ローマの歴史

感性と理論

ローマの歴史

宮廷があるか、ときおり宮廷として使われる宮殿があって、主にそれによって支えられている都市では、下層民は主に収入部分の支出によって維持されており、一般に怠惰で遊び好きで貧しい。

ローマや、フランス王の宮殿のあるベルサイユ、コンピエーニュ、フォンテンブローがそうだ。

国富論第二編第三章 資本の蓄積と、生産的労働と非生産的労働

286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。

5世紀には西ゴート人ヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、476年に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケル東ゴート王の支配下に入った。

6世紀中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となったが、この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。

751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマ教皇ステファヌス2世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族ピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。

この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカール(カール大帝)によりローマ教皇に寄進されローマ教皇領になったとされる(ただし偽書の疑いあり。)


15世紀

15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代(1397 – 1455年)には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。

おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロブラマンテラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。

16世紀

1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。

家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリクス水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。

17世紀

 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。

18世紀

18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。

1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。

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