アウクスブルク同盟戦争(1688年)

感性と理論

アウクスブルク同盟戦争(1688年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/大同盟戦争

大同盟戦争後のヨーロッパ(1897年)

膨張政策をとるフランスルイ14世に対してアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国が戦った戦争(1688〜1697年)

九年戦争プファルツ戦争またはプファルツ継承戦争とも。


大同盟

膨張政策を続けるルイ14世は1678年から1683年にかけてフランス東部の継承を一方的に主張、武力行使で併合する領土拡大政策を採用してルクセンブルクストラスブールを併合(再統合戦争)、1685年フォンテーヌブローの勅令を発令してプロテスタントを国内から追放したことは諸国の警戒を呼び起こした。

1686年オーストリア神聖ローマ皇帝レオポルト1世、ドイツ諸侯、スペインオランダスウェーデンなどの諸国はアウクスブルク同盟を結成してフランスに対抗した。


イングランド

1685、チャールズ二世推定王位継承者である弟のジェームズ二世の戴冠式が、ウェストミンスター宮殿で行われた。

しかし、ジェームズ二世がカトリック信者であったこと、チャールズ二世が正式な後継を決めずに逝去したことから、イングランド議会と対立していた。


戦争勃発

大同盟に対して、ルイ14世は、同じカトリックであったイングランドジェームズ2世を抱き込み、次第に欧州侵略の意図を露わにしていった。

1688年、フィリップ・ヴィルヘルムの同族のケルン選帝侯マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルンが死去すると、ルイ14世が次のケルン選帝侯を決める選挙で補佐司教ヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立、マクシミリアン・ハインリヒの従甥ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンがレオポルト1世に擁立され決着が着かず、ルイ14世は9月24日に宣戦布告してアルザス・ストラスブールからプファルツ選帝侯領ケルンマインツなどライン川地方(ラインラント)に侵攻した(プファルツ略奪)。

オランダ総督ウィレム3世(その後、イングランド王ウィリアム三世)は、ジェームズ2世に反対するイングランドの政治家達と接触、イングランドを反フランスへ引き込むためイングランドへ上陸する。

1688年末にイングランドで名誉革命が勃発し、ジェームズ2世はフランスに亡命、1689年にオランダから上陸したウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世としてイングランド王に推戴された。

ウィリアム3世のイングランド・オランダは直ちにアウクスブルク同盟に参加、イングランド・オランダを加えた同盟は大同盟とも呼ばれる。

1690年にはスペイン、サヴォイア公国も参加している。


戦争の経過

ウィリアム3世のイングランドはただちにアウクスブルク同盟に参加、ルイ14世は対抗のためフランスに亡命したジェームズ2世を援助、アイルランドへ出兵させた(ウィリアマイト戦争)。

ウィリアム3世は1689年に遠征軍を派遣したが、進行が遅れると1690年に自ら軍を率いてアイルランドに渡り、ボイン川の戦いでジェームズ2世を破った。

しかし、大陸でフランス軍と戦っていたヴァルデックがフルーリュスの戦いでリュクサンブール率いるフランス軍に敗れると、翌1691年に本国オランダに帰ってネーデルラントでフランス軍と戦った。

フランス軍のイングランド遠征も1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦で敗退したため、イングランド侵略の恐れは無くなり、ウィリアム3世は大陸へ渡れるようになった。

1691年からウィリアム3世は、春に大陸へ渡りフランス軍と戦い、秋にイングランドへ渡海して議会を開会して政治を行うことが終戦までの活動になる。ウィリアム3世の生涯は、オランダに対するフランスの侵略と戦うことに費やされた。

1696年1697年の戦役は互いに進展が無かったが、ナミュールの陥落とフランスの財政が限界に近付いていたこともあり、1697年に腹心のポートランドを通してブーフレールと交渉、レイスウェイク条約を締結させた。

ウィリアム3世はイングランド王として承認され、ネーデルラントに守備兵を置くことも認められ、フランスの脅威に備えた。

英仏の抗争は北アメリカにも拡大し、英領アメリカの植民地とフランス領カナダで戦争が行われた(ウィリアム王戦争)。

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