神聖ローマ皇帝

感性と理論

神聖ローマ皇帝

神聖ローマ帝国は、ドイツ王たる皇帝によって統轄された諸領域の呼称で、現在のドイツオーストリアチェコイタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家である。

ドイツ王がローマ王(イタリア王)を兼任してすると神聖ローマ皇帝とみなされるようだ、

本来なら、ローマ教皇から戴冠されてはじめて皇帝を名乗ることができる、

しかし、歴史的には、領邦国家ドイツ国内でローマ王に推挙されるとその時点で、皇帝ということにしている。

ローマ王🟰神聖ローマ皇帝

神聖ローマ帝国という国号は1254年に初めて現れる。

それまでは、中央ヨーロッパの領邦国家の「ローマ教会の皇帝」である。


ローマ「皇帝」の誕生(9〜10世紀)

北イタリアを征服したカロリング朝フランク王カール1世が西暦800年にローマ皇帝として戴冠したことにより西ヨーロッパにおける覇権的君主として成立した。

カールが自ら望んだものではなくカトリック教皇から任命されたローマ教会の皇帝だった。

当時の西ヨーロッパはギリシャのローマ皇帝(東ローマ皇帝)を宗主として仰いでいたが、ローマ教皇はこれを認めず独自の皇帝としてカール大帝を擁立したのである。帝位自体には権能が無く、教皇に認められた実力者に与えられる名誉称号だった。

またローマ皇帝であるからにはイタリア王権を前提とした。

962年に東フランク、すなわちドイツの王であるオットー大帝(912年11月23日 – 973年5月7日)がイタリア王を兼ねて皇帝として戴冠し、ドイツを中心とした中欧連邦国家(のちの神聖ローマ帝国)の初代皇帝となった。

この権威は西ヨーロッパでしか通用せずギリシャの皇帝は西の皇帝をあくまでフランク人(西ヨーロッパ人)の皇帝と見ていた。


大空位時代(11〜13世紀)

オットー大帝以後13世紀シュタウフェン朝断絶以後、帝位は100年近く途絶え、「大空位時代」となり王権・帝権は著しく衰退した。

神聖ローマ帝国という国号が定着するのはこの頃である。

ローマ王位は殆ど世襲されず、異なる家門から国王が選ばれる跳躍選挙の時代となった

1273年、大空位時代の中で選帝侯たちはハプスブルク家ルドルフ1世(1218 – 1291年)を御し易い人物と考えて国王選挙で選出した。

ローマ王であり、ハプスブルク家最初の帝国君主として知られるが、正式な皇帝として戴冠するためのイタリア遠征は実施していない。

神聖ローマ皇帝位は実態を伴わない官職の一つと化し、ドイツ圏には領邦国家、イタリアは都市国家が乱立し、戴冠のためのイタリア遠征もままならなかった。


ルートヴィヒ4世 (14世紀)

ルドルフ1世から続く5代目の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1314年 – 1347年)、神聖ローマ皇帝として正式に戴冠(1328年1月17日〜 1347年)

選帝侯と先帝ルートヴィヒ4世とは1338年の協約によって、選帝侯によって選出されたローマ王は教皇の認可を待つことなく皇帝とみなされることを取り決めていた


カール4世

https://ja.wikipedia.org/wiki/カール4世_(神聖ローマ皇帝)

ルドルフ1世から続く6代目の非世襲ローマ王カール四世は、1354年から1355年にかけてイタリア遠征を行い、サンピエトロ大聖堂においてローマ皇帝として正式な戴冠を受け、教皇インノケンティウス6世との協約をむすぶことに成功した。

200年ぶりに正式に戴冠した上で統治権をフランスへ譲った。

当時はアヴィニョン捕囚期でローマに教皇がいなかったため、枢機卿によって戴冠している。

1356年カール4世金印勅書を発して、国王選挙に参与する選帝侯の地位を固定し、その世襲を明確化した上で選挙によって選ばれた国王がただちに皇帝としての権力を得ると定めた。

カール四世は、フランスやポーランドとの国境問題を解決し、1377年には教皇のアヴィニョン滞在に終止符を打って教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を実現させて自らの声望を高め、神聖ローマ帝国の国際的地位を向上させた。

カール4世は、ルクセンブルク家による事実上の皇帝世襲を企図していたが、選帝侯の買収資金調達のため自治都市に税金をかけたことから反発を受けシュヴァーベン都市同盟が成立、兄弟たちの分割相続でルクセンブルク家は立場を弱めることになった。

