ヘロドトス「歴史」

著 者 ヘロドトス(Herodotus)
底 本 松平千秋「歴史」
URL ペルセウス・デジタル・ライブラリー

目 次

第一巻 クレイオの巻

序 本書の位置付け

本書はハリカルナッソ(1)出身のヘロドトスが、 人間の功業が時の経つうちに忘れ去られるようなことがないように、また、ギリシア人や異邦人バルバロイ の果たした偉大な驚嘆すべき事績の数々、とりわけ、両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情が世の人に知られなくなるのことのないように、自ら研究調査したところを書き述べたものである。

(1) ハリカルナッソス

ハリカルナッソスは小アジア(現在のアナトリア半島)南部カリア地方の都市。

なお写本は一致してハリカルナッソスの読みを採用しているが、Aristot. Rhet.ⅲ 9 に引用された「トゥリオイ出身の」の読みを本来とする学者も少なくない。

ヘロドトスがアテナイから南伊トゥリオイに移住した事実に基づくものであろう(cf. Plut. Mor. 605)

アナトリア半島
小アジア
カリア地方
アテナイ

ペルシア人とギリシャ人の争い

1 フェニキア人のアルゴス王女掠奪

ペルシア側の学者の説では、争いの発端を成したのはフェニキア人であったという。

それによれば、フェニキア人はいわゆる「紅(2) 」からこちらの海に移ってきて、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、たちまち海洋航海に乗り出し、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を廻ったが、アルゴスへもきたという。

当時このアルゴスは、今日ヘラス(ギリシア)と呼ばれている地域にある国々の中では、あらゆる点でもっとも強大な国であった。

さてフェニキア人はそのアルゴスに着くと、積荷の商品をさばいていたのだが、到着後数日して、商品も大方売り尽くしたところに女たちが大勢やって来て、その中にアルゴスの王女も混じっていたのであった。

王女はギリシア側の説と同じく「イオ」という名前であったという。

女たちは船尾のそばに立ってそれぞれ一番欲しい物を買っていたのであるが、その時、フェニキア人は互いに示し合わせて、女たちに襲いかかったのであった。

たいていの女たちは逃れたのであるが、王女イオは他の何人かの女たちと共に捕らえられたのである。

フェニキア人は女たちを船に乗せると、エジプト目指して出帆してしまった、というのである。

(2) 紅海

ここにいう「江海」は今日慣用の語より広義で、紅海のみならずアラビア湾、ペルシア湾をも含む。

「南の海」と呼ぶこともある。

これに対して次の「こちらの海」は、いうまでもなく「地中海」を指す。

地中海より東の海はアラビア湾まで「紅海」と呼ばれていた
2 ペルシアとギリシャの争い

 ギリシア側の伝えるところはこれとは異なるのだが、ともかく、ペルシア人の話によると、こうして王女イオがエジプトに行き着いたのであって、これが争いの発端であるという。

つまり、このことが発端になって、名前は誰とは言えないけれども、アルゴスのギリシア人たちがフェニキアのテュロスに侵入して、王の娘である王女エウロパを掠奪して連れ去ったということである。

このギリシア人というのはおそらくクレタ人のことだと思うが、ともかく、これで仕返しも済んだということになる。

しかしその後、ギリシア人が二度目の悪事を犯すことになったのだという。

というのは、ギリシア人が軍船に乗ってコルキス地(3)のアイアに行きパシス川に達し、当初の目的を果たし終えた後で、王女メディアを掠奪したのだといういう。

コルキスの王はギリシアへ使いをやって、王女の掠奪の賠償と返還を要求した。

ところがギリシア人は、アルゴスの女王イオを奪った時にそちらでは何の賠償もしなかったのであるから、こちらだって賠償するつもりなどないと答えたという。

(3)

コルキスは黒海東岸の地方名。この事件はいうまでもなく、イアソンによる「アルゴー船遠征」の物語を指す

3 アレクサンドロス(パリス)

そしてその後、次の世代になってから、プリアモスの子アレクサンドロス(パリス)が、これらの話を聞いていて、ギリシア人も賠償しなかったのだから自分もせずに済むだろうと思い込んで、ギリシアから女を掠奪して妻にしようと思いたったのだと、ペルシア人が伝えている。

こうしてアレクサンドロスがヘレネを奪んわい去った後、ギリシア側は先ず使者を送り、ヘレネの返還を求め、掠奪に対する賠償を請求することにした。

しかし、ギリシア側の申し出に対して、アレクサンドロス側は、メディアの例を持ち出して、自分では返還に応じもしなければ賠償もしないでおきながら、他からは反対に賠償させようとしていると、ギリシア側をなじったそうである。

4 トロイア戦争

まあ、ここまではお互いに奪ったり奪われたりしただけにすぎなかったのであるが、これから後はギリシア側が悪いのだという。

というのは、ペルシアがヨーロッパへ侵入するより前に、ギリシア人がアジアへ攻め込んだからだというのである。

そもそも、女を掠奪するというのは悪いことに違いないけれども、そんなことにむきになって報復しようなどというのは愚か者のすることであって、賢者ならば掠奪された女などのことは少しも意に介さないし、まして、女の方にまったくその気がないのならば掠奪されるはずもない、というのである。

ペルシア人の言い分では、アジア側は掠奪された女のことなど問題にしなかったのに、ギリシア人の方はスパルタ女のために大軍を集め、アジアに侵攻してプリアモスの国を滅ぼしてしまったのである。

つまり、ペルシア人がギリシア人を仇敵とみなすようになったのは、このとき以来だという。

それというのも、ペルシア人はアジアとアジアに住む非ギリシア諸民族を自分に属するものとみなしており、ヨーロッパやギリシアは、それらとは別のものだと考えているからである。

ペルシア人の伝えるところでは、ことの次第は以上の通りであって、イリオス(トロイア)の攻略が原因で、ペルシア人ギリシア人に対する敵視が始まったのだと見ている。

5 フェニキア人の伝聞

ところで、イオについてフェニキア人の伝えるところでは、ペルシア人のそれとは異なっている。

つまり、フェニキア人はイオを掠奪してエジプトへ連れて行ったのではなく、イオはアルゴスにいる時、例の船の船長といい仲になっていたのだという。

ところが、自分が妊娠していることに気がつくと、両親の手前を恥じ、自分のことが露見しないようにと自ら進んでフェニキア人と一緒に出帆したのだというのである。

以上がペルシア人とフェニキア人の伝えるところである

しかし私は、どの事実が正しいかというようなことを論ずるつもりはなく、ただ、ギリシア人に対する悪事の発端を切った人物を私自身がよく知っており、その人物の名前をここに挙げて、人間の住む国々のことを、大小問わずもれなく述べながら話を先へ進めたいのである。

というのは、かつて強大を誇った国の多くが今や弱小となり、今は強大なものとなっていても以前には小さかったものもあるからである。

とにかく私は、人間の幸福というものが、決して不動安定したものではなく盛者必衰の理を承知しているからであり、大国にも小国にも等しく言及したいのである。

カンダウレスの妃

6 クロイソス王まで

クロイソス(Κροῖσος)はリュディア人で、アリュリアッテス(Ἀλυάττης)の子であり、南ら北へ流れて黒海へ注ぐハリュス川の西側諸民族の僭主であった。

このクロイソスこそ、我々の知る限りでは、ギリシア人を制圧して、あるいは貢物を納めさせたり、あるいは友好関係を結んだりした最初の異邦人であった。

服従させたのはアジア人のイオニア人、アイオリス人、ドリス人であり、友好国として味方にしたのはスパルタ人である。

クロイソス以前にもキンメリア人がイオニアを侵略したことがあったが、これ都市を服従させたというより単なる略奪に過ぎなかった。

だから、クロイソスが支配するまでは、全てのギリシア人は自由だったのである。

7 ヘラクレイダイ一族

ヘラクレイダイ(Ἡρακλειδέων)一族の握っていた支配権が、メルムナダイ(Μερμνάδας)家と呼ばれるクロイソスの一門に移ってきたのは次のとおりである。

カンダウレス(Κανδαύλης)、はサルディスの僭主(τυραννεύω)であり、ヘラクレオス(Ἡρακλέος)と奴隷女イアルダノス(Ἰαρδάνος)の子、アルカイオス(Ἀλκαίου) の子孫であった。

アルカイオスの子ベル(Βήλου)の子ニヌス(Νίνου)の子アグロン(Ἄγρωνος)が、サルディスの最初のヘラクレイダイの王であり、カンダウレスはミュルソス(Μύρσος)の息子(ギリシア人はカンダウレスをミュルシロス"Μυρσίλος"と呼ぶ)で、ヘラクレイダイ最後の王であった。

アグロン(Ἄγρωνος)が支配していたこの地の人々は、アトュス(Ἄτυος)の子リュドス(Λυδοῦς)の子孫と言われ、そのリュドスに由来して、この国の全住民はリュディア人と呼ばれるようになった。それ以前はメイオス(Μηίως)と呼ばれていた。

ヘライクレイダイ一族は、ヘラクレオスが神託に基づいて支配権を得てからカンダウレスまで父から子へと二十二代にわたり支配権を引き継ぎ、合計で五〇五年の間リディアを統治した。

8 ギュゲスの災難

このカンダウレス王は、自分の妻を溺愛するあまり、この世の中で自分の妻が最も美しいと信じていた。

そして自分の護衛の中で最も気に入っていたダスキュロス(Δασκύλου)の息子ギュゲス(Γύγῃ)に、重要な事柄を任せていただけでなく、自分の妻の容姿を過度に褒めちぎっていたのである。

