ノルマン朝の断絶とヘンリ2世

感性と理論

ノルマン朝の断絶とヘンリ2世

ヘンリー2世は、12世紀のイングランド王であり、プランタジネット朝の創始者です。

ヘンリー1世

ヘンリー1世は、ノルマン朝の最後の王であり、ヘンリー2世の祖父です。彼は1100年から1135年までイングランドを統治しました。

ヘンリー1世の統治は比較的安定しており、法の支配の強化や行政の改革に取り組みました。彼は王国の経済発展にも努め、商業や銀行業の発展を支援しました。また、彼はイングランドとノルマンディーの両地域の統治者として活動し、その統治力を強化しました。

ヘンリー1世の男子

ヘンリー1世には男子がいくつかおり、その中にはウィリアム・アドリンゲット(William Adelin)という息子も含まれていました。ウィリアム・アドリンゲットはヘンリー1世の唯一の男子であり、王位継承者として期待されていました。

しかし、ウィリアム・アドリンゲットは船舶事故により1120年に亡くなりました。

彼の死はヘンリー1世にとって大きな打撃となり、王位継承者問題を再び浮上させることとなりました。

ヘンリー1世の直系男子が亡くなったことで、事実上、ノルマン朝直系は三代(ウィリアム1世、ウィリアム2世、ヘンリー1世)で断絶しました。

ヘンリー1世の後継者問題

ヘンリー1世の後継者として、彼の娘であるマティルダ女王が期待されていました。彼女はヘンリー1世の意向により、王位継承者となることが予定されていました。

しかし、フランク王国の伝統を引き継ぐノルマン朝には、「サリカ法」が存在していました。

サリカ法

サリカ法(Salic law)は、フランク王国での法体系の一つです。この法典は、フランク人(サリア人)の部族に由来し、男系相続を基本とし、女性が王位を継承することを禁じています。

この法体系は、フランク王国の支配者が男性による王位継承を重視した結果として形成されました。

サリカ法の起源は古く、フランク王国のメロヴィング朝時代に遡ります。この法体系は、メロヴィング朝の王たちの血統を保護するために生まれました。男系相続の原則が確立されることで王位の継承が安定し、王権の強化につながったとされています。

つまり、サリカ法では男性のみが王位継承者となることが認められており、女性であるマティルダは王位を継承する権利を持ちません。

マティルダ女王は、ヘンリー1世の娘であり、彼の意向により王位継承者となることが予定されていました。しかし、サリカ法により、彼女の王位継承は認められませんでした。

マティルダ女王の父であるヘンリー1世は、自身の王位継承に関する問題を経験しており、マティルダ女王の王位継承を確実なものにするために、マティルダをノルマンディー公ウィリアム1世の男系子孫であるプランタジネット家のジョフリーと結婚させました。マティルダに男子が生まれれば、ノルマン朝の傍系男子が王位を継承しその正当性を主張できると考えました。

しかし、ヘンリー1世の死後、マティルダ女王と彼女の従兄弟であるスティーブンが王位を巡って争いを始めました。

スティーブン王の主張

スティーブン(Stephen)は、ヘンリー1世の甥であり、ノルマン朝の最後の王であるヘンリー1世の妹アデラ(Adela)とアンジュー伯ジョフロワ5世(Geoffrey V of Anjou)の息子として1096年に生まれました。

幼年期は母方の叔父であるイングランド王ヘンリー1世の宮廷で育てられました。

スティーブン王は、自身が正統な王位継承者であると主張しました。彼はサリカ法に基づき、女性であるマティルダ女王の王位継承を否定しました。

スティーブン王は、ヘンリー1世の唯一の男子子孫として王位にふさわしいとその正当性を主張しました。

主な正当性の主張は、彼がノルマン朝の王族であること、自身がノルマン朝の最後の王であるヘンリー1世の甥であること、および父親のシュテファン・オブ・ブロワからブロワ伯爵の称号を継承していたことに基づいていました。

彼の王位継承に対する主張は、以下の点に焦点を当てていました:

  1. ノルマン朝の王族の出自: スティーブンはノルマン朝の王族であり、ノルマンディー公ウィリアム1世(後のウィリアム征服王)の曾孫である。この王家の血統を通じて、彼はイングランド王家に続く正当な継承者であると主張しました。
  2. 父の称号と領地の継承: 彼の父であるシュテファン・オブ・ブロワはブロワ伯爵の称号を有しており、この称号はスティーブンに継承されました。これにより、スティーブンはノルマンディー公の血筋だけでなく、フランスの貴族としての地位も持っていたことをアピールしました。
  3. 王位の空位と相続権: ヘンリー1世の死後、王位は男子の相続人がおらず、ヘンリー1世の娘であるマティルダ(またはマウダ)との間で王位継承を巡る紛争が勃発しました。スティーブンは、王位が空位であることと、自身が王家の一員であることから、王位に就く正当性を主張しました。

スティーブン王の主張は、当時のイングランドにおいて激しい政治的な論争を引き起こしました。

これに対抗して、マティルダは母親アデラの血統を通じて王位を主張し、この紛争が「アンアッセンションの混乱」として知られる内戦を引き起こしました。

彼の主張には支持者もいましたが、マティルダ女王の支持者も多く、イングランドはスティーブン王とマティルダ女王の支持者による内戦状態に陥りました。

スティーブン王は、自身の主張を強化するために様々な手段を講じました。彼は貴族や教会の指導者との同盟を築き、彼らの支持を得ることで王位継承を確実なものにしました。また、彼は自身の統治において法の支配を重視し、法廷改革を行うことで国内の統治を強化しました。

