アイルランドとイギリス
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古代アイルランド人の用いた言語はケルト語の一分派であるゲール語であり、古代のケルト族(ゲール人)の侵攻によりアイルランドに定着した。
アイルランドはローマ帝国に属することはなかった。
紀元後600年ごろにキリスト教布教がおこなわれ、それまで信仰されていた多神教は駆逐された。
9~10世紀はバイキングの来寇と後続のノース人が海岸に定住を開始した。
イングランドとノルマン人の侵入
初期中世はヴァイキングの一派であるノルマン人の侵入から始まる。
イングランドによるアイルランドの植民地化は1169年のノルマン人侵攻に始まった。
ノルマン人はアイルランド島の東岸地域ウォーターフォードから東アルスターまでを支配下においていた。


ノルマン人王朝ができることに不安を持ったイングランドのヘンリー2世は、1171年にアイルランド島へ上陸した初のイングランド王となった。
ヘンリーはウォーターフォードとダブリンを王領都市として宣言し、自身の息子ジョンにアイルランドの支配権(アイルランド卿)を与えた。
スコットランドの侵入・失敗
1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)がゲール人の反イングランド貴族を味方につけてアイルランド王に推戴され、アイルランドに侵攻したが敗退する。
この戦乱を利用して、アイルランド人貴族たちはイングランドの占領によって奪われた土地の多くを取り戻した。
ペスト(黒死病)の影響
1348年にはペスト(黒死病)がアイルランドへと伝染し、都市部に住んでいたイングランド人やノルマン人のに大きな犠牲を出し、田舎に住むアイルランド人が勢力を取り戻した。

アイルランド語とその風俗を取り入れていたOld Englishと呼ばれノルマン人貴族は、「本来のアイルランド人よりもさらにアイルランド的である」と言われ、イングランドとの対立の前面に立ち、カトリックの信仰を守り続けることになる。
薔薇戦争
15世紀の後半にはイングランドで薔薇戦争が勃発し、アイルランドにおけるイングランドの影響力はほぼ消失した。
宗教改革の影響
1536年、イングランド国王ヘンリー8世により教皇権が否定されると、スコットランドがプロテスタンティズムを受け入れたのに対して、アイルランドではカトリックの教義をかたくなに守り続けた
アイルランドの自治権を拡大するためにヘンリー7世に露骨に反抗してきたキルデア伯フィッツジェラルドは、ストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世と激突し、敗北した。
再占領
叛乱を鎮圧したヘンリー8世はアイルランドを完全にイングランドの統治下におさめるために、アイルランドの有力諸侯が認めないにもかかわらずアイルランド王を称した。
このイングランドによる再占領は、エリザベス1世(1558年 – 1603年)とジェームズ1世(1603年3月24日 – 1625年3月27日)の時代に一応完了した。
16世紀中期から17世紀にかけて、スコットランドとイングランドからの入植者がマンスター、アルスター地方へと移住し、カトリック刑罰法によりアイルランドの特権階級を形成した。
カトリック刑罰法と反乱
キルケニー同盟が蜂起したアイルランド反乱(英語版)(1641年)に端を発するアイルランド同盟戦争(1641年 – 1653年)が発生していた。
1649年のオリバー・クロムウェルが率いた植民地主義的な侵略、いわゆるアイルランド遠征
ほぼ全てのカトリック地主の土地が没収され、イングランド人入植者へと与えられた。アイルランド人の地主たちはコノート地方へと移住させられた。
名誉革命
1689年、カトリック教徒であるジェームズ2世がイングランド議会により廃位され、オランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がウィリアム3世として即位すると、アイルランドのカトリックはジェームズを支援してイングランド王位に復位させようと試みた。