その後間もなくして、——というのも、カンダウレスには不幸が訪れる運命だったのだが——彼はギュゲスにこのように言った。

「ギュゲスよ。お前は、私がどんなに妃の容姿について話しても、信じていないようだな。——百聞は一見にしかずということでもあるから——、ひとつ私の妃が着物を脱いだところを見てみるがよい」

ギュゲスは驚いて言った。「陛下、何ということをおっしゃっているのですか?私にお妃さまの裸を見るようにと命じるのは、まともな話ではありません。女性は衣服を脱ぐと同時に、その羞恥心も脱ぎ捨ててしまう物でございますよ。」

「昔の人はいろいろといいことを申しており、私どもはそこから学ばなければなりません。その中の一つに、『自分のものを見よ、人のものに目をくれるな』というのがございます。お妃様がすべての女性の中で最も美しいということはよく存じ上げておリます。どうか無茶な行為を求めるようなことはしないでくださいませ。」

9 カンダウレス王の計画

ギュゲスがそう言って反対したのは、何か悪い災難が自分にふりかかるのを恐れたためであった。

しかし、カンダウレス王は次のように答えた。

「ギュゲスよ、勇気を持て。私がこの話をするのはお前を試そうとしているわけではないから怖がらなくてよい。また、妃がお前を咎めのではないかと不安に思うこともない。お前が妃を見ても妃には気付かれないようにして手配しておこうではないか。」

私がお前を寝室の開いた扉の後ろに立たせてやろう。私が入った後で妻も寝室に入ってくる。入口のそばに椅子が置かれている。彼女はその椅子の上に一枚一枚衣服を脱ぎながら置く。そしてお前が十分に眺めることができるようとても静かにしていることだろう。

そして、彼女が椅子から寝台へ向かって歩き出し背中を向けたときに、お前は妃に扉を通って出ていくのを見られないよう気をつけて出ていくのだ。

10 ギュゲスの失敗

ギュゲスは逃げることはできないと思い、覚悟を決めた。

そして、カンダウレスは就寝の時刻になると、ギュゲスを寝室に連れ込んだのである。

その後すぐに妃も寝室に入ってきた。

ギュゲスは妃が衣服を脱ぎ始めるのを見つめていたが、寝台に向かうときに背を向けたので、彼はすばやく外に出た。

しかし、彼が出ていくところが妃の目に止まったのである。

妃は夫の仕業であるとわかったのであるが、恥ずかしさのあまり叫びもしなかった。

そして、心の中ではカンダウレスに復讐することを決意して、気づいていないふりをしたのである。

11 妃の復讐計画

妃はその時は何も言わずに静かにしていたのだが、翌朝になると最も信頼できる召使いたちを手配してギュゲスを呼び出したのである。ギュゲスは、妃は何も知らないと思っていたので、呼ばれるとすぐにやって来た。以前から王妃に呼びだされることはよくあったからである。

ギュゲスが到着すると、妃はこう言った。「ギュゲスよ、今、お前は二つの道の前に立っています。どちらを選ぶかお決めなさい。一つはカンダウレスを殺して私とリュディア王国の王位を手に入れることであり、もう一つは、ここでお前が死ぬということです。どちらにしても、今後はカンダウレスに言われるがまま、見てはならないものを見ないで済むようになるでしょう。」

「このことを企んだあの男が死ぬべきか、それとも私の裸を見て不法なことをしたあなたが死ぬべきかです。」ギュゲスはしばらくの間、その言葉に驚いていたが、やがて彼女に対してそんな選択を迫らないでほしいと懇願した。

しかしその願いも聞き入れられず、結局、避けられない選択が目の前にあることを悟った。すなわち、主君を殺すか、自らが他人の手にかかって殺されるかである。ギュゲスは自分が生き残る方を選び、次のように言った。「私は気が進みませんが、私にどうしても王をを殺せと仰せられるのであれば、どういう方法で実行するのか教えていただけませんか。」

彼女は答えて言った。「ちょうど、あの人が私の裸で見せた場所で実行することにしましょう。王が眠っている間に殺すのです。」

12 カンダウレス王の死

二人がこのような陰謀を企てたその夜、ギュゲスは妃に従って寝室に忍び込んだ、(ギュゲスには逃げ道もなく、ためらうことはなかった。彼自身が死ぬかカンダウレスが死ぬかのどちらかであったからだ)。妃は短剣をギュゲスに渡すと、前と同じように彼を扉の後ろに潜ませた。

それから、カンダウレスが横になっている間にこっそり抜け出して彼を殺し、その妻と王位を手に入れたのがギュゲスである。この出来事については、同じ時代にパロス(Πάριος)の詩人アルキロコス(Ἀρχίλοχος)もイアンブスの三脚韻(ἰάμβῳ τριμέτρῳ)で言及している。

13 ギュロスの王位

こうしてギュゲスは王位を手に入れたのであるが、さらにその地位はデルフォイの神託(Δελφοῖσιχρηστηρίου)に従うことにした。なぜなら、リュディア人にはギュゲスの支持者と反対派がおり、中にはカンダウレスの悲運に憤り、武器を手に入れていた者もいたからである。つまり、ギュゲスがリュディアの王であるかどうかは神託が決定するとして、王であると認められた場合は王として君臨し、そうでない場合は王位をヘラクレイダイ(ヘラクレスの末裔)に返還するとしたのである。

結局、神託はギュゲスが王であると命じたので、ギュゲスが王位に就いた。しかし、ピュティア(Πυθίη)の巫女は、ヘラクレイダイの子孫が、ギュゲスの五代目の子孫に対して報復するだろうと述べた。この予言の言葉に対してリュディア人や王たちは、それが現実になるまで何の配慮も払わなかったのである。

リュディア王国の繁栄

14 デルフォイの奉納品

こうしてメルムナダイ(Μερμνάδαι)家は、ヘラクレスの子孫であるヘラクレイダイ(Ἡρακλείδας)家を追放したのであるが、ギュゲス(Γύγης)は王位に就くとデルフォイに多くの奉納品を納めている。その中には銀の奉納品が最も多く、デルフォイには多くの銀製品がある。また、金の奉納品も非常に多く、特に価値の高いものは六枚の黄金製の混酒器(こんしゅうき)である。

この黄金製の混酒器はコリントス(Κορινθος)の財宝庫に保管されており、三十タラント(τάλαντον)の価値があるといわれている。ただ実際には、この財宝はコリントス国有のものではなく、エティオン(Ἠετίωνος)の子キュプセラ(Κυψέλος)のものである。ギュゲスは、私たちが知る限りでは、ミダス王(Μίδην)とともにデルフォイに奉納品を納めた最初のバルバロイ(非ギリシャ人)である。

というのも、ミダスもまた、王の裁きを行ったといわれる玉座をデルフォイに奉納している。この玉座は一見の価値があるものでギュゲスの金製混酒器が置かれている場所に置かれている。ギュゲスが奉納した金と銀は、デルフォイでは奉納者の名前にちなんで「ギュガデス」と呼ばれている。(καλέεταιΓυγάδας)と呼ばれるようになった。

15 ギュゲス王の業績

さて、彼もまた王位に就いてからミレトス(Μίλητον)とスミルナ(Σμύρνην)を攻撃し、コロポン(Κολοφῶνος)の都市を征服した。しかし、彼の治世は四十二年間続いたが、それ以上に重要な業績はなかったので、これについてはこれ以上言及せずにおく。次に、ギュゲスの後を継いだアルディス(Ἄρδυος)のことに触れたい。彼はプリエネ(Πριηνέας)を征服し、ミレトス(Μίλητον)にも攻撃を加えた。彼の治世中に、遊牧民スキタイ(Σκυθέωντῶν)によって故郷を追われたキンメリア(Σαρδίων Κιμμέριοι)人がアジア(Ἀσίην)に到達し、サルディス(Σάρδις)のアクロポリス(ἀκροπόλιος)を除く全域を占領した。

16 ギュゲス王の後継者たち

アルディス(Ἄρδυος)が五十年足らず統治した後、アルディスの息子サディアッテス(Σαδυάττης)が跡を継ぎ、十二年間統治した。そのサディアッテスの後は、アリュアッテス(Ἀλυάττης)が継いだ。

サディアッテスはデイオケス(Δηιόκεω)の子孫であるキュアクサレス(Κυαξάρῃ)およびメディア人(Μήδοισι)と戦い、キンメリア人(Κιμμερίους)をアジアから追い出し、コロポン(Κολοφῶνος)によって再建されたスミルナ(Σμύρνην)を征服し、クラゾメナイ(Κλαζομενάς)に侵入した。しかし、これらイオニア地方の攻略に関しては思うようには結果が出なかったが、大きな失敗をしたわけではなかった。しかし、他の業績においては、統治者として非常に注目に値する行動を示した。

17 アリュアッテスのミレトス攻略

父サディアッテスから戦争を引き継いだアリュアッテスは、ミレトス人と戦った。彼は次のようにしてミレトスを攻略した。耕地に豊かな作物があるときに軍隊を送り込んだ。そして、笛や弦楽器、男女両方の笛の音楽のもとで進軍した。

ミレトスに到着すると、田舎にある建物は破壊せず、火をつけず、扉を引き剥がすこともなく、そのままの状態で放置した。しかし、果樹や耕地の穀物は散々荒らしておいて引き上げるのである。

というのも、ミレトス人は海を支配していたため、陸軍による包囲戦は効果がなかたのである。リュディア人が家屋を破壊しなかったのは、ミレトス人がそこからまた再び耕地に種をまいて耕作できるようにするためであった。つまり、彼らに耕作させておけば、侵略したときにそれを奪うことができるからである。

