音楽と教養

感性と理論

音楽と教養

音楽、具体的にはピアノやバイオリンなど、何らかの楽器を「習い事」として、「音楽は教養の一つだから」という理由で、子供を音楽教室に通わせる場合がある。

子供を持つ親にとって、教育にかける資金は「投資」であるから、もちろん、あわよくばプロの演奏者になって、高い地位と多くの収入を得るための「きっかけ」になるかも、といったような淡い期待もあるかもしれない。

しかし、そんな可能性は、それこそ教養のある親であれば、その確率は極めて低いことを認識しているはずである。

つまり、別にプロになって音楽で食べていくというわけではなく、ただ「音楽は教養のひとつだから」それを身につければ、将来、高い地位と多くの収入が得られるという「投資」という意味では同じなわけである。

ただ、「プロになるため」と違う点は、その期待値が低いというだけであろう。

さて、音楽とはほんとうに「教養」なのだろうか?


また漠然とした命題であるが、アダムスミス「国富論」の中で述べられる次の一文から気になった命題である。

・・・は当然、国王、宮廷、地方などの上流階級に自分を売り込み、推薦を受けて昇進しようと考える。

・・・地位と資産のある人に評価される教養、したがってこれらの人に尊敬される可能性が高い教養を身につける方法をとることも少なくない。

たとえば、実用的な知識や優雅な知識を幅広く身につけ、上品で寛大な態度をとり、社交の場で気持ちよい会話ができるといった点であり、・・・・以下略

国富論第五編第一章第三節第三項 生涯教育のための機関の経費

教養を身につける目的

「地位と資産のある人に評価される、または尊敬される教養」を身につけて、上流階級に自分を売り込み昇進できると考えるのは、今の時代であっても変わらないと思う。

つまり、いわゆる「出世する」ためには、多かれ少なかれ「教養」が必要であるといことに異論はないと思う。

教養がなくても出世できる!などと主張するのは、「暴力」や「違法行為」が認められるような未開の社会であればありうるかもしれないが、ここでは論外である。

つまり、「教養」とは、それ身につけることで、高い地位を得て多くの収入を得るための「手段」として必要なものであることは間違いない。

では、もし、現代社会において「音楽」が「教養」であったとして、高い地位を得て多くの収入を得るための手段になりうるのであろうか。


アダム・スミスの時代、すなわち18世紀後半から19世紀初頭にかけて、「宮廷音楽家」やその収入源であるパトロンとしての「貴族」という上流階級が存在した時代には、たしかに「音楽」は高い地位を得て多くの収入を得るための「教養」の一つだったかもしれない。

しかし、現代、我が国では「宮廷音楽家」はもちろん、そのパトロンとしての「上流階級」となるべ き貴族も存在しない。

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