第一巻
第一章
アテナイ人のトゥキュディデスは、ペロポネソス人とアテナイ人が互いに戦った戦争について書き記した。戦争が始まった時点からすぐに記録を始め、これが大規模で非常に重要な戦争になると予想した。彼は、両者がすべての面で準備万端であり、他のギリシア人たちも一部は直ちに一部は様子を見ながら、どちらかの陣営に加わるだろうと考えたからである。
この戦争はギリシア人にとっても、一部の異民族にとっても、これまでで最大の動乱であった。そして言うなれば、人類全体に広がるものであった。
これ(ペロポネソス戦争)より前の時代や、さらに古い時代のことは、時の経過が長いために明確に知ることはできなかった。しかし私が長い時間をかけて調べた証拠に基づく限り信じられるのは、それらの戦争もその他の事柄もそれほど大規模なものではなかったと私は思う。
第二章
現在ヘラス(ギリシア)と呼ばれている地域では、かつては安定的に居住していた部族はおらず、人々は頻繁に移動しており、ある部族は数の上で多い部族に迫られると、容易に自分たちの居住地を捨てていた。
交易は全くなく、互いに自由に交わることもなく、陸路でも海路でも安全に接触することができなかったため、それぞれが生計を立てるのに十分な範囲で自分の土地を管理し、財産の蓄えもなく、土地を耕すこともなかった。なぜなら、いつ他者が攻め込んできて、城壁もない彼らの土地を奪い取るかわからなかったからである。このため、日々の必要な糧を手に入れることだけを考え、どこでも住んでいけると考えていたので移住生活を苦にしていなかった。したがって、都市として規模的に大きくなることはなく、またその他の物資も潤沢になることはなかった。
特に肥沃な土地は常に住民の変遷が激しかった。現在テッサリアと呼ばれる地域や、ボイオティア、そしてペロポネソスのほとんど(ただしアルカディアを除く)、さらに他の土地が豊な地域も同様であった。
土地の肥沃さゆえに、特定の人々の力が強力になると内乱が起こり、そして同時に異民族からしばしば狙われ、それによって滅ぼされる部族もあった。
一方、アッティカ地方は土地が痩せていたために内乱が起こらず、長い間同じ人々が住み続けていた。
そしてこのことは、移住によって他の地域が同じように発展しなかったことの重要な証拠である。戦争や内乱によって他のギリシアから追放された有力者たちは、安定した場所であるアテネへ避難し、すぐに市民となって、古くからの住民にさらに加わり都市を一層大きくした。その結果、アッティカでは土地が十分でなくなるほどになり、後にイオニアへ植民が行われた。
第三章
また、このことも古代のギリシアの弱さを最もよく示しているように思われる。すなわち、トロイ戦争以前には、ギリシア全体が共同で行動したという記録がまったく見られない。
また、私にはこのことも明らかである。この『ヘラス』(ギリシア)という名称は、すべての地域でまだ広く用いられていなかったようであり、デウカリオーンの息子であるヘレーン以前には、この呼び名はまったく存在していない。それぞれの地域は他の民族名、たとえばペラスゴイ人など、自分たち独自の名前で呼ばれていた。しかし、ヘレーンとその子供たちがフティオティス地方で力を持ち、他の都市にも利益をもたらすようになると、各都市は徐々にヘレーン人(ギリシア人)と呼ばれるようになった。しかし、それでもこの名称が全体に行き渡るにはまだ多くの時間がかかった。
このことはホメロスが最もよく証明している。彼はトロイ戦争よりもずっと後の時代の人だが、全体を『ヘラス人』と呼んでるところはない。彼がその名で呼んでいるのは、アキレウスに従ったフティオティス出身の者たちだけであり、彼らが最初に『ヘレーン人(ギリシア人)』と呼ばれたのである。この他の部族は、ホメロスは詩の中で『ダナオイ』や『アルゴス人』、『アカイオス人』と呼んでいる。つまり『バルバロイ(異民族)』という言葉を使っていないのは、『ギリシア人』という一つの名称が対立する形で確立していなかったためだと私は考える。
このように各都市ごとにギリシア人として互いに理解していた者たちや、後に全体としてギリシア人と呼ばれるようになった者たちも、トロイ戦争以前には弱小な都市に過ぎず、互いの交流も少なかったことから、まとまって行動することはなかった。しかしこの遠征については、彼らはすでに海を多く利用していたので、一緒に出陣したのである。