18 リュディアとミレトスの戦い

このようにしてリュディアは十一年間戦争を続け、その間にミレトス(Μίλητος)は二つの大敗北を被っている。一つは自国領のリメネイオン(Λιμενηίῳ)で、もう一つはマエアンドロス(Μαιάνδρου)河畔の平野での戦いでした。

この十一年間のうち、最初の六年間はアルディスの子サデュアッテスがリュディア王であり、その間にミレトスに対して軍事攻撃を行いました。そもそもこの戦争を始めたのがサデュアッテスだったのです。残りの五年間は、その後を継いだサデュアッテスの子アリュアッテスが戦争を続け、父親から引き継いだこの戦争を熱心に遂行したのです。

この戦争でミレトス人(Μιλησίων)を助けたイオニア人は他におらず、唯一キオス人(Χῖοι)だけが援助しました。キオス人は恩返しをしたのです。というのも、以前にミレトス人がキオス人をエリュトライ人(Ἐρυθραίους)との戦争で助けたからです。

19 アリュアッテスの病気

十二年目に次のような出来事が起こった。リュディア軍によって穀物が焼かれて燃え上がると、その炎が強風に乗ってアッセソ(3)(Ἀσσησίης)のアテナ神殿(νηοῦ Ἀθηναίης)に火が燃え移り焼け落ちた。

その後すぐには何も起こらなかったのだが、軍隊がサルディスに到着した後、アリアッテスが病気にかかってしまった。病気が長引いたので、彼はデルフォイに神託を求めようと使者を送ることにした。誰かに神託を求めることを勧められたか、あるいは自分で神託を求めることを決定したかは不明であるが、この病気について神に尋ねることにしたのだ。

しかし、ピュティア(神託をる巫女)はデルフォイに到着した者たちに対して、彼らが焼いたミレトス領土内のアッソスにあるアテナ神殿を再建するまでは神託をもと得てはならないと告げたのです。

(3) アッセソス

アッセソスはミレトス付近の小部落の名

20 ペリアンドロスの知恵

私はデルフォイの人からはこのように聞いたのであるが、一方、ミレトス人は次のように付け加えている。キュプセロス(Κυψέλος)の息子ペリアンドロス(Περίανδρον)は、当時のミレトスの僭主であるトゥラシュブロス(Θρασυβούλῳτῷ)と非常に親しい友人であった。彼はアリュアッテスに与えられたその神託を知った後、それを前もって知っておけば状況に応じた策略を立てることができると思い、ミレトスに使者を送ってそのことを伝えたという。

21 トゥラシュブロスの策略

さて、ミレトス人はこのように伝えられているのだが、アリュアッテスはこの神託が報告されると、神殿を再建する期間だけ和議を結びたいと思い、すぐにミレトスに使者を送った。使者がミレトスに到着する一方で、トゥラシュブロスは事前にすべての情報を知っており、アリュアッテスが何をしようとしているかもわかっていたので、次のような策略を立てた。

市内にあるすべての食糧、彼自身のものも市民のものもすべて広場(アゴラ)に集め、ミレトス市民にこう告げた。自分が合図を出したら、その時は皆が飲んでお互いに宴会を楽しむように、と。

22 ミレトス戦争の終結

トラシュブロスが布告だしてこのようなことを行ったのは、サルディスからの使者が大量の食糧の山と豊かな暮らしをしている市民の姿を見て、それをアリュアッテスに報告させるためだった。

そして実際にそのとおりになった。使者はそれらを見て、リュディア王から指示されたことをトゥシュブロスに伝えた後、サルディスに戻りました。そして、私が聞くところによれば、このことによって和解が成立したのである。

アリュアッテスは、ミレトスで極度の食糧不足が発生し市民が最悪の事態に直面していると予想していた。しかし、ミレトスから戻った使者からは、予想したのとは全く反対の報告を聞いたのであった。

その後、彼らはお互いに友好関係を結び同盟者という和議が成立したのである。アリュアッテスはアッセソス(Ἀσσησῷ)にアテナ神殿を一つではなく二つ再建し、自身も病から回復しのであった。こうして、アリュアッテスがミレトス人およびトラシュブロスを相手に戦った戦争は終わったのである。

23 詩人アリオン

ペリアンドロスはキュプセロスの息子であり、神託をトラシュブロスに伝えた人物である。ペリアンドロスはコリントスの僭主であったが、コリントス人(レスボス人も同意しているが)が、彼の治世において最も驚いたことは、ミティリーニのアリオンがイルカに乗ってタイナロン岬に運ばれたことだというのである。また、アリオンは当時の優れた歌手であり、私たちが知る限り最初にディテュランボスを作り、それに名前をつけ、コリントスで教えた人物である。

24 アリオンのイルカ伝説

アリオンは長年ペリアンドロスのもとで過ごしていたが、イタリア(Ἰταλία)とシケリア(Σικελία)へ航海したいと望んだと伝えられている。そして航海の後、それらの地で多くの財産を得て再びコリントスに戻ろうとしたのである。

そして、彼はターラントス(Τάραντος)から出航するとき、コリントス人を最も信用していたので、コリントス人の船と船員を雇ったのである。ところが、航海中にアリオンを海に突き落として彼の持ち物を奪おうと企む船員がいたのである。アリオンはその状況の中で自分の命だけは助かるように金は差し出そうと考えた。

しかし彼は船員を説得することができず、その代わりに船員たちは、自分で命を絶って地上で埋葬されるか、またはさっさと海に飛び込むかどちらかを選ぶように強要したのである。

アリオンは自分で命を絶つよう脅迫され、もう逃げることはできないと悟った。そして彼は、完全な演奏の衣装を身につけたまま甲板に立って歌わせてくれるように頼み、歌った後は自らを命を絶つと約束したのである。

船員たちは最高の歌手の歌を聞く喜びを味わおうとして、船尾から船の中央に移動しました。アリオンは全身に衣装を身に着け竪琴を手に取り、船尾の彫像(ἐντοῖσι ἑδωλίοισι)の前にに立って、儀式に則って祭礼(1) (νόμος)を歌いました。歌が終わると、彼は全身の衣装を着けたまま海に身を投げました。

船はコリントスに向って出航したが、アリオンの方はイルカに救われてタイナロン岬に到着したと言うのである。アリオンは上陸してコリントスに向かい、全身の衣装を着たまま到着し、起きたすべてのことを説明しました。

ペリアンドロスはアリオンの話が信じられず、監禁してどこにも行かせなかったが、船員たちが気になっていた。やがて船員たちがコリントスに着くと彼らを呼び出して、アリオンはどうしているのか聞いた。彼らは、アリオンはイタリアで無事にやっており、ターラントで別れたときも元気でいたと答えた途端、アリオンがまるで待っていたかのように彼らの前に現れた。そして驚いた彼らは、もはや問い詰められても否定することができなかった。

このことはコリントス人とレスボス人の間で語られており、タイナロンにはアリオンの献納物として、イルカに乗っている人間の形をしたあまり大きくない青銅の像がある。

(1)

ここにいう「高い調子の祭礼歌(ノモス)」としたのは νόμον ὄρθιονの訳語である。ノモスというのは本来アポロンの祭礼に関係のある、ゆるやかで荘重な調子の歌謡であるがνόμον ὄρθιονは、ここに訳したような意味なのか、あるいはむしろテルパンドロス(紀元前七世紀中頃の詩人)の創始したと伝えられるリズムを持つ歌謡を指すのかよくわからない。

25 アリュアッテスの業績

リュディア王アリュアッテスは、ミレトス人との戦争を終結させ後、在位七十五年を経て死去した。

この人物は、病気を克服して生き延びた後、デルフォイに大きな銀の混ぜ鉢と鉄の鉢座を奉納したのだが、この家でデルフォイに奉納したのは彼が二番目である。これらはデルフォイのすべての奉納物の中でも最も価値があり、キオス(Χίου)のグラウコス(Γλαύκου)による詩が刻まれている。グラウコスは世界中で唯一、鉄を溶接する方法を発明した人物である。

クロイソスの栄枯

26 リュディア王クロイソス

アリュアッテス(Ἀλυάττες)が亡くなった後、アリュアッテスの王位を引き継いだのは、当時三十五歳であったアリュアッテスの息子クロイソス(Κροῖσος)でした。彼が最初に攻撃を仕掛けたギリシャの都市はエフェソス(Ἐφεσίοισι)であった。

エフェソスはクロイソスに包囲攻撃を受けると、神殿から城壁まで綱を引き延ばし都市全体をアルテミスに捧げたのであった。旧市(1)と神殿の間には七スタディオンの距離があった。

まず最初に、クロイソスはこのエフェソス攻略に取り掛かったのだが、その後はイオニア人やアイオリア人それぞれ順番に言いがかりをつけて攻撃した。重大な理由を見つけることができる場合は、それを攻撃の理由にするのであるが、時には取るに足らない口実を持ち出して盾にすることもあった。

(1)

旧城下(旧市街)というのは、カエストロス河南方の丘陵斜面にあった。ヘロドトスの時代以後は、平地に新しい市街が開けたのである(ルグランの注による)

27 イオニア人との同盟

アジアにいるギリシャ人たちが征服されて貢納金を支払うようになると、彼は新しい船を作り、対岸の島々の住民に攻撃を仕掛けることを考えた。

船を建造するための準備がすべて整った頃である。ある人はプリアネス(Πριηνέα)のビア(1) (Βίαντα)がサルディスが来た言い、他の人はミュティレネ(Μυτιληναῖον)のピッタコス(Πιττακὸν)が来たと言っているが、クロイソスがギリシャの状況について何か新しいことがあるか尋ねたところ、彼らはこう答えて船の建造を止めさせたという。

