ニューファウンドランド島

感性と理論

ニューファウンドランド島

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニューファンドランド島

カナダにおけるニューファンドランド・ラブラドール州(赤色部分)

ニューファンドランドの初期の住民は、ヨーロッパ人到達時に住んでいたベオスック族英語版)の祖先に当たる民族集団だったと推測される。

ヨーロッパ人と北米先住民の最初の衝突は、1006年ごろ、ノース人ヴァイキング)が現在のランス・オ・メドー国定史跡(ノース人らの一団が恒久的な入植地を建設しようとした海岸沿いの地)の周辺で起こっている。

ノース人の放棄後、500年間にわたりヨーロッパ人の来訪がなかった。

1497年イタリア人の探検家ジョン・カボットのヨーロッパ人到来の第二波では、ベオスック族との間に交渉が成り立った。

英語の名前「Newfoundland」(ニューファンドランド、新しく見つかった土地)も1502年の書簡に最初の使用が認められ、カナダ最古のヨーロッパ人起源の地名の一つである。

1610年7月5日、ブリストルの商人ジョン・ガイ(John Guy)はブリストルを発ち、39人の植民者とともにニューファンドランド島南西のクーパーズ・コーヴ(Cuper’s Cove)に到達した。

1620年までにイングランド西部の漁民はニューファンドランド島東海岸のほとんどから他国民を締め出したが、フランス人漁民は島の南岸および北の半島部を確保し続けた。

17世紀末、アイルランド人の漁師たちはこの島に「魚の島」あるいは「魚の土地」という意味の「Talamh an Éisc」という名をつけた。

1690年代、フランスが英仏間で境界をめぐる問題となっていたアカディア周辺を攻撃した時にニューファンドランド諸港も攻撃され、イギリスはスペイン継承戦争の最中の1702年にニューファンドランドとその周辺に海軍を送り(ニューファンドランド遠征)、フランス入植地を壊滅させた。

1713年ユトレヒト条約でニューファンドランドはイギリス領となった。

フランスが北米植民地から撤退することとなったパリ条約 (1763年)の後、フランス人は島南部と北部の海岸の支配権をイギリスに譲渡した。

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