フランク王国

感性と理論

フランク王国

https://ja.wikipedia.org/wiki/フランク王国

5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国


ゲルマン人のローマ侵入

ローマ人ライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。

ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、358年ブラバント北部のトクサンドリア地方英語版)への移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった。

400年から440年まで、フランク人の領土変遷

ゲルマン諸部族をローマの同盟軍としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。

ガリア南部からイベリア半島にかけては西ゴート王国[10]ウォルマティア(ヴォルムス)の周囲にはブルグント王国が形成された。

ガリア北西部にはサクソン人が移住したほか、ケルト系ブルトン人ブルターニュ半島に移住を進めつつあった。


メロヴィング朝

ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。

フランドルを支配していた小国の王クローヴィス1世465年 – 511年、在位481年 – 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いた。

クローヴィスの改宗

496年クローヴィス1世カトリック教徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたアリウス派キリスト教(異端宗派)から、家臣4,000名とともに正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗した。これによって旧西ローマ帝国貴族の支持を得、領内のローマ系住民との関係も改善された。


分裂

クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した

分割後のメロヴィング朝フランク王国(600年ころ)

王朝の終焉

7世紀後半から王国の行政および財政を取り仕切る宮宰(きゅうさい, major domus)に実権が移ってゆく。とくにアウストラシアカロリング家をはじめネウストリアブルグント三分国(地域)の宮宰が著しく台頭した。

751年にマルテルの子、ピピン3世(小ピピン)がローマ教皇の支持を得てカロリング朝を開いたことで、メロヴィング朝は終わった。

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