『王よ、ギリシャの島の住民たちは大金を支払って馬を購入し、サルディスに攻め込みあなたに対し戦いを挑むつもりですぞ。』クロイソスはそれが本当の話だと思いこう答えた。『もし神々が島の住民たちに、リュディア人のところに馬で攻め込もうという気をおこさせくれればいいのだがな。』と答えた。

すると彼はこう答えました。『王よ、あなたが島の住民たちが馬に乗って侵攻してくれれば、この陸上で捕らえられると意気込んでおられるようですが、それはごもっともなこと。しかし、島の住民たちが何を願うと思いますか?あなたが島に侵攻するために船を造ろうとしていると知ったならば、彼らもリュディア人を海上で捕らえてやろうと、そうすれば、あなたが奴隷にした大陸のギリシャ人たちのために報復してやろう、と意気込んでいるのではないでしょうか。』

クロイソスはその結論に非常に満足し、彼の言葉がもっともであると考えて船の建造を中止することにした。そしてこのことから、島に住むイオニア人と友好同盟を結んだのである。

訳注

(1) ビアスも次のピッタコスととも、ギリシアの七賢人に数えられる人物である。

28 クロイソスの支配

その後、時が経つと、ハリュス(Ἅλυος)川の内側に住むほぼすべての住民がクロイソスに征服された。キリキア(Κιλίκων)人とリュキア(Λυκίων)人を除いて、クロイソスは他のすべての住民を支配下に置いたのである。これらの住民とは次の通りである。リュディア(Λυδοί)人, フリギュア人(Φρύγες)、ミュシア(Μυσοί)人、マリアンドノイ(Μαριανδυνοί)人、カリュブ(Χάλυβες)人、パフラゴニア(Παφλαγόνες)人、トラキア(Θρήικες)人のテュノイ(Θυνοί)とビテュノイ(Βιθυνοί)、カリア(Κᾶρες)人、イオニア( Ἴωνες)人、ドリア(Δωριέες)人、アイオリス(Αἰολέες)人、パンフュリア(Πάμφυλοι)人。そして、これらを征服した後、クロイソスはリュディアの領地をさらに拡大した。

29 アテナイのソロン

これらの地方がリュディアに支配されると、ギリシアで活動していた当時の哲学者たちが、かわるがわるサルディスを訪れた。そして、アテナイ人のソロンもまたその一人であり、アテナイに法律を作るよう命じられた後、十年間の外遊に出た。それはソロンが作った法律のどれかを、自ら廃止しなければならないような事態を避けるするためであった。

アテネ人たちは自分たちではそれ(ソロンの法律を変更すること)ができなかった。ソロンが制定した法律を十年間使用するという大きな誓いをたてたからである。

30 世界で最も幸福な人

ソロンはこういう事情で国を離れ、また見聞を広げる目的もあってエジプト(Αἴγυπτον)のアマシス(Ἄμασιν)王のもとへ行き、さらにサルディスのクロイソス王のもとへも行った。ソロンが到着すると、クロイソスによって王宮でもてなされた。その後、三日目か四日目に、ソロンはクロイソスの命令で家来たちに案内されて、財宝の数々を見せられた。それらはすべて大きく豪華なものであった。

クロイソスは彼にすべてを見せ、十分に鑑賞させたところを見計らって次のように尋ねた。「アテネの客人よ、あなたについては、その知性はもとより、さらに知を探求するために外遊に出て多くの土地を訪れているということは聞いている。そこで今、あなたに尋ねたいことがある。あなたがこれまでに見た中で、誰が最も幸福だと思うか教えてくれないか。」

クロイソスは自分が世界中で最も幸福であると思っていたので、それを尋ねたのであった。しかし、ソロンは王にへつらうようなことはなく、自分が真実と思うままに答えて言った。「王よ、アテナイのテロス(Τέλλον)です」。

クロイソスは意外な答えを聞いて、すかさず尋ねた。「なぜテロスを最も幸福な者と思うのか」。すると彼は言った。「テロスはよく知られた裕福な都市に生まれ、優れた善良な子供たちに恵まれ、その子らにはみな子供が授かり、それが一人も欠けずにおりました。そして、彼の人生は我々が普通思う以上に裕福でありましたが、人生の最後も輝かしいものとなりました。

というのも、アテナイ人がエレウシス(Ἐλευσῖνι)で隣国(ἀστυγείτονας)との間で戦闘が起きたとき、彼は味方の救援に赴き、敵を敗走させた後、見事な戦死を遂げました。そこでアテナイ人は、彼が倒れた場所で公費をもって埋葬し、彼を大いに称えたのであります。」

31 二番目に幸福な人

そしてソロンがクロイソスにテロスに関する多くの幸福な話をし終わった後、クロイソスはソロンに、次に幸せな者は誰かを尋ねた。彼は完全に自分が二番目に選ばれると思っていた。するとソロンは「クレオビスとビトン(Κλέοβίν τε καὶ Βίτωνα)の兄弟でしょう。」と答えた。

彼らはアルゴス(Ἀργείοισι)人の家系で十分な財力に恵まれ、加えて身体の強さも持っておりました。二人とも同様に体育競技で優勝しており、次のような話が伝わっています。アルゴスでヘラの女神に捧げる祭りの日に、どうしても彼らの母親を牛車に乗せて神殿まで運ばなければなりませんでした。ところが畑に出ていた牛が時間通りに戻ってきません。時間に間に合わないと困った兄弟は、 牛の代わりに自らくびきの下に潜り、母親を乗せて車を引いたのでございます。そして彼らは四十五スタディオン(約八キロメートル)運んで神殿に到着しました。

彼らのこの行いは祭りに集まった人々の注目を浴び、そして最良の死が彼らに訪れたのです。これによって神は、人間にとって生きるよりも死ぬことの方が、より幸せなこともあると示されたのでしょう。アルゴス人たちは若者たちの力を称賛し、アルゴスの女性たちはこのような素晴らしい子供を持った母親を祝福したのです。

母親は息子たちのその行いと良い評判を大変喜んでヘラ神の像の前に立ち、自分をこのように敬い名誉を授けてくれた息子のクレオビスとビトンために、人間として最良のものを授けるよう神に祈りを捧げたのです。

この祈りを終え、生贄を捧げて祝宴を楽しんだ後、若者たちはその神殿で眠りについて、その後は二度と目覚めることはなく、これが二人の最期となったのです。アルゴス人たちは、彼らが最も優れた者たちであると祈念して、彼らの立像を作りデルフォイに奉納しました。

32 幸運な人と幸福な人

ソロンがクレオビスとビトンを二番目に挙げると、クロイソスは苛立って言った。「アテナイの客人よ、私の幸福がそのような庶民の者よりも劣っていると見ているとすれば、そなたは私の幸福は何の価値もないとおっしゃるのか。?」ソロンは答えた。「クロイソス王よ、あなたは人間の運命について尋ねておられるのでしょうか?私は神々が全て嫉妬深く、人々の幸福を惑わせておられることをよく存じ上げております。」

「長い人生の間には、人は見たくない多くのことを見なければならず、多くの望まないことを経験しなければなりません。なぜなら人間には七十年の寿命を与えられておるのですから。」

「人間の七十歳は、閏月がないとしても二万五千二百日となります。季節が適切な時期に訪れるように、仮に一年おきに一ヶ月だけ長くすると、七十年間に三十五ヶ月の月(閏月)が加わります。これを日にすると千五十日になります。」

「この七十年間の毎日、二万六千二百五十日には一日として全く同じことが起こるとはありません。したがって、一日と別の一日とを比べて全く同じということはあり得ないのです。すなわちクロイソス王よ、人間の一生とは全て幸不幸の巡合せ(συμφορᾶ)なのでございます。」

「あなたは非常に裕福であり、多くの人々の王であることは私も存じ上げております。しかし、今、お尋ねになられたことについては、あなたが立派な生涯を終えられことがわかるまでは、あなたを幸せだと申し上げることはできません。非常に裕福な人が、その日暮らしの人よりも幸せであるとは限らないのです。すべてのことが幸福に恵まれて、人生を立派に終えることができたなら、初めて幸せだと言えるのです。大変裕福であっても不幸な人は沢山おられますし、ほどほどの生活をしていても幸運に恵まれる人も沢山おられます。」

「非常に裕福であっても不幸な人は、幸運な人に対して二つの点でのみ優れているにすぎませんが、幸運な人は裕福で不幸な人よりも多くの点で優れています。なるほど、裕福で不幸な人は欲望を満たすことができ、大きな災難が降りかかっても耐える力が強いでしょう。しかし幸運な人は次の点で彼に勝ります。たしかに、災難や欲望を同じように耐える力はありませんが、幸運に恵まれればそれらを避けることができるのです。身体的にも健康で病気にならず、苦しい目にも遭わず、良い子供に恵まれ、容姿も美しい、というわけです。

その上さらに、人生を立派に終えることができたならば、その人こそあなたが求めている幸福な人間と呼ばれるにふさわしい人物でございます。人は人生を終えるまでは幸運な人と呼ぶことはできても、幸福な人と呼ぶことは差し控えるべきでしょう。

「人間である以上、すべての物を手に入れることは不可能なことでございます。同じようにどの国にいたしましても、必要とする全てのものを自ら供給することはできません。あるものは持っているが、他のものは不足しているのが実情で、最も多くのものを持っている国が最良の国ということなのでございます。人間の体も同じで、一人一人、完全に自足しているような者はおりません。誰しもあれがあればこれはないと申すわけでございます。」