無政府時代

しかし、スティーブン王の統治は不安定さを克服することができず、内戦は続きました。彼の王位継承に対するマティルダ女王の主張は根強く、彼女がイングランドに最初に侵攻したのは、1139年から1141年の間でした。彼女の侵攻はスティーブン王の統治に対抗するためであり、戦争の発端となりました。

ノルマン朝の無政府時代は、12世紀初頭のイギリスにおける政治的な混乱の時期を指します。この時期は、ノルマン朝の最後の王であるスティーブン王の統治期間に起因します。

内戦は「スティーブンとマティルダの戦争」とも呼ばれ、長期にわたって続きました。イングランドは政治的な混乱と不安定さに見舞われ、国内は分裂しました。スティーブン王の統治は不安定であり、法の支配や統治力の弱さが問題となりました。

スティーブンとマティルダの合意

このような政治的な混乱と内戦の時期がアンアッセンションの混乱と呼ばれています。

この混乱は、スティーブンとマティルダが合意するまで続き、ノルマン朝(スティーブン王一代のブロワ朝を含む)の終焉と新たな支配体制の確立につながりました。

この合意は、内戦を終結させ、イングランドに安定をもたらすことを目的としていました。

  • スティーブン王は王位を保持し、統治を続けることができます。
  • マティルダ女王はスティーブン王の後継者となり、彼の死後に王位を継承します。
  • 両者は相互に忠誠を誓い、内戦を終結させるために協力します。

結局、スティーブンとマティルダの対立は一時的なものであり、1153年にヘンリー・フィッツエンピース(後のヘンリー2世)が誕生すると、スティーブンはヘンリー2世を王位継承者として認めることで紛争が終息しました。

スティーブンの息子であるエティエンヌ(後のヘンリー2世)とマティルダの息子であるヘンリー・フィッツエンピース(後のヘンリー2世)がワラミューの条約(またはワラミューの和議)を締結しました。

1154年、スティーブンの亡くなるとヘンリー2世が王位に就き、ヘンリー2世はヘンリー1世とマティルダの孫であるとして、ヘンリー1世の王位継承問題が解決された形となります。

プランタジネット朝の成立

アンアッセンションの混乱は、ヘンリー2世の王位継承に依って治まり、プランタジネット朝の成立に繋がりました。

ヘンリー2世の統治によってプランタジネット朝イングランドは統治の安定を取り戻しました。彼の統治により、中央集権化が進み、法の支配が強化されました。

ヘンリー2世の統治

彼は強力な支配者であり、イングランドの中央集権化を推進しました。

ヘンリー2世は、法の支配を重視し、イングランドの法体系の発展に貢献しました。彼は法廷改革を行い、王の裁判権を強化し、中央政府の権力を拡大しました。また、彼は法の統一を図り、地方の法廷の統制を強化しました。これにより、イングランドの法体系は統一され、より効率的な司法制度が確立されました。

ヘンリー2世はまた、トマス・ア・ベケット大司教との対立で有名です。彼はベケットを大司教に任命したものの、ベケットが王の権威に逆らったため、対立が生じました。この対立は後のキリスト教の歴史に大きな影響を与えました。ヘンリー2世は、ベケットの暗殺を命じたという噂もありますが、真相ははっきりしていません。

後継者問題

ヘンリー2世と子供たちとの紛争は、ヘンリー2世の後継者問題に関連しています。彼は複数の子供たちを持ちましたが、彼らの間で王位継承に関する争いが勃発しました。特に有名なのは、ヘンリー2世の長男であるリチャード獅子心王と次男のジョン王の対立です。

リチャード獅子心王は、ヘンリー2世の後継者として期待されていましたが、彼の父との関係は複雑でした。ヘンリー2世は、リチャードを王位につけることを望んでいましたが、同時に彼の権限を制限することも考えていました。このため、ヘンリー2世とリチャードの関係はしばしば緊張したものでした。

一方、次男のジョン王は、ヘンリー2世との関係がより複雑でした。彼はヘンリー2世のお気に入りではなく、父からの承認を得ることが難しかったと言われています。ヘンリー2世は、ジョンに対してリチャードよりも王位に近い立場を与えないようにしました。

このような状況下で、ヘンリー2世の統治の後期にリチャードとジョンの対立が激化しました。リチャードはフランスへの遠征や第三回十字軍に参加するなど、父の影響を受けずに独自の行動をとりました。一方、ジョンは王位継承を巡る野心を持ち、王位につくために様々な策略を巡らせました。

ヘンリー2世の死後、リチャード獅子心王が王位を継ぎましたが、ジョン王はその後の王となりました。しかし、兄弟間の対立は継続し、ジョン王の統治は不安定なものとなりました。彼は財政的な問題やフランスとの戦争に直面し、国内外での支持を失いました。

ヘンリー2世と子供たちとの紛争は、ヘンリー2世の統治の最後の数年間において重要な要素でした。この紛争は、王位継承を巡る権力闘争や個人的な対立が絡み合い、イングランドの政治的な混乱や内戦を引き起こしました。

ヘンリー2世の統治は、イングランドの法体系の発展と中央集権化の促進に重要な役割を果たしました。彼は強力な支配者として、王の権限を強化し、国内の統治を統一しました。彼の統治により、イングランドはより統制された国家となり、法の支配が確立されました。彼の功績は、イングランドの歴史に多大な影響を与えました。

 

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