第四章
我々が伝え聞く中で最も古い時代に海軍を組織したミノス(クレタ島の支配者)は、今のエーゲ海域の広範囲にわたって支配権を確立した。そしてキクラデス諸島を支配し、カリア人を追い出して、多くの島々の最初の開拓者となり、自分の息子たちをその島々の統治者に任命した。また当然のことながら、収入を増やすために、可能な限り海賊行為を取り締まったのである。
第五章
というのも、古代のギリシア人やバルバロイ(異民族)のうち、海沿いに住む者たちや島々を所有していた者たちは、より頻繁に船で互いに渡航し始めると、海賊行為に手を染めるようになった。彼らは決して弱者ではなく、利益を得るために、また貧しい者には生計を立てるためにこの道に進んだ。城壁を持たない都市や村に住む人々を襲い、略奪して生計を立て、その活動に恥を感じることはなく、むしろ名誉とされることさえあった。
このことは、今でも一部の大陸に住む人々が証明している。彼らにとっては、この行為(海賊行為)を立派に行うことが名誉とされている。というのも古代の詩人たちの表現を見ると、どこでも同じように船で到着する人々に『あなた方は海賊ですか?』と尋ねることが習慣だった。また尋ねられた人々はその行為を恥じることなく、また尋ねる側もそれを非難するような様子もなく描いているのである。
そして彼らは、互いに内陸においても略奪を行っていた。現在でも特にオゾライ・ロクリス人、アイトリア人、アカルナニア人、その周辺の多くのギリシア本土には昔の習慣が残っており、彼らが武装しているのは昔からの海賊行為の名残である。
第六章
実は、かつてはギリシア全土が武装していた。それは住居が無防備であり、互いに安全な交流ができなかったためである。したがって、人々は生活の中で武器を持つことが常態化しており、それはまるで異民族(バルバロイ)のようであったのだ。
今日でもかつての生活様式を続けているギリシアの地方が残っているのがその証拠であり、その昔はすべての人々が同じような生活を送っていたことを示している。
そして最初にアテナイ人が武器を置き、生活様式をより贅沢で洗練されたものへと移行した。彼らの中でも裕福な年長者たちは贅沢な生活を送っていたので、贅沢なリネンのチュニックを着るのを止めたのも、また頭髪につけていた金のセミの飾りを取ったのも、それほど昔のことではない。この習慣は彼らの親族であるイオニア人にも伝わり、特に年長者には長く受け継がれた。
また、スパルタ人は、再び現代のような簡素な衣服での生活を最初に始めたのであるが、彼らは富裕層であっても一般の多くの人々と同じような暮らしをしていた。
公の競技を裸で行い、また自分たちの体に油を塗って身体を鍛える習慣を最初に始めたのもスパルタ人である。古くはオリンピック競技でも、選手たちは下半身にだけ布を巻いて競技をしていたが、この習慣は数十年で廃止された。しかし、今でも一部の異民族、特にアジアの民族の中には、ボクシングやレスリングの競技を行う際に布をまとっている者がいる。
このように古代のギリシアの生活様式が、現在の異民族の生活様式と類似していることを示す例は他にもたくさんあるだろう。
第七章
比較的新しく建設された都市はすでに航海術が発達していたため、より豊かな財産を持つものがは海岸沿いに城壁を築き、海峡を占拠して商業や隣接する諸国への影響力を強めていた。一方、古い都市は、長らく海賊行為の影響を受けていたため海から遠く離れた場所に建設され、今でもそのままそこに住んでいるが、これは島でも大陸でも同様である。海洋民族でなくても海沿いの都市では互いに略奪しあっていたからだ。
第八章
そして、島々の住民、特にカリア人やフェニキア人も海賊であった。彼らは多くの島々に住みついた。これを証明する出来事として、アテナイ人がこの戦争中にデロス島を清め、島に埋葬されていた遺体を掘り起こしたとき、半数以上がカリア人であることが判明した。これは、埋められていた武器や葬られた様式が、現在も続いているカリア人の埋葬方法と一致したからである。
ミノスの海軍が確立されると、島々同士の航海がより安全になって盛んになった(というのも、彼によって島々の悪党たちが一掃され、多くの島々に彼が入植を行った時期であった)。