「その中で最も多くのものを持って過ごすことができ、その上で人生を満足して終えることができた人、王よ、そのような者こそ、幸福の名をもって呼ばれるにふさわしい人物と私は考えるのでございます。あらゆる事柄の結末がどうなるかを見極めることこそが肝心なのでございます。神にいっときの幸福を与えられた末、一転して奈落の底に突き落とされた人間はいくらでもいるのでございますから。」

33 

ソロンのこの話がクロイソスには全く喜ばれるはずもなく、現在の幸福を無視しておきながら、あらゆる事柄の結末を見るべきだなどという男は無知であるに違いないと思い込んで、クロイソスはソロンを何の価値もないと見なして追い返したのであった。

34 クロイソスの正夢

ソロンが去った後、クロイソスは神から大きな罰を受けることになる。これはおそらく、彼が自分を全ての人間の中で最も幸福であると考えたためであった。その後すぐに彼が眠っていると、彼の息子にこれから降りかかる災難を告げる夢が現れ、それが現実となったのである。

クロイソスには二人の息子がいたが、そのうちの一人は不幸にも聾者であり、もう一人は同じ年頃の中では断然優れており、その名前はアテュス(Ἄτυς)といった。クロイソスに現れた夢は、このアテュスが鉄の槍で打たれて命を落とすというお告げだったのである。

目覚めると独り考えをめぐらすと、その夢が恐ろしくなって、息子に嫁を迎え、これまでリュディアの将軍として指揮を執っていたが、これからは決して指揮をさせないようにした。槍や盾などの戦争の武器はすべて兵士たちから取り上げて、男たちを寝室に引き入れ、息子に危害が及ばないように配慮した。目覚めた後、独りその夢のこと考えていたが、その夢が恐ろしくなってきた。そこで息子に嫁を迎えてやることにし、これまではリュディアの将軍を務めさせていたが、これからは二度とその務め与えないようにし、槍や盾などすべての武器を兵士から取り上げて寝室に移し、息子に危害が及ばないように気を配った。

35 フリギュアの男

息子の結婚の準備を行なっている頃、罪を犯して穢れた男がサルディスにやって来た。彼はフリギュア(Φρὺξ)人で王室の血を引く男だった。その男はクロイソスの屋敷に来て、地元の習慣に従って穢れを祓って欲しいと頼むので、クロイソスは男の言うとおりにしてやった。

リュディア人とギリシャ人にとって、清めの儀式の違いはほとんどなく、クロイソスはしきたりに従ってお祓いを済ますと、どこから来たのか、そして誰なのか、尋ねた。

男よ、お前は何者で、フリギュアのどこから来たのか?、お前は私に何か持ってきたのか? 誰か殺したのか、男か、女か?」と彼は答えた、「王よ、私はミダス(Μίδεω)の子、ゴルディアス(Γορδίεω)の息子アドレストス(Ἄδρηστος)と申します。 私は誤って自分の兄弟を殺してしまいました。父によって追放され全てを失い、この地にやって参りましたた。」

クロイソスは次のように答えた。「ならばそなたは親しい友人の家の血を引く者で、友人の家にやってきたのだ。ここでは私の友人と同じように扱われることになろう。私の所にいれば何一つ不自由はさせぬ。そなたの罪はできる限り軽く受け止めればよいぞ。」

36 ミュシア人の依頼

こうして彼はクロイソスの宮廷に住むことになったのだが、その同じ時期にミュシア(Μυσῶ)のオリュンポス山で巨大な猪が現れた。この猪は山から出てきて、ミュシア人の農作物を荒らしていた。ミュシア人たちは何度もその猪を退治しようとしたが、猪に何の害も与えることができず、逆に自分たちが被害を受けた。

そしてついに、ミュシア人の使者たちはクロイソスのもとに来てこう願い出たのである。「王よ、我が国に途方なく大きな猪が現れまして田畑を荒らし回り、私たちは大変な目に遭っております。此奴を捕らえようと努力したのですが、私たちの手には負えませんでした。ですので、そいつを我が国から追い出すことができますように、ご子息と選りすぐりの若者たちと猟犬を我が国に派遣していただけないでしょうか。」

彼らはこのように願い出たのだが、クロイソスは夢のことを思い出して次のように答えた。「私の息子のことはもう言わないでいただきたい。彼をあなた方の国へ派遣することはできないからだ。彼は嫁をもらったばかりで、今はそのことを最も大事なことと考えている。しかし、選りすぐりのリュディア人と全ての狩猟部隊を派遣しよう。そして、行く者たちには、全力を尽くしてその獣をその地から追い出すよう命じておこう。」

37 

クロイソスがミュシア人たちの願い出にこう答えて彼らが帰るのを待っていると、クロイソスの息子が彼らの求めを聞きつけてその場へやってきた。そして、クロイソスが自分の息子を派遣することを拒んだと聞いて、息子は次のように言った。

「父上、これまで我々にとって最も美しく最も高貴なことは、戦争や狩りに出かけて名を上げることでした。しかし今、私はこの両方から締め出されました。私が臆病であるとも気力を失っていないとも承知されているはずです。今、広場(アゴラ)を行き来するたびに、私がどのような目で見られるとお思いでしょうか。」

「私は市民たちにどのように見られるでしょうか、そして新妻にはどのように見られるでしょうか。彼女はどのような夫と一緒にいると思うのでしょう。それゆえ父上、私が狩りに行くことをお許しくださるか、それともこれらのことががなぜ私にとって良いことなのか、納得できるようお話し願います。」

38 クロイソス、夢について話す

クロイソスは次のように答えた。「息子よ、私はお前が臆病だとか他に何かいたらない点があるからこうしているわけではない。こうしているのはお前が短命であるという、鉄の槍によって死ぬ幻が夢の中に現れたからなのだ。」

「この夢の予見のせいで、お前の結婚を急ぎ、この派遣にも行かせないようにしたのだ。私の命のある限りお前を守ることができるならばと思ってのことだ。お前は私にとって唯一の息子だ。もう一人の息子は、不具であることを聞いてからは私の息子とは思っていないのだ。」

39 夢について息子の見方は

息子は次のように答えた。「父上、そのような夢をご覧になったのであれば、私のことを心配なさるのも無理からぬことでしょう。しかし、父上は夢の意味をよくお分かりになっておられないようで、誤解されているようです。ですから私がそれをご説明差し上げなければならないかと存じます。」

父上がおっしゃるには、その夢は鉄の槍の先によって私が死ぬことになっております。しかし、猪は手のようなものを持っているだけなのに、どうして鉄の槍の先をお恐れなさるのですか?もしも私が牙にかかって死ぬとか、あるいは他の何かそれに似たようなものであれば、父上がそうなされたのはごもっともです。しかし夢の予見は鉄の槍の先にかかって、ということだったのですよ。それゆえ今回は人間との戦いではないのですから、ご一緒させていただきたいのです。」

40 クロイソス、息子を狩に出す

クロイソスは答えた。「息子よ、夢の予見についての判断は、お前の方が勝ちのようだ。ならば私の負けと認めるから、お前が狩りに行くことを許そう。」

41 アドレストスを護衛に

こう話した後、クロイソスはフリュギア人のアドレストスを呼び寄せ、彼が来ると次のように言った。「アドレストスよ、そなたの罪を非難するつもりはないのだが、ただ不運に見舞われて無情な災難に遭ったそなたを清めてこの家に迎え、この私がすべての面倒を見ていることはご承知かと思う。」

「今、そなたに恩義をかけた私が生きている間に、今度はそなたが私に恩義で報いる義理があろう。そこでだが、私の意向としては、そなたに息子の護衛役として狩に出かけて欲しいのだ。道中で悪党がそなたらに危害を加えることのないようにな。」

「そなたも父祖の名誉を輝かせるために武勲をあげる場が必要であろう。そなには立派な武勇も備わっているだからな。」

42 アドレストス、護衛を受ける

アドレストスは答えて言った。「王よ、普通であれば、このような名誉ある使命は引き受けなかったでしょう。このような不運に見舞われた者が幸せな同輩たちの仲間に入るのはよくありませんし、私自身そうしたいとも思いません。仮にそう思っても色々な理由で自分自身を抑えことでしょう。」

しかし今、王はお急ぎのようですし、私は王の恩義に報いなければなりませんので、仰せの通りにお引き受けいたします。護衛せよとお命じになられたご子息は、ご無事でお戻りになられるとご期待ください。

43 クロイソスの夢が現実に

彼はこのようにクロイソスに応え、その後、彼とアテュスは選り抜きの若者たちと犬を連れて準備を整えて出発した。そして、オリンポス山に到着し獣を探し見つけだすと、その周りを取り囲み槍を投げた。

その時、例の客人、つまり殺人罪で浄められたアドレストスと呼ばれるこの男が、大猪を狙って槍を投げたところ、大猪には外れたが、クロイソスの息子に当たってしまった。

すなわち息子アテュスは投槍で突かれて夢の予言を成就させたのであった。そして、一人の使者がクロイソスにその出来事を知らせに走った。サルディスに到着した使者は、猪狩りの様子と息子の死をクロイソスに伝えた。

44 

クロイソスは息子の死によってひどく打ちのめされ、自分が殺人を清めた相手に息子を殺されたことを一層嘆いた。

その不幸をひどく嘆きながら、クロイソスはまず浄めの神をゼウスの名で呼び、自分が浄めた客人によってどれほどの苦しみを受けたかを祈った。また、彼は家族の守護神と友人の守護神を呼んだのだが、これらの神々も同じくゼウスの名で呼んだ。家族の守護神を呼んだのは、家に殺人者を客人として迎え入れ、その客人を知らずに養っていたからであり、友人の守護神を呼んだのは、護衛として送り出したその友人が最大の敵人になってしまったからである。