アイルランドはカトリックとプロテスタントに二分して相争ったが、1690年にボインの戦いでジェームズ軍が敗れると、アイルランドでもプロテスタント支配が強化され、カトリック刑罰法も以前に増して厳しく施行されるようになった。
大飢饉
カトリック刑罰法により土地が持てないため、地主はアイルランドに入らず、農業生産品は輸出中心となり、国内消費に必要な農産物は不足した。
イングランドの貿易法によってアイルランドの輸出物が関税をかけられるのに対して、イングランドの製品は無関税でアイルランドに流入した。
1740年代には2年にわたる寒波がアイルランドを襲い、アイルランド大飢饉と呼ばれる飢饉により40万人もの農民が死亡した
グラタン議会
1775年に勃発したアメリカ独立戦争の対処に追われたイギリスは、アイルランドに対して強硬策がとれなくなった。
こうした中、ヘンリー・グラタンにより率いられた党派は、イギリスとの貿易不均衡の改善やアイルランド議会の尊重を訴え、事実上立法権を回復させるなど、アイルランド議会の地位を向上させた。
カトリック教徒解放と連合法
1789年にフランス革命が勃発すると、革命の波及を恐れた英首相ウィリアム・ピットまでが、カトリック教徒の政治参加に理解を示す妥協的姿勢をみせた。こうして、アイルランド議会のプロテスタント勢力は孤立し、イギリスへの完全併合をむしろ必要とするようになった。
カトリック教徒解放という公約を示した上で、1800年にグレートブリテン議会とアイルランド議会で連合法が可決され、翌1801年にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立し、イギリス国王がアイルランド国王を兼ねて、アイルランドは国外植民地としての自主性も失い、完全にイギリスに併合された。
しかし、国王ジョージ3世の強硬な反対などもあり、カトリック教徒解放の公約は留保され続けた。
独立戦争
ナポレオン戦争の終結後、「カトリック教徒協会」を率いたダニエル・オコンネルらの尽力によって1828年に審査法が廃止され、1829年にカトリック教徒解放法が定められた。
1845年から1849年にかけてはアイルランドをジャガイモ飢饉が襲い、アイルランドからのアメリカ合衆国などへの移民を促進させる原因となった。飢饉以前に800万人を数えた人口は、1911年には410万人にまで減少している。
1870年ごろにはプロテスタントの大地主であったチャールズ・スチュワート・パーネルと彼が作り上げた自治同盟はイギリスの首相ウィリアム・グラッドストンと協力して1886年と1893年の2度にわたり自治法導入を図ったが、いずれも上院での反対により失敗に終わった。
マイケル・デイヴィットの率いる土地連盟は1870年頃から地主の所有地を分割し、小作農に分け与える政策を押し進めた。
アイルランド島全体では圧倒的に優勢を占めていたナショナリスト・カトリック教徒が要求する自治に対し、北東部のアルスター6県で多数を占めていたユニオニスト・国教徒は自らの経済的、政治的特権が奪われることを恐れていた。
1914年9月、第一次世界大戦の勃発に際してイギリス議会はアイルランド自治法を成立させたが、アイルランドではナショナリストとユニオニストの両者ともにアルスター地方の分離に反対した。
1916年にはドイツの支援を受けたアイルランド義勇軍によりイースター蜂起が企てられた。
1919年1月21日に開催されたアイルランド共和国議会(ドイル・エアラン)では自らの権限がアイルランド島全域に及ぶと宣言した。
ナショナリストは、1919年から1921年にかけてのアイルランド独立戦争(英愛戦争)でアイルランド駐留英軍に対してゲリラ攻撃を行った。
1921年にアイルランド側代表、イギリス政府は休戦に同意し、12月には英愛条約が調印された。これらの交渉には独立戦争の英雄であるアーサー・グリフィスとマイケル・コリンズなどがあたった。条約により南アイルランドにイギリス連邦下のアイルランド自由国が成立したが、アルスター地方のうち6県は北アイルランドとしてイギリスの直接統治下にとどまることになった。現在も続く北アイルランドの帰属問題は、この条約に始まっている。