そして海沿いに住む人々はより多くの財産を得るようになり、より安定して定住するようになった。中には自分たちが富裕になるにつれて、城壁を築く者もいた。利益を追求するあまり弱者は強者の支配を受け入れ、強者は豊富な資源を持つことでより小さな都市を従属させていった。
このような形で発展を続けた後、だいぶ経ってから彼らはトロイアに遠征したのである。
第九章
思うに、アガメムノンが多くの艦隊を集めることができたのは、ヘレネの求婚者たちがテュンダレオスの誓いに縛られていただけではなく、当時の権力者たちの中で抜群に実力があったからである。
また、ペロポネソスの人々の中でも最も確実な記録を伝える人もこう語っている。
ペロプスは最初にアジアから莫大な財産を持ってやって来て、貧しい人々の間で権力を得、その結果、彼が異国人でありながらもその土地に自分の名(ペロポネソス)を残したのである。その後さらに、彼の子孫たちにはより大きな富と力がもたらされた事情は次のとおりである、
(ペルセウスの子孫)エウリュステウスがアッティカで(ヘラクレスの子孫)ヘラクレイダイに殺された時、(ペロプスの子孫)アトレウスは彼の母の兄弟であったため、遠征に際してエウリュステウスからミュケナイとその支配権を委ねられていた(アトレウスはたまたまクリューシッポスの死によって父ペロプスから逃亡していた)。
エウリュステウスが遠征から戻らなかったため、ヘラクレイダイを恐れていたミュケナイ人たちは、アトレウスが有能で民衆をうまく扱っているように見えたので、ミュケナイとエウリュステウスが治めていた領土の王権をアトレウスが継承することを望んだのである。
こうしてペルセウスの子孫よりもペロプスの子孫の方が優勢になったのである。
アガメムノンはこれらの権力を引き継ぎ、他の者たちよりも強力な海軍を持つことで優位に立っていたので、民衆の好意というよりむしろ脅迫によって軍勢が集められ、トロイア遠征を実行したのだと私は思う。
アガメムノンは最も多くの船を率いて参戦し、しかもアルカディア人にも艦隊を提供したようである。もしもホメロスが証言している事実を論拠とするに足るならばこの点は確実である。というのもホメロスはアガメムノンが王権を受け継ぐと同時に、彼が『多くの島々と全アルゴスの支配者である』と述べているのである。
つまり近隣の島々(多くの島々とは呼べないであろう)以外の地域を(アガメムノン以前の)本土の王が支配することはできなかったということである。海軍を持っていなかった時代であればなおさらである。そしてこの遠征(トロイ戦争)の実情から、その前の時代の争いがどれほどの規模であったかを推測することが肝要である。
第十章
ミュケナイが小さかったことや、当時の都市が今は大したものに見えないことがあるとしても、それをもってして詩人たちが語り伝承されている遠征の規模が、それほど大きくなかったのではないかと疑うべきではない。
例えば、もしラケダイモン(スパルタ)の都市が荒廃し、神殿や建物の基礎だけが残されたとしたら、長い年月が経った後にそれを見た者は、彼らの実力に対して非常に疑いを抱くと思う(とはいえ、彼らはペロポネソスの五分の二を支配し、全体を指導し、多くの同盟国を持っている)。
しかし、スパルタは一つの都市として統合されておらず、壮麗な神殿や建物を持っているわけでもなく、ギリシア古来の風習に従って村々に分かれて住んでいるため、その外見からは実際よりも劣って見えるだろう。
一方、アテネが同じように荒廃した場合、見た目の印象から、実際の実力よりも二倍ほど強大な都市であったと推測されるだろう。
したがって、都市の外見を信じるのではなく、その実力を考慮することが適切であり、あの遠征(トロイ戦争)がそれ以前のものに比べて最大であったとしても、今の時代のものよりは劣っていたと考えるべきである。そして、ホメロスの詩に頼るべきであるなら、彼が詩人として誇張しているのは当然だが、それでもなお、あの遠征は現在のものよりも劣っていたように思われる。
ホメロスは千二百隻の船を描いているが、ボイオティアの船は各々百二十人、フィロクテテスの船は五十人を乗せていた。これは他の船の規模については特に言及されていないことから思うに、最大のものと最小のものを示しているのだろう。