45 

その後、リュディア人の一行が遺骸を運んできて、その後ろにはアテュスを殺した男が続いていた。彼は遺骸の前に立つと、クロイソスに両手を差し出して自分の身を託し、死者の霊を慰めるために自分を殺すように頼んだ。そして自分の以前の不運と、その不運を浄めた人をまでを殺してしまったことを語り、生きていることが耐えられないと話した。

クロイソスはこれらのことを聞いて、自分がこれほどの大きな不幸の中にありながらもアドレストスを憐れんで、彼に向かって言った。「おお、客人よ、あなたは自ら死刑を宣告したのであるから、私はあなたを罰したものとして全て受け入れよう。あなたが不本意ながら引き起こしたことは事実であるが、この不幸はあなたの責任ではない。これは神々の誰かが私に以前から予告していたことであり、ずっと前から起こる運命だったのだ。」

クロイソスは自分の息子を彼に相応しい形で埋葬したのである。一方、ゴルディアスの息子でありミダスの孫であるアドレストスは、自分の兄弟を殺し、また自分を浄めてくれた人をも不幸にしてしまうこととなった。彼は自分が知っている中で最も悲運な人間であると思い詰めて、人々が墓の周りで静かになった後、墓の傍ら自らその命を絶ったのである。

46 クロイソス、ペルシアへの野望

クロイソスは二年間、息子を失った大きな悲しみに沈んでいた。しかし、(メディア王国の)キュアクサレス(Κυαξάρεω)の息子アスティアゲス( Ἀστυάγεος)の統治がカンビュセス(Καμβύσεω)の息子キュロス(Κύρου)によって打倒され(本巻95章以下)、ペルシア(Περσέων)の勢力が増大するにつれて、クロイソスは悲しみに浸っていることは許されす、彼はペルシアの力が大きくなる前にどうにかしてその勢力を抑えることができないかと考えるようになった。

それで、彼はこの考えをもって、すぐにギリシア( Ἕλλησι)とリビア(Λιβύῃ)の神託所に伺いを立てることにした。彼は使者を諸々の神託所に送り出し、デルフォイ(Δελφοὺς)、フォキス(Φωκέων)のアバ(1)(Ἄβας)、ドド(2) (Δωδώνην) 、アムピアラオ(3)、トロポニオ(4)ス、そしてミレトスのブランキダ(5)に送り出した。

これらのギリシアの神託所にクロイソスは神託を求めて使者を送った。また、リビュア(Λιβύης)のアモン神殿(Ἄμμωνα)にも別の使者を送り、神託を求めた。彼が神託所を試そうとしていたのは、それらが真実を知っているかどうかを確認するためだった。そして、彼はそれらが真実を知っていると分かれば、ペルシアに対して戦争を仕掛けるべきかどうかを尋ねるために第二の使者を送るつもりであ。

訳注

(1) ここにはアポロンの信託所があった。

(2) ギリシア西部エペロイス地方の町。ゼウスの信託地として名高い。

(3) テバイにあり、夢占いで有名。

(4) ボイオティアのレバデイアにあった。

(5) ブランキダイとは、ミレトス付近のディデュマのアポロンに仕えた神官の家柄。アポロンの神託を扱った。地名にも用いられる。

47 クロイソス、神託を試す

そしてリュディア人たちに次のように命令して、神託所を試すために送り出した。サルディスから出発した日から数えて百日目に神託所で神託を求め、リュディアの王クロイソスがそのとき何をしているのかを尋ねるように、というのである。各神託所がどのような予言をするかを書き留め、自分の元に持ち帰るように命じた。

さて、他の神託所が何を予言したかは誰も語っていない。しかし、リュディア人たちがデルフォイに到着してすぐに神の神殿に入り、命じられた質問をしたとき、ピュティア(巫女)は六歩詩(ἑξαμέτρος)の調子で次のように述べた。

「私は砂の数も、海の広さも知っており、また、耳の聞こえない者の理解も、声を出さない者の言葉も聞くことができる。
私の心に強い甲羅の亀の匂いが届いた。
それは銅の鍋で、羊の肉と共に煮られており、下に銅が敷かれ、上にも銅が覆われている。」
48 クロイソスの策略

これらのことをピュティアが予言した後、リュディア人たちはそれを書き留めてサルディスへ帰った。他の派遣された使者たちも神託を持って戻ってきたとき、クロイソスはそれぞれの文書を開いて調べたが、ほとんどの予言には何の関心も示さなかった。しかし、デルフォイからの予言を聞いたとき、すぐに祈りを捧げてそれを受け入れた。なぜなら、デルフォイの神託だけが、自分が行ったことを正確に見抜いていたからである

神託所に預言者たちを派遣した後、彼は定めた日を守って、次のような計略を立てた。到底言い当てることができないことを考えつくし、彼はそれを実行した。亀と子羊を一緒に切り刻み、銅の釜で煮て、その上に銅の蓋をして密閉したのである。

49 デルフォイの神託を信じる

デルフォイの神託に関して、クロイソスが受けた神託はこのようであったが、アンフィアレウス(Ἀμφιάραος)の神殿で、リュディア人たちが慣例に従って受けた神託に関しては言及することができない。なぜなら、そのことは語られておらず、その他の事柄も同様である。クロイソスはこのデルフォイの神託をもっとも信頼できるものと考えていたためである。

50 クロイソス、デルフォイへ莫大な献納品

その後、彼はデルフォイの神に莫大な犠牲を捧げてその怒りを鎮めた。あらゆる家畜三千頭を全て犠牲として捧げ、黄金と銀の寝台や金の杯、紫色の衣服や肌着類を積み上げ、大きな薪の山の火葬壇で焼き尽くしたのである。彼はこれによって神をより一層喜ばせて恩恵を得ようと期待したのである。また、全てのリュディア人に対して、各自が持っているものに従い、この神に生贄を捧げるよう命じた。

そして、犠牲の儀式が終わった後、彼は大量の金を溶かして黄金の煉瓦を作らせた。長さは六手幅(ἑξαπάλαιστα、約六〇センチメートル)、幅は三手幅(約三〇センチメートル)、高さは一手幅(約一〇センチメートル)であった。数は百十七個で、そのうち四個は純金で、重さは各々二タラントン半あり、他の煉瓦は金銀の合金で、重さは二タラントンであった。

そして、金のライオンの像を作り、その重さは十タラントン(τάλανταδέκα)ありました。このライオンは、デルフォイにある神殿が焼失した時に、金の煉瓦から焼け落ちました(これらの煉瓦の上に据えられていたため)。現在、このライオンはコリントスの宝庫に置かれており、その重さは六タラントン半(ἕβδομον ἡμιτάλαντον)です。つまり三タラントン半(τέταρτον ἡμιτάλαντον)が焼け落ちたことになります。

51 クロイソスの奉納品の数々

これらことを成した後、クロイソスはデルフォイに送ったが、同時にこれらの他にも、大きな黄金製と銀製の二つの混酒器を送った。黄金製のものは神殿に入って右側に、銀製のものは左側に置かれた。

これらの混酒器もまた神殿が消失した後に移されて、黄金の混酒器はクラゾメナイ人(Κλαζομενίων)の宝庫にあり、その重さは八タラントン半(εἴνατον ἡμιτάλαντον)とさらに十二ミナ(ἔτι δυώδεκα μνέας)である。銀製の混酒器は神殿の前庭の角に置かれ、六百アンフォラ(ἀμφορέας ἑξακοσίους)の容量がある。この混酒器はデルフォイのテオファニア(Θεοφανίοισι)の祭りの際に使用される。

デルフォイの人々は、それがテオドーロスというサモス出身の人物の作品であると言っており、私もそう思っている。なぜならば、それは平凡な作ではないと思えるからである。クロイソスはさらに四つの銀製の壺を送ったが、それらはコリントスの宝庫にある。また二つの聖水盤も奉納したが、そのうち一つは黄金製で、もう一つは銀製である。黄金製の聖水盤には、スパルタ人の奉納であると記されているが、それは間違いとえるだろう。

これもまたクロイソスの奉納品なのだが、あるデルフォイ人がスパルタ人の恩恵を望んでその銘を刻んだのである。その人物の名前はわかっているのだが思い出せない。もっとも、聖水が手を流れている少年の像は、確かにスパルタ人の奉納品であるが、聖水盤はどちらも同様にスパルタ人のものということはできない。

クロイソスはまた、これらに加えて多くの目立たない奉納品も送った。その中には、銀製の急須(ポット)や、三ペキュスの黄金の女性像、デルフォイの人々がパンを焼くクロイソスの像と呼ぶものもある。また、クロイソスは自身の妻のために、彼女の首輪と腰紐を奉納した。

52 アンフィアレウスへの奉納

これらをデルフォイに返礼として奉納したのが、アンフィアレウス神については、彼はその勇気と苦難について聞いていたので、全て黄金でできた盾と、同様に柄が全て黄金製の鋼の槍を奉納した。これらは両方ともテーバイ(Θήβῃσι)に現存し、テーバイのイスメニアのアポロンの神殿に置かれていた。

53 デルフォイにペルシア攻めを訪ねる

そして、リュディア人たちにこれらの贈り物を神殿に運ぶように命じ、クロイソスは神託に尋ねさせるよう命じた。『クロイソスがペルシアに対して遠征するべきか、その際に同盟軍を加えるべきか』と。

