襲で三男リチャード・クロムウェルが次の護国卿となった。

1659年、第二代護国卿リチャード・クロムウェルは、父ほどの器量や才能がなく、軍人としての経歴もないためニューモデル軍の信任を得られなかった。そこで第三議会と協力しようとしたため、ニューモデル軍は護国卿リチャード・クロムウェルを辞任させ、ランプ議会(残部議会)が再設置された。

しかし、ニューモデル軍はランプ議会と対立、スコットランド軍の侵攻など情勢は混乱、国民の支持を失ったニューモデル軍は主導権を失っていった。

1660年、リチャード護国卿辞任後、故オリバー・クロムウェルの部下チャールズ・フリートウッドジョン・ランバートと議会が争ったが、やがて彼らを排除したジョージ・マンクチャールズ2世をイングランドに迎え入れ王政復古を実現させた。

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