またフィロクテーテスの船では全員が弓兵として描かれていることから、すべての漕ぎ手が戦闘員であったことを示しているとすれば、王や指導者以外に多くの従者(非戦闘員)が同行していたとは考えにくい。特に漕ぎ手が戦闘員の装備とともに海を渡ろうとしていたことを考えれば、船は現代のように甲板で完全に覆われたものではなく、昔ながらの海賊船のような形で準備されていたのである。
最大の船と最小の船を基準にしてその中間を考えてみると、ギリシア全体から共同で派遣された数としてはそれほど多くはなかったように思われる。
第十一章
原因は人口が少なかったというよりも、むしろ財政の不足によって物資が足らなかったからであって、兵力は規模を縮小し、自ら現地で戦いながら生活できる程度の人数しか連れて行けなかったのである。
彼らがトロイに到着して初戦で勝利を収めたことは明らかであるが(もし勝利していなかったなら、軍を守るために防壁を築いたりはしなかっただろう)、それでも全軍を動員せず、代わりにケルソネソス半島で農業や略奪を行って物資を補っていたのである。
このためトロイ軍は彼らが分散していたことを利用し、十年もの間彼らに対抗できたのであり、残された敵の兵力と常に対峙することができたのである。
もし彼らが食糧の余裕を持って到着し、略奪や農業をせずに全軍がまとまって戦い続けていたならば、戦闘で容易に勝利しトロイアを陥落させていたであろう。
実際、彼らは全軍ではなく常に一部の兵力でしか攻撃していなかったが、それでも攻め続けていたのである。包囲作戦を徹底していればもっと短期間でそして容易にトロイアを陥落させていただろう。
しかし物資の不足のために以前の戦争はもちろん、このトロイ戦争もまた最も有名な戦争であったにもかかわらず、実際の行動においては評判に及ばず小規模であったことが明らかである。そして詩人たちの語りによって現在の名声が得られているのである。
第十二章
トロイア戦争の後も、ギリシア人は依然として移住と入植を続けていたので、安定して発展することがなかった。
ギリシア人のイリウム(トロイア)からの撤退が遅れため、長い間多くの混乱が生じた。このため各都市では頻繁に内乱が発生し、住む場所がなくなった人々は新たな都市を建設したのである。
例えばボイオティア人は、イリウムの陥落から六十年後にアルニスからテッサリア人に追われて現在のボイオティア、以前はカドメイアと呼ばれていた土地に移住しました(以前もこの土地には彼らの一部が住んでおり、イリウムへの遠征もしていました)。
またそれから八十年後には、ドーリア人がヘラクレイダイと共にペロポネソスを獲得しました。
そして長い時間をかけて、ようやくギリシアは落ちつくと、もはや新しい植民地を設立することはなくなり、イオニアはアテナイ人や他の島々の多くによって入植され、イタリアとシチリアのほとんどはペロポネソス人や他のギリシア人によって占められるようになった。これらすべての植民地はトロイア戦争の後に建設されたものである。
第十三章
ギリシアがより強大になり、国富の蓄積が以前よりもさらに進んだ結果、多くの都市において僭主政が確立された。僭主の収入が増加し(以前の王政は世襲制で収入は一定であった)、ギリシアの海軍力は整備され、海の支配への関心がより強くなった。
最初に現在の方法に最も近い形の船の構造を考えたのはコリントス人だと言われており、ギリシアで最初に三段櫂船が建造されたのもコリントスであった。
また、サモス人のために船を四隻建造したのは、コリントスの造船家アミノクレースであった。アミノクレースがサモス人のもとに来たのは、この戦争の終わりからおよそ三百年前のことである。
我々が知る限り、最も古い海戦はコリントス人とケルキュラ人(コルフ島の住民)の間で行われたものである。その出来事は、この戦争の終わりから遡って約二百六十年前のことである。
コリントスは古くからイストモス(地峡)に位置しており、常に交易の中心地になっていた。
昔のギリシア人は、ペロポネソス半島内外の人々との交易は主に陸路を使い、海路での交流は一部であった。その結果、彼らは財力を持つようになり、それは古代の詩人たちにも示されている。彼らはこの地を『富裕な場所』と称していた。そして、ギリシャ人がますます海上交易に乗り出すようになると、コリントス人は船を建造し、海賊を取り締まりながら、両方の交易路を提供して都市の収入を増大させ、さらに強大になった。