そして、リュディア人がデルフォイに到着した時、彼らは贈り物を捧げ、神託を尋ねるために訪れたと述べた。「リュディアと他の民族の王クロイソスは、この神託が世界中で唯一のものであると信じ、王の宝物の中からそれに値する贈り物をあなた方に捧げました。そして今、あなた方に尋ねます『クロイソスはペルシアに対して遠征すべきでしょうか、また、いずれかの同盟軍を加えるべきでしょうか』

彼らはこれらのことを尋ねたが、双方の神託は同じように答えた。それは「もしクロイソスがペルシアに遠征するなら、彼の大帝国は滅びるだろう」ということ、また「ギリシャ人の中で最も強力な者たちを見つけて同盟軍に加えること」を勧めたのである。

54 

そして、神託が伝えられた後、クロイソスは神託を聞いて大いに満足し、全力を挙げてキュロス(χρυσος)の大帝国を滅ぼそうと思い込んだのである。そして再びデルフォイの神託所に贈り物を奉納し、デルフォイ人の数を調べて一人当たり二スタテー(1) (στατῆρ)の金貨を与えた。

デルフォイ人はその代わりに、クロイソスとリュディア人たちに神託の優先(2) 、免税特権、祭礼特別拝顔権が贈られ、彼らが望むのであればデルフォイの永久市民権を与えることにした。

訳注

(1) スタテルは金貨の名であるが、その価値を今日換算することは難しい。

(2) 一般の神託請願者はくじで順番を決められていた。

55 王国の将来を尋ねたデルフォイの神託は

クロイソスはデルフォイ人たちに贈り物をした後、三度目の神託を求めた。一度神託によって真実を知ってからは、神託に頼るようになったのである。彼は自分の王国が長く続くかどうか、神託に尋ねた。

ピュティア(巫女)は次のように答えた。

「しかし、ラバがメディアの王となるときは、足の柔らかいリュディア人よ、多くの石を含むヘルモス川(Ἕρμος)のほとりに沿って逃げ去れ。そこに留まるな。臆病者と恥じることはない。」
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クロイソスはこれらの言葉が伝えられると、他のどの言葉よりも非常に喜んだ。彼はラバが人間の代わりにメディア人の王となることは絶対あり得ないし、自分もまたその子孫も王位を失うことはないと考えたのである。その後、彼は最強のギリシャの国はどこか調査し、同盟を結ぶことを考え始めた。」

調査した結果、ラケダイモン(スパルタ)とアテナイが、それぞれドーリス人とイオニア人の系統を引いており、最強であることがわかった。これらは、それぞれペラスギア人とギリシア人の民族から進化した主要な民族であった。そして、ペラスギア人はどこにも移動しなかったが、ギリシア人は非常に多くの場所を移動した。

デウカリオン王(Δευκαλίωνος)の時代には、彼らはピテオティス(Φθιῶτιν)の地に住んでいた。そして、ヘレン(Ἕλλην)の息子ドーロス(Δώρος)の時代には、オッサ山とオリュンポス山の麓にある地域に住んでいたが、その地域はヒスティアイオティス(Ἱστιαιώτιδος)と呼ばれていた。ヒスティアイオティスからカドメイオイ(Καδμείων)に追い出された後、彼らはピンドス(Πίνδῳ)に住み、マケドニア人(Μακεδνὸν)と呼ばれた。そこから再びドリオピス(Δρυοπίδος)に移り、ドリオピスからペロポネソスに移ってドリス(ドーリア)人(Δωρικὸν)と呼ばれるようになった。

57 ヘレスポントスのペラスゴイ人

ペラスゴイ人(Πελασγοί)たちがどのような言語を話していたか、私には確かなことはわからない。しかし、現在も存在するペラスゴイ人たち、—— 例えばテュルセノイ人(Τυρσηνῶν)(エトルリア人)の北方にある都市クレストン(Κρηστῶνα)に住み、かつては現在のテッサリオティスの地に定住していたドーリス人と境を接していたペラスコイ人、さらにヘレスポントス(Ἑλλησπόντῳ)のプラキア(Πλακίην)、スキュラケ(Σκυλάκην)の二つの都(4) を建設し、同地でアテナイ人と共に住んでいた同族の者たち、さらにはこれらのほか、後に名称を変えたが本来はペラスゴイ人であった諸都市の住民等——によって判断してよいのならば、彼らの言語は非ギリシア語であったらしい。

ところでペラスゴイ人全般について、これらのことがいえるとすれば、アッティカの住民たちは、もとペラスゴイ系であったのであるから、ギリシア民族に吸収されたとき、同時にその言語も変えたことになる。というのは、クレストン人も、また彼らと同じ言語を話すプラキア人も、現在その周囲に住むどの部族とも言語を異にしており、この事実は、彼らがこれらの地に移住してきた際、話していた言語の特性を、今なお維持していることを示しているからである。

58 ギリシア人の発展とペラスゴイ人

これに対しギリシア民族が、その発祥以来同じ言語を使用していたように私には思われる。もっともその起源はペラスゴイ人から分離し、その後は弱小であったが、当初の小さな状態から、強大な民族に発展するについては、多くの異民族、中でも特にペラスゴイ人が加わって繁栄したのだ。これに対して、異民族であるペラスゴイ人は、私の考えではどの部族も強大になったことはないと思われる。

59 アテナイのペイシストラス

クロイソスは、これらのギリシア諸部族の中でアテナイが、当時ヒッポクラテス(Ἱπποκράτεος)の子でアテナイの独裁者であったペイシストラス(Πεισιστράτου)の治世にあって、内紛に苦しみ分裂していることを知った。

ところで、このヒッポクラテスがまだ平民のときに、オリュンピアの競技会の見物に行ったとき、大変な奇跡が起きたのであった。

それは彼が供物を奉納したときのこと、肉と水を充していた祭器の鍋が、火をつけていないのに沸騰して溢れたのである。

スパルタのキロ(1) (Χίλων)がたまたまそこに居合わせ、この奇跡を見てヒッポクラテスに次のように忠告した。先ず妻帯して子をもうけぬこと、次にもし既に妻帯しているのならばその妻を離縁すること、さらにもし既に子もあるのならば、その子を捨てるべきだと。

しかしヒッポクラテスは、キロンのこの忠告に従おうとしなかった。その後、ペイシストラスが生まれたのである。この頃、アテナイで海岸地方の人々(海岸党)と平原地方の人々(平原党)の二(2) が対立しており、海岸党はアルクメオン家(Ἀλκμέωνος)のメガクレス(Μεγακλέος)、平原党はアリストライデス(Ἀριστολαΐδεω)の子リュクルゴス(Λυκούργου)が党首となって争っていた。ペイシストラスは独裁政治を目指して第三党を起こした人物で、同志を集めて言葉巧みに山岳地方の人々(高地党)の党首と称して次のような計略を講じた。

彼は、自分で自分の身体とラバを傷つけておき、まるで敵から逃れてきたかのように、その二頭立ての馬車を市場へ駆け込ませた。彼は以前、メガラ(Μεγαρέας)との戦争で将軍として功績を挙げニサイア(Νίσαιάν)を攻略するなど、大きな業績を示していたので、敵が田舎へ向かっていた自分を襲って殺そうとしたので護衛をつけて欲しいと市民に訴えた。。

アテナイ市民はペイシストラスの術中に陥って、市民から選ばれた男たちをペイシストラスの護衛につけつことを認めた。ただし彼らは通常の槍を持った「槍持ち」の護衛ではなく、いわば「棒持ち」の護衛で、棍棒を携えて彼に随行したのである。

この棍棒を持った護衛たちがペイシストラトスと共に蜂起し。アクロポリスを占拠したのである。こうしてペイシストラトスはアテナイの支配者となったのであるが、彼は既存の官制を乱すことも、法律を改変することもせず、従来の制度に基づいて秩序正しく国を治め、見事な政治を行ったのであった。

60 ペイシストラトスの追放と帰還

しかしその後まもなく、メガクレス派の者たちとリュクルゴス派の者たちは気脈を通じて、ペイシストラトスを追放した。このようにして初めてアテナイを支配したペイしストラトスであったが、その権力はまだ十分に根を下ろしていなかったために支配権を失った。そして、彼をを追放した者たちは、またもや互いに争いを始めたのである。

この内紛で追い詰められたメガクレスは、ペイシストラトスに和平を申し出た。もし僭主(独裁者)の地位を条件に彼の娘を妻にする意思があるかどうか訊ねたのである。

ペイシストラトスがその申し出を受け入れて同意した後、ペイシストラトスを帰国させるために、私が見る限りでは極めて単純な計画を企てたものだと思う。というのも、ギリシア人は古くからして異国の野蛮人よりも賢明であり、愚かな行動は犯さぬものとされていたが、この時は、ギリシア人で最も賢明だとされたアテナイの者たちですら、このような馬鹿馬鹿しい計画を考え出したのである。

パイアニア(Παιανιέι)区の民の中に、フュエ(Φύη)という名の女性がいた。彼女は身長が四キュビット(πηχέων:ペーキュスとも、約一.八メートル)から三ダクテュロス(三本の指分、約五センチメートル)ほど足りない大柄でさらに美貌であった。彼らはこの女性を鎧で武装して戦車に乗せ、最も立派に見えるよう見栄えを良くして、アテナイへ向かって進んだ。そしてこれより先に使者を送り、町に到着すると彼らに命じられた通りにこう告げさせたのである。