その結果、ローマ皇帝位もルクセンブルク家の手から離れ、1438年よりはじまる「ハプスブルク帝国」による世襲化を準備することとなる。


ヴェンツェル

神聖ローマ帝国ローマ王(ドイツ王在位:1376年 – 1400年

1376年のフランクフルトにおける選挙で選帝侯の全員一致でローマ王に選出され、父の後継者として明確に定められた。この時期のローマ王としては例外的に、皇帝およびボヘミア王カール4世(カレル1世)から世襲した。

1379年からローマ王としての親政を開始したが、シュヴァーベン都市同盟との戦争、諸侯の反発によって1400年にプファルツ選帝侯ループレヒト3世(ループレヒト2世の子)がヴェンツェルの廃位を宣言、事実上、ループレヒトがローマ王、ヴェンツェルはボヘミア王となる。

ローマ王廃位後、1402年に対立したジギスムントの手により監禁、ジギスムントと懇意にしていたハプスブルク家への人質としてオーストリアウィーンへ移送される。


ループレヒト3世(ローマ王:1400年 – 1410年)

神聖ローマ帝国のローマ王(ドイツ王、在位:1400年 – 1410年)。

1400年にヴェンツェルが諸侯によって廃された後、マインツ選帝侯ケルン選帝侯トリーア選帝侯の聖界諸侯3人の後押しでローマ王に選ばれた。

実権は聖界諸侯に握られていてループレヒト自身は貧しく正式な皇帝としての戴冠を目指したイタリア出兵には失敗している。

1410年にループレヒトが死去、ヴェンツェルの異母弟ジギスムントと従兄弟のヨープストがローマ王候補者に並び立ったが、翌1411年にヨープストが急死したためジギスムントがローマ王となった。


ジギスムントローマ王:1410年 – 1437年、皇帝:1433年 – 1437年)

1368 – 1437年、ルドルフ1世から続く9代目の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1410年 – 1437年)、ルクセンブルク家として4人目で最後。

バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対抗。

1402年、ジギスムントは後継者としてハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト4世を指名した。

ジギスムントは、ローマ教皇を保護することで皇帝権力の強化を目指した。

この頃、ローマ教会は複雑な対立から分裂していたが(教会大分裂)、ジギスムントは1414年コンスタンツ公会議を開催して、ローマ教会の再統一を果たした。

1433年5月31日にローマ皇帝として戴冠し、神聖ローマ帝国皇帝1433年 – 1437年)となる。

1437年、ジギスムントの死により、ルクセンブルク家の男系男子は絶えた。


アルブレヒト2世(ローマ王:1438〜1439年、ハプスブルク家

ルドルフ1世から続く10代目にして最後の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1438年 – 1439年)

ジギスムントの一人娘エリーザベトの婿、かつて後継者に指名したアルブレヒト4世の息子。

ハプスブルク家では4人目の王だが、ローマ王としても皇帝としても正式に戴冠していない。

2年後の1439年に病没。


ハプスブルグ家

ハプスブルク家の当主、オーストリア公ルドルフ4世(1339年11月1日 – 1365年7月27日)は、それまで存在すらしなかったオーストリア「大公」を名乗っていた。ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治する。

1440年、アルブレヒト2世を継いだハプスブルク家の又従弟フリードリヒ3世が長命を保ち世襲王朝樹立に成功したため、結果的にこのアルブレヒト2世からハプスブルク家が王位・帝位を保持していることになった。

1452年3月16日、フリードリヒ3世はローマで教皇ニコラウス5世によって、ポルトガルドゥアルテ1世の王女で15歳のエレオノーレと結婚式を執り行う。そして3月19日、教皇の手により戴冠した。

神聖ローマ帝国の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。


マクシミリアン一世(ローマ王:1493年 – 1508年、皇帝:1508年 – 1519年)

1486年2月16日、フリードリヒ3世はマクシミリアンに公の役職を確保すべく選帝侯を説得、フランクフルト聖バルトロメウス大聖堂で行われた、ベーメン王を除く6人の選帝侯の投票により、神聖ローマ帝国の後継者ローマ王に選出され、同年4月9日にアーヘンで戴冠式を行った。

1508年、神聖ローマ帝国史上初めてローマで戴冠式を挙げることなく選ばれしローマ皇帝を名乗り以後のローマ王もこれに倣い皇帝を称した。

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