その後イオニア人も強力な海軍を持つようになり、ペルシアの最初の王キュロスとその息子カンビュセスの時代には、イオニア人はキュロスに対して海で戦い、一時はイオニア海を支配していた。また、イオニア人の都市サモスの僭主ポリュクラテスは、カンビュセスの時代に海軍力で強大となり、他の島々を従わせ、レーネイア島(現在のシロス島)を征服してデロスのアポロンに捧げた。フォカエア人もマッサリア(現在のマルセイユ)を建設し、カルタゴ人との海戦に勝利した。
第十四章
これら(イオニア人やサモス人、フォカエア人)の海軍は非常に強力であった。しかし、これらはトロイア戦争の時代よりも何世代も後であるにもかかわらず、三段櫂船は少なくまだ五十櫂船や長船が使用されていた点では従来の船と同様だったようである。
メディア戦争の少し前、そしてカンビュセスの後を継いでペルシアの王となったダレイオスが没する少し前になってから、シケリアの僭主やケルキュラ人のもとで三段櫂船の数が増加した。これらがクセルクセスの侵攻以前のギリシアでの注目に値する最後の海軍力であった。
アイギナ人やアテナイ人、そして他のいくつかの都市は少数の船しか持っておらず多くは五十櫂船であった。アイギナ人と戦っていたアテナイでペルシア人の侵攻が予期されるようになって、テミストクレスがようやく船を建造するよう説得したのはずっと後のことであり、実際にアテナイはこれらの船でいくつかの海戦を戦っている。しかし、その時の船にはまだ全体に甲板は備わっていなかった。
第十五章
このようにギリシャの海軍は、古いものからその後発展したものまで存在していたのである。だが海軍に注力した人々は資産を蓄え、さらに他都市の支配権を得て、その勢力は決して小さいものではなかった。つまり彼らギリシア人は、とりわけ十分な領土を持たない都市は、海に出て島々を征服したのである。
陸上での戦いでは、それによって勢力が増大するような戦争は存在しなかった。陸上での戦争すべてが、各々の隣接する都市同士での国境紛争であって、遠征して他の地域を征服するような戦いにはギリシャ人は参加しなかった。
それは彼らが、大都市に従って団結していたわけではなく、対等な立場で共同の軍事行動を行うこともなく、むしろ各都市の隣接する者同士が互いに戦争をしていたからである。
もっとも、かつて起こったハルキスとエレトリアの戦争のように、他のほとんどのギリシアの都市がそれぞれの側に分かれて同盟を結んだことはあった。
第十六章
その他いろいろな地域で様々な困難が生じ、ギリシアの発展が妨げられた。イオニア人が勢力を大きく広げたとき、キュロスとペルシア帝国がクロイソスを打ち倒し、ハリュス川以内の地域を海に向かって征服し、さらに大陸の都市を奴隷化した。また後に、ダレイオスがフェニキア人の海軍力を用いて諸島を支配した。
第十七章
ギリシャの諸都市の僭主たちは、自分自身を安全に保ちながら、一族の富をできる限り増やすことだけを見据えて、都市を支配していた。しかし各々が自分の周辺の隣国に対して敵対行動をした場合を除けば、彼らからは特に注目すべき業績は生まれなかった。ただ、シケリア(シチリア)地方の僭主たちは最も大きな勢力を持つようになっていた。こうして、ギリシャ全体が共同して目立った活動を行うことはなく、諸都市は消極的な時期が長く続いた。
第十八章
アテナイの僭主たちと、他のギリシャの多くの都市国家で長い間僭主政治が続いたが、シケリアを除くほとんどの僭主は最終的にスパルタ人によって打倒された。
スパルタは、今の住民であるドーリス人によって建設されて以来、長い間内紛に悩まされていたが、古くから秩序を確立して統治されており、僭主を持ったことのない都市だった。スパルタ人は今の政体を約四百年以上にわたって維持しており、そのため他の都市国家の内政にも介入しその秩序を保っていた。僭主政治がギリシアから消滅した後、数年してアテナイ人とペルシア人との間でマラトンの戦いが起こった。
その戦いから十年後、再びバルバロイ(ペルシア人)が大艦隊を率いてギリシアを従属させようとやってきた。大きな危険が迫っていた中、スパルタ人は他のギリシャ人連合軍をその軍事力で率い、アテナイ人はペルシア軍が迫るのを見て都市を放棄することを決断し、家財を整理して船に乗り込んで海軍となった。
彼らは共同してバルバロイを撃退したが、その後アテナイ人とスパルタ人、そしてペルシアから解放されたギリシャ人は各々同盟を組んで勢力を争った。これらの戦いで陸上ではスパルタ人が、海上ではアテナイ人が最も力を持つことが明らかになった。