「アテナイの人々よ、快くペイシストラトスをお迎えせよ。彼を最も称賛したのはアテナ女神その人であり、彼女はご自身がお住まいになられるアクロポリスへ彼を導いておられるのだ。」使者たちがこのように各地をふれ回って歩くと、アテナ女神がペイシストラトスを連れてくるのだという噂はたちまち田舎にまで広まった。町にいる人々はその女性がまさに女神だと信じて彼女に祈りを捧げ、ペイシストラトスを迎え入れたのであった。

61 ペイシストラトスのアテナイ帰還計画

ペイシストラトスは、今述べたようにして僭主の地位を取り戻したのであるが、メガクレスとの合意に基づいて彼の娘と結婚した。しかし、彼にはすでに若い息子たちがいたこと、さらにメガクレスの家系であるアルクメオン家の血筋には不浄な呪いがつきまとっていると伝えられていたことから、彼は新妻との間に子供をもうけることを望まず、その結婚は法に則らない不自然な夫婦関係だったのである。

さて、最初は新妻はこのことを隠していたが、その後、——彼女が自分の母親に話したのかどうかはわからないが——彼女の母親がそのことを夫に伝えたのである。メガクレスは自分たちを侮辱したとして大いに怒り、ペイシストラトスへの憤慨のあまりに反対派との対立が和ぎ、再び和解が成立してしまった。ペイシストラトスは、自分に対して策謀がめぐらされていることを知ると完全に国を離れ、エレトリア(Ἐρέτριαν)に到着した後、息子たちと共に次の策を練ることにした。

再び僭主の地位を取り戻そうというヒッピアス(Ἱππίεω)の意見が通ったので、彼らは恩義を感じている都市から義援金を募り始めた。多くの都市が大金を提供したが、その中でもテーバイ(Θηβαῖοι)はその金額で他の都市をはるかに上回った。

そして、長く説明をするまでもなく、時が過ぎると彼らの帰還に向けてすべての準備が整った。アルゴス人(Ἀργεῖοι)の傭兵たちもペロポネソスから到着し、また、ナクソス(Νάξιός)出身で名をリュグダミス(Λύγδαμις)という男が、資金と兵士を携えて最大の熱意をもって支援しようと、自発的にやって来たのである。

62 ペイシストラスのマラトン占拠

彼らはエレトリアを出発し、十一年後に再び戻ってきた。そしてまず最初にアッティカ地方のマラトンを占拠した。彼らがこの地に陣営を張っていると、アテナイの町からの反乱者たちが到着し、他の行政区(デーモス)からも人々が集まってきた。その者たちは、民主政よりも僭主政(専制君主制)の方が好ましいと考えていた。

集まった人々は同盟を結んだが、アテナイ市民の方は、ペイシストラトスが軍資金を集めている間はもとより、後にマラトンを占拠した時も全く気にしていなかった。しかし、彼がマラトンから市街に向かって進軍していることを聞きつけて、初めて応戦するべき態勢をとったのだ。

アテナイ市民軍は、町を目指してくる者たちに対して全兵力をもって進軍し、ペイシストラトスの一党も、マラトンから出撃してアテナイの町へ向かった。両軍はパレネのアテ(1) 神殿付近で対峙し、そこで互いに武器を構えることとなった。

そこで、アカルナニ(2) の預言者であるアンフィリュトスが現れ、神の導きに従ってペイシストラトスのそばに近づくと、六歩詩(ヘクサメトロス)の調子で次のように神託を告げた。

矢は投げられ、網は広げられ、
そして、魚たちは夜の月の光のもとで鳴き声を上げるだろう。
63 パレネの戦い

神託を受けた預言者はこのように預言を伝えると、ペイシストラトスはその神託の真意を悟りありがたく受け取って軍を引き連れて進軍した。一方、アテナイ市民軍はこの時点で食事を終え、食事後は一部はゲームに興じ、他の者たちは眠りにつくといった有様であった。そこでペイシストラトスの一党はアテナイ市民軍を急襲して彼らを敗走させてしまったのである。

彼ら(アテナイ市民軍)が敗走する中で、ペイシストラトスは、アテナイ人がこれ以上捕えられることも、散り散りになることもないようにするために非常に賢明な策を考え出した。彼は自分の息子たちを馬で先に行かせ逃げる者たちに追いつくと、ペイシストラトスの命令を伝え、安心するように言い、それぞれ自分の家に帰るように促したのである。

64 専制政治の確立

アテナイ人がこれに従ったので、ペイシストラトスはこうして三度目のアテナイ支配を実現したのである。ペイシストラスは僭主(独裁者)の地位を確立するために、自身に多くの護衛者をつけるとともに、財源の確保を図ったのだが、その収(1) の一部はアッティカから、もう一部はストリュモン川から集まったのである。またペイシストラトスは、すぐに国外逃亡しなかったアテナイ人たちの子供を人質として捕え、それらをナクソスに送った。

というのも、ペイシストラトスは軍事介入によってこの(ナクソス島)を攻略しており、リュグダミスにその支配を委ねていたのである。そしてさらに、デロス島を浄化することとした。彼は、神殿が見渡せる範囲の場所からすべての死者を掘り起こし、デロス島の他の場所に移したのである。

こうしてペイシストラトスはアテナイの独裁者となったのであるが、アテナイ人の中には先の戦闘で倒れた者もいれば、アルクメオニダイ家とともに国外へ逃亡した者もいた。

65 スパルタのリュクルゴス

クロイソスは、当時アテナイがこのような状態にあることを聞き及び、一方、スパルタが厳しい苦難を切り抜けて、すでにテゲア人に対する戦争では優位に立っていることを知った。レオンとヘーゲシクレスがスパルタの王位にあったとき、他の戦争では成功を収めていたが、ただテゲアに対しては苦杯を喫していたのである。

以前のスパルタはすべてのギリシャの中で、国内的にも対外的にも最も悪法に苦しめられた国で、他国とは一切の交渉を断っていたのである。しかし、彼らは次のようにして善法に転じた。スパルタの名高い人物であるリュクルゴスがデルフォイに神託を求めに訪れた時、彼が神殿に入ると、すぐにピュティア(巫女)が次のように告げた。

おお、リュクルゴスよ、あなたは我が豊穣なる神殿に来た。
ゼウスに愛され、オリンポスのすべての神々の寵児である。
私はあなたを神と呼ぶべきか、人間と呼ぶべきかを迷っている。
いやいや、さらにいっそう神であると信じている、リュクルゴスよ。

ピュティアはさらにリュクルゴスに、スパルタに定められている今の善法を伝授したとも伝えられている。しかし、スパルタ人自身の話によれば、リュクルゴスは自分の甥でスパルタ王であったレオボテスの後見人になると、クレタ島からこれらの法律を持ち帰ったという。

リュクルゴスは後見人としての任務を引き受けるとすぐに、すべての法律を改正し遵守させるため厳重に取り締まった。さらに軍の制度を改めて、エノモティア(ἐνωμοτίας、血盟隊)、トリアカス(τριηκάδας、三十人隊)、そしてシュッシティア(συσσίτια、共同食事(1) )を導入し、またエフォロイ(ἐφόρους、監督官)やゲロンテス(γέροντας、長老(2))を設置した。

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このようにして彼ら(スパルタ人)は改革を行い、秩序を確立しました。そしてリュクルゴスが亡くなった後も、彼を神殿に祭り、今日もその偉業を崇拝している。そしてスパルタには豊かな土地があり人口も少なくなかったため、たちまち繁栄し富が蓄えられた。
 そしてもはや穏やかに過ごすことに満足せず、アルカディア人を軽視して自分たちが彼らよりも優れていると考え、アルカディア全土を攻略しようとして、デルフォイの神託を求めたのである。

ピューティア(デルフォイの巫女)は彼らに次のような神託を告げました。

アルカディアを求めるのか、大きなものを求めるな。私はそれをお前には与えない。
アルカディアには多くのドングリを食べる男たちがいて、お前を阻むだろう。
だが私はお前を拒まない。
お前にテゲアで足踏みしながら踊ることと、縄で美しい平原を測ることを許そう。

これらの神託が伝えられると、スパルタ人はそれを聞いて、他のアルカディア人たちには手を出さず、(足枷用)の鎖を持ってテゲアに向かって遠征した。彼らは神託を誤って盲信(3)、テゲア人を奴隷にするつもりでいたのだ。

スパルタ人は戦いに敗れ捕虜となった者たちは、自ら持ってきた鎖で足枷をつけられ、テゲア人の土地を縄で測って耕作させられた。その足枷は、私の時代においてもなおそのままの状態で、テゲアのアレア・アテーナ(3)神殿の周りに吊るされていた。

スパルタ人は常にテゲア人との戦いで敗北していたため、デルフォイに使者を送り、どの神をなだめればテゲア人に対して戦争で優位に立てるかを尋ねた。すると、ピュティア(デルフォイの巫女)は彼らに、アガメムノンの息子オレステスの骨を持ち帰るようにお告げをした。

第六十七章

前の戦争では、スパルタ人は常にテゲア人に対して苦戦していた。しかし、クロイソスの時代、そしてスパルタの王アンナクサンドリデスとアリストンの治世において、スパルタ人は戦争で優勢となった。そして彼らは次のような方法でそれを達成した。

スパルタは常にテゲアとの戦いで敗北が続いていたことから、どの神をなだめればテゲアに対して戦争で優位に立てるのか、デルフォイに使者を送って尋ねた。すると、ピュティア(デルフォイの巫女)は彼らに、アガメムノンの息子オレステスの骨を持ち帰るようにお告げをした。

第二巻 エウテルベの巻