プロイセンの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/プロイセン
1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国(首都:ケーニヒスベルク)、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領(首都ベルリン)を起源とする。

1415年、ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク辺境伯としてはフリードリヒ1世)が神聖ローマ皇帝ジギスムント(カール4世の次男、ヴェンツェルの異母弟)からブランデンブルク辺境伯領を獲得し、ベルリンを居城とした。
ホーエンツォレルン家は17世紀前半の三十年戦争の頃から台頭し始め、神聖ローマ帝国内における社会的、経済的な立場が非常に弱かったにもかかわらず、ブランデンブルク辺境伯領は帝国内において重要な州に発展し権力を強化していった。

1618年にはヨーハン・ジギスムントが婚姻関係によって神聖ローマ帝国の領域外かつポーランドの封土であるプロシア公領を手に入れ、同君連合ブランデンブルク=プロイセンを形成した。

1701年、フリードリヒ3世はスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に付き、その見返りにハプスブルク家から帝国外のプロシア公領の王としての称号を認めさせ、プロイセン王国が成立した。
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王国の初代君主フリードリヒ1世となった。
ドイツ統一(ドイツ帝国)の中核となったプロイセン王国は、現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。
プロイセン王国の領域は、ホーエンツォレルン家の世襲したブランデンブルク辺境伯領(厳密な意味ではブランデンブルクその他の帝国内の領地は王国には含まれない)と旧プロイセン公国、そのほか若干の各地に散らばったいくつかの小さな領地を合わせたものだった。
軍国プロイセンの発展
初代君主フリードリヒ1世はユグノーに影響されてルイ14世に倣った華美な生活を愛した。そのため彼の浪費は常に国庫を圧迫し続けた。
18世紀初頭、1713年に即位した「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、極端な倹約政策をとり、宮廷費を8割削減し、剰余金をすべて軍事費に振り向けた。
また、フランスから亡命してきたユグノー(カルヴァン派プロテスタント)たちを有利な条件で誘致したり、輸出入を管理して国内産業の保護に努めた。
1740年に即位した「大王」フリードリヒ2世も、王立銀行の設立やユグノーの受け入れによって経済的に発展し、軍備を増強、オーストリアとの二度の戦争を勝ち抜いた(オーストリア継承戦争と七年戦争)。
1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレージエンの領有が確定する。


プロイセンはフランス革命へ干渉したことで、フランスから有利な講和を引き出していた。
後をついだフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代もプロイセン王国は成長を続けたが、19世紀にはいりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の治世になると、ナポレオンの軍門に下ることになる。
ナポレオン戦争
ナポレオンはロシアとの関係悪化にともなってプロイセンを味方につけようとした。
しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の優柔不断は平和維持に固執し、ナポレオンの怒りを買ってその進軍を招いた。
1806年7月9日にイェーナとアウエルシュタットでプロイセン軍は常勝ナポレオン軍に敗れた。
1807年7月7日に結ばれたティルジット条約で、領土の半分を失った。

反動と弾圧
1815年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、メッテルニヒの影響によって反動姿勢を強め、ブルシェンシャフト運動を弾圧した。
1819年、カールスバート決議に基いて民族主義を唱える学生たちを弾圧、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(英語版)やエルンスト・モーリッツ・アルント、フリッツ・ロイターなどの自由主義者を投獄するよう命じている。
現代

1947年、戦勝国は軍国主義の温床としてプロイセン解体を宣言し、ソ連占領地域のブランデンブルクは、ブランデンブルク州(ラント、Land Brandenburg)と改名された。
