七年戦争

感性と理論

七年戦争

https://ja.wikipedia.org/wiki/七年戦争

https://en.wikipedia.org/wiki/Seven_Years%27_War

https://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html


ハプスブルク家

1713年、オーストリア神聖ローマ皇帝カール6世は、オーストリア=ハプスブルク家の家督継承の原則としてプラグマティッシェ=ザンクチオン(家督相続法)を定めた。それにはハプスブルク家の領土の不可分と、男子のいない場合の女性の家督相続を認め、カール6世の次の家督を長女マリア=テレジアに継承させることを可能とした。

ヨーロッパ諸国はこの原則をいったんは認めたが、カール6世が没すると、まずプロイセン王国フリードリヒ2世がマリア=テレジアの相続の条件としてシュレジェン(機業・鉱産業が盛ん)の割譲を主張した。

オーストリア=ハプスブルク家の弱体化をねらうフランスのブルボン朝ルイ15世は、プロイセン・バイエルンなどに同調し、反ハプスブルク家の立場から対抗した。


オーストリア継承戦争

1740年,プロイセン王国フリードリヒ2世は、オーストリア領のシュレジェンに侵入して戦闘が始まった(第1次シュレジェン戦争)

1741年、プロイセン軍が勝利したのを見たフランスは、プロイセンに同調、ザクセン、バイエルンとの連合軍はオーストリア領ベーメン(ボヘミア)に侵入してプラハを占領、プロイセンはメーレン(モラヴィア)に侵出した。

1742年、プロイセンとフランス、ザクセンが後押ししたバイエルン公選帝侯のヴィッテルスバッハ家カールが神聖ローマ皇帝に選出されカール7世となり、オーストリアはやむなく、ブレスラウでの和議に応じ、シュレジェンのプロイセンへの割譲を認めた。

1745年、プロイセンが支持していたヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝カール7世が病死し、ハプスブルク家が皇帝に戻る動きが出た。(第2次シュレジェン戦争)

再びプロイセン軍が勝利し、ドレスデンの和約を締結、オーストリアはプロイセンのシュレージェン領有を再び認め、プロイセンはオーストリアのフランツ(マリア=テレジアの夫)に、皇帝選挙で賛成票を投じることなどを約束した。


スペイン戦争

オーストリア継承戦争と並行して、イギリスは、スペインと西インド諸島でジェンキンズの耳戦争、フランスとは北米大陸でのジョージ王戦争とインドでのカーナティック戦争を展開し、戦いを有利に進めていた。

オーストリア継承戦争におけるフランスのプロイセン支援も動きが鈍くなった。

またオーストリアもイギリスの直接支援はなかったものの、経済支援が続いたので次第に盛り返した。

一連の戦争は1748年のアーヘンの和約によって終結した。


七年戦争(1756〜63年)

オーストリア継承戦争で敗れシュレジェンを失ったオーストリアのマリア=テレジアは、シュレージエンプロイセンから奪回しようとした。

1754〜56年、イギリスがフランスの北アメリカ植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻拿捕したことではじまった。

1756年、17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家ブルボン家同盟を結び(外交革命)、プロイセンを孤立させた。

フランス(ブルボン朝ルイ15世)は、オーストリアを支援、スペインロシアスウェーデンも同調した。

イギリスは植民地でフランスと激しく対立していたのでプロイセン側についた。

イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスオーストリアロシアスペインスウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦した。

戦争は1763年、フランス・スペイン・イギリス間のパリ条約とザクセン・オーストリア・プロイセン間のフベルトゥスブルク条約で終結した。

イギリスは北アメリカのヌーベルフランスの大半、スペイン領フロリダ西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得した。

プロイセンフリードリヒ大王はシュレージエンの領有を確実なものとし、この戦争で大幅に威信を高め、欧州列強の一角を占めるようになった。

フランスは多くの植民地を失った上、巨額の債務を抱え込む結果となり、元々脆弱だった財政をさらに悪化させた。

スペインはフロリダを失ったがフランス領ルイジアナを獲得し、それ以外の植民地であるキューバフィリピンは一時イギリスに占領されたものの、和約により返還された。

フランスとスペインは1778年にアメリカ独立戦争に参戦することでイギリスに報復し、その覇権を一挙に潰そうとした。

墺仏の外交革命は英普側が勝利したことで水泡に帰し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変えることとなった。

戦争はヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、19世紀のパクス・ブリタニカ、プロイセンのドイツにおける地位の上昇、アメリカ合衆国の独立フランス革命の遠因となった。

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