レキシントン・コンコードの戦い

感性と理論

レキシントン・コンコードの戦い

https://en.wikipedia.org/wiki/Battles_of_Lexington_and_Concord

1775年4月19日に起こった、アメリカ独立戦争が始まる契機となったイギリス本国軍とアメリカ植民地軍間の戦闘ショット・ハード・ラウンド・ザ・ワールドとも呼ばれる。


イギリス軍総司令官トマス・ゲイジは、ボストン茶会事件(1773年)後のボストン市(マサチューセッツ州)の戒厳司令官だった。

4月16日の朝、ゲイジは、コンコードに武器を隠していると思われる反逆者の武装解除のため、ミッチェル少佐に命じて約50名の騎馬偵察隊を周辺の田園地帯に派遣、サミュエル・アダムズジョン・ハンコックを捜索、このことで地域住民には警告を与えその準備を強化させることになった。

4月18日の午後、フランシス・スミス中佐はゲイジから、「最速でかつ隠密裏にコンコードへ向かい、あらゆる軍需物資の保管所を確保し破壊する」命令を受け取った。

植民地軍(ポール・リビアジョセフ・ウォーレン

反逆者達の指導者は、ロンドンからの武装解除の指示をゲイジが受け取るよりもはるかに早くから情報を入手していた。サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックはレキシントンに逃れ、マサチューセッツ民兵はコンコードの武器や火薬などの物資を分散させていた。

その情報源がゲイジのニュージャージ生まれの妻、マーガレット・ゲイジだったという考慮すべき推測がある。マーガレットは植民地に対する同情心があり、ジョセフ・ウォーレンとも親しく付き合っていた。

4月18日ジョセフ・ウォーレンは、レキシントンと近くの町の愛国者達(ウィリアム・ドーズとポール・リビア)にイギリス軍がの夜9時から10時の間に目指しているという情報を流した。

ウィリアム・ドーズとポール・リビアは、レキシントンで、ハンコックとアダムズとの4人で、民兵の状況について議論した。イギリス軍が2人を逮捕するだけの目的にしては大きすぎるので、ねらいはコンコードにあると結論づけた。リビアとドーズはコンコードへ向かうことになった。


レキシントン(最初の銃声)

イギリス軍は4月18日の夜9時に兵士を起こし、10時にボストン広場の西端の水辺に集合、フランシス・スミス中佐に率いられる約700名の正規兵は午前2時頃、コンコードに向けた17マイル (27 km)の行軍を始めた。

4月19日午前3時、スミス中佐はピトケアン少佐に軽装歩兵の10個中隊を連れてコンコードに先乗りするよう命じ、日の出頃、ピトケアン指揮の先遣隊がレキシントンに入った。植民地軍は、ジョン・パーカー大尉率いる77名のレキシントン民兵がバックマン酒場から出てきて村の広場で監視していた。

パーカーもピトケアンも部下に発砲しないように命令していたが、どこからと特定できない1発の銃弾が発射された。当時も現在も誰がアメリカ独立戦争の最初の銃弾を放ったかは明らかでない。両軍から何度か間欠的な銃撃が行われた後に、イギリス正規兵は命令されることもなしに一斉射撃を始めた。植民地軍は8人のマサチューセッツ人が殺され、10名が負傷したのに対し、イギリス兵は1名が負傷しただけだった。

広場のピトケアンの部隊は指揮官の命令を聞かなくなっていた。スミスは直ぐに鼓手を見つけて集合の太鼓を鳴らさせ、その後隊列を立て直してコンコードに向けて進軍を始めた。


コンコード

コンコードの民兵達は、ある丘の上からはスミスが軽装歩兵を配置に着かせるのを民兵達が見守っていた。その民兵は町への撤収を始めた。町の中の丘を占領していた民兵はイギリス軍の背後から近づいていく者もいた。

バーレット大佐はコンコードの町を諦め、オールド・ノース・ブリッジを渡って町から約1マイル北の丘の上に移動、イギリス軍の動きを見守ることができた。

スミスの部隊はゲイジの命令を実行、村の集会所で発見した大砲の台車を燃やすと、集会所そのものに燃え移った。多くの者はイギリス軍が町を焼き払い始めたと思った。

バーレット大佐は村の広場から立ち上る煙を見て、民兵約500名に対して橋に向かって降りていく公道に2列に長い横隊を作るよう命じた。イギリス軍中隊95名を指揮していたウォルター・ローリー大尉は、実戦経験が少なくこの時戦術的な誤りを犯した。イギリス兵は数的にも負けており、戦術的にも不利な位置にいることをこの時認識し、オールド・ノース・ブリッジを渡って撤退を命じられた。

この時、植民地軍では、ジャコバイトハノーヴァー朝ジョージ3世に抵抗するときに使った有名な曲「ザ・ホワイト・コッケード」を演奏したとも言われている。


植民地軍は、両軍が交戦し戦死者を出すことを考えていた者はいなかった。バーレット大佐は後方300ヤードの丘の上に民兵を戻し、一方バットリックにも民兵を付けて橋を越え石の壁がある丘で防御の態勢を取らせた。

ローリーからの援軍要請を受けた直後に銃声を聞いたスミスは、自ら率いてオールド・ノース・ブリッジに向かったが、兵士がばらばらにこちらへ走って来るのに出会い、いまや安全に帰還する道は閉ざされていた。これらの部隊は何が起こったかを理解できないまま、バーレットの農場の捜索から何も得られず戻ってきた。

その後、正規兵達は植民地軍を刺激するようなことはせず、町中の軍事的なものの破壊を続けると、正午過ぎにはコンコードを離れた。


イギリス軍の帰還(コンコードからレキシントン)

愛国者達の総勢はこの時点で2,000名に達しており、スミスは再度分隊を派遣した。しかしイギリス兵の損害はこの戦闘や持続的な長距離の狙撃によってかなりの数に上っていた。しかもイギリス兵の弾薬が尽きかけていた。

レキシントンの町に入ると、パーカー大尉がレキシントンの訓練された民兵を集めて丘の上に陣取っていた。スミスはこの時、太腿を負傷した。「パーカーの報復」として知られるこの攻撃でイギリス軍の歩みが止まった。

ピトケアン少佐が歩兵隊を丘の上に送ってパーカー部隊を追い払わせたが、ピトケアンはフィスク・ヒルの掃討中に馬から落ちて脚を怪我し、スミス、ピトケアンという指揮者二人が負傷者で馬が無い者となってしまった。

午後2時半、その士官が部隊共々降伏を考えていたとき、パーシー伯ヒュー・パーシー(後の第2代ノーサンバーランド公爵)指揮下の約1,000名の部隊が大砲も携えて救援に駆け付け、見晴らしの良い丘の上に大砲を据え隊形を組んだ。スミスの部隊の後ろにはミドルセックス郡民兵の大部隊が追いかけてきていたが、パーシー伯は最大射程で大砲を放たせたので、植民地民兵は八方に散った。

レキシントンからメノトミー

パーシー伯は合流した軍隊約1,900名の支配を取り戻し、その日の最後の行軍、午後3時半頃部隊はレキシントンを出発した。

マサチューセッツ植民地部隊の指揮はレキシントンでウィリアム・ヒース准将がとり、イギリス軍も植民民兵も持っていたのはマスケット銃であり、その射程は高々50ヤード (45 m)であった。ヒースとウォーレンはパーシー伯の大砲に対応して、密集隊形を避け、パーシー伯の部隊を囲み、民兵は最小のリスクで敵部隊に最大の被害を与える遠隔狙撃をさせた。

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