ロバート一世(スコットランド王)

感性と理論

ロバート一世(スコットランド王)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート1世_(スコットランド王)

在位:1306 – 1329年

イングランド王国に対する独立戦争においてスコットランドを率いることとなった最も偉大なスコットランド国王、国民的英雄として記憶されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/スコットランド君主一覧

ブルース家ロバートはウィリアム1世の弟ハンティンドン伯デイヴィッドスコットランド王デイヴィッド1世の次男で王位継承者ヘンリーサリー伯爵ウィリアム・ド・ワーレン英語版)の娘エイダの三男。スコットランド王マルカム4世およびウィリアム1世の弟。)の次女イザベルの孫にあたる。

ロバートは父方を通じてスコットランド王位を請求することが出来る血筋を引いていた。


スコットランド独立戦争

1290年、スコットランドのアサル王家が絶え、13人の王位請求者が乱立した。

この紛争に調停者として介入したイングランド国王エドワード1世は、1292年11月、「スコットランドの守護者」 (Guardian of Scotland、1286年から1292年まで、1296年から1306年までスコットランド王国を統治した摂政)を代表する形で、ジョン・ベイリャル(在位:1292年 – 1296年) にスコットランド王位を授けたが、ブルース父子はジョンを簒奪者と見做し、忠誠を誓ってはいなかった。

ジョン・ベイリャルは1294年フランスへの兵員動員を拒否し、フランスフィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結美、イングランド王に対する臣従を拒否した(スコットランド独立戦争)。

1296年8月、ロバート親子はベリック・アポン・ツイードでエドワード1世に対して臣従の誓いをしたものの、カーライルで更新する際にこの宣誓は破棄、エドワード1世に対するスコットランドの反乱を支援した。

1296年、ジョン・ベイリャルは、北部イングランドへ侵攻したが、エドワード1世にダンバーで大敗し英語版)、スコットランド王位を廃位、、長男エドワードとともにロンドンに送られ、3年間ロンドン塔に幽閉された。

スコットランド全土はエドワード1世の従属下におかれ、ウィリアム・ウォレスを除く全スコットランドの指導者が1304年に降伏した。

「スコットランドの守護者」 1296年から1306年までスコットランド王国を統治した摂政)ジョン・カミンもまたエドワード1世に服従した。


スコットランド王位継承

アレグザンダー3世により制定されたスコットランドの法と権利その他は、エドワード1世の承諾とスコットランド貴族の助言のもとで変えることが必要とされた。

スコットランド側が防備を固めたことで、エドワード1世は王国としてのそれを破壊することにした。

ウィリアム・ウォレスグラスゴー付近で捕えられ、1305年8月23日ロンドン四つ裂きの刑に処せられた。

ロバートは、スコットランドでは広大な領地と財産を、イングランドでは男爵領と幾つかの小規模な財産を保持するようになり、スコットランド王位を請求しうる最有力者となった。

ロバートの野心の障害となったの、父方からはドナルド3世の、母方からはディヴィッド1世 の血を引き、ジョン・ベイリャルの甥でもあったジョン・カミンであった。

1306年2月10日、ロバートは反イングランド闘争のためにカミンの支持を望んでいたが、カミンの同調が得られそうになかったために反乱計画が漏れるのを恐れ、ダンフリーズの修道院に付属する教会の高い祭壇の前で、ジョン・カミンを殺害した。

暗殺されるカミン

1306年3月25日、ロバートはウィリアム・ドゥ・ランバートン司教 (William de Lambertonからスコットランド王位の王冠を授けられた。


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