ハプスブルク家
スイス発祥
オーストリア家
スイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。
1020年代にクレトガウのラートボトによって現在のスイスに建てられた要塞、ハプスブルク城に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。

オーストリア大公(自称)
1273年、ラートボト伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフがローマ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて「ルドルフ1世」として世に出た。
1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家(オーストリア公国)に任命して一族の権力基盤をウィーンに移す。
一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世が「大公」を自称した。
神聖ローマ皇帝
1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。
マクシミリアン1世はヴァロワ=ブルゴーニュ家への婿入りに近い形で当時のヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)を、その子世代の婚姻関係によってスペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。
さらにカール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。
カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割した。
また、父フィリップ美公や母フアナ女王を通じて相続した所領は1556年に息子フェリペ2世に継がせた。
1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。
こうしてハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれた。

神聖ローマ帝国の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。
主な君主位
神聖ローマ皇帝(断続的に1273年 – 1806年)、ドイツ国王[注釈 3]、ローマ王[注釈 4]
オーストリア君主(オーストリア公として1278年 – 1453年、オーストリア大公として1453年 – 1806年/1918年)
ボヘミア君主(1306年 – 1307年、1437年 – 1439年、1453年 – 1457年、1526年 – 1918年)
ハンガリー国王、クロアチア国王(1526年 – 1918年)
スペイン君主(1516年 – 1700年)
ポルトガル君主(1581年 – 1640年)
ガリツィア・ロドメリア王国君主(1772年 – 1918年)
トランシルヴァニア元首(1690年 – 1867年)