しばらくの間、同盟は維持されたが、やがてスパルタ人とアテナイ人が対立し、それぞれの同盟軍と共に互いに戦うようになった。他のギリシャ人たちもどこかで対立が生じると、彼らもその戦いに加わっていった。
こうして、ペルシア戦争の後もこの戦争(ペロポネソス戦争)において、時には休戦し、時には交戦し、または離反した同盟都市を征伐するようになったため、軍備がよく整えられ、さらに戦場で鍛えられることによって、彼らはより経験豊富な戦士となったのである。
第十九章
スパルタ人は同盟都市に貢納金を課さず、自分たちに都合のよい寡頭制による統治を支持していた。一方、アテナイ人は同盟都市の艦船を順次掌握していくとともに、ヒオス島とレスボス島を除くすべての同盟都市に貢納金を課した。その結果、この戦争(ペロポネソス戦争)においてアテナイの軍備は、かつての純粋な同盟関係で最も栄えた時期よりも、さらに強大なものとなった。
第二十章
さて、古い出来事については、このようなことを探究をしたが、確かな証拠を以って信用することは終始困難であった。というのも、人々は過去の出来事に関する話を、たとえそれが自分たちに関わるものであっても、よく吟味せずに相互で受け入れるからだ。
たとえば、アテナイの多くの人々は、ヒッパルコスがハルモディオスとアリストゲイトンによって、僭主として殺されたと考えている。だが、彼らはペイシストラトスの息子たちの中で長男のヒッピアスが僭主であったことも、ヒッパルコスとテッサロスが彼の兄弟であったことも知らないのだ。その日、ハルモディオスとアリストゲイトンは、彼らの計画がヒッピアスに知られていると疑い、ヒッピアスが事前に知っていると考えて手を出さなかった。しかし密告によってどうせ逮捕されるならば、何か危険な行動を冒そうと考え、パナティナイア祭の行列を整えていたヒッパルコスに出会い、レウコレイオンの近くで彼を殺害したのである。
他にも今なお存在している多くの事実であって、時間の経過によって忘れられないようなことであっても、他のギリシア人たちが正しく理解していないこともある。
たとえばスパルタの二王制では、(長老会議で)王は一票づつ持っているのではなくて、一人の王が二票持っていると誤解されていることや、ピタナ軍団(ピタナテス)が存在したと考えていることなどがあるが、実際にはそのようなものは存在しなかった。このように、多くの人々にとって真実を求めるのは非常に面倒であり、既成の事実に頼りがちである。
第二十一章
しかし、前述の証拠から見て、もし誰かが古代の出来事についてこうした考えを持っていたとしても、それは間違いとは言えないだろう。詩人たちがその出来事について讃歌を詠む際に、その内容をより美化して信じられるようにすることや、歴史家たちが聴衆に向けてより適切で真実に近い形で記述することがあるが、時が経つにつれて、これらの事実は多くの場合、神話的なものとして信じられている。しかし、最も顕著な証拠から考えれば、これらが古代の出来事であることは十分に理解できるのである。
人々が現に戦っている時には常に最大の戦争と評価されるが、その戦争が終わると、むしろ古い戦争の方が称賛される傾向がある。しかし、今回の戦争をよく観察すれば、実際にはより大きなものであることが明らかになるだろう。
第二十二章
そして、戦争に関する演説については、その戦いをまさに行おうとしている者たちや、すでに戦争中の者たちの言葉によって述べられたものであるが、私が直接聞いた演説も、他の場所から人伝に報告された演説も、それらを正確に記録するのは困難であった。したがって、各々が私に伝えた演説について、最も正確な意見に近いと判断した意見を叙述している。
そして、戦争中に行われた行為については、偶然に聞いた情報から書くことが価値があるとはせずに、私自身が直接見たことや他の人々から得た情報に基づいて、できる限り正確にそれぞれの詳細を記述することにした。
しかし、非常に困難であったのは、現場にいた人々が各々の行為について同じことを語らず、それぞれが異なる視点や記憶に基づいて話していたからである。
そしてこの著作において、その内容が神話的でない場合、おそらく退屈に感じられるかもしれない。しかし、実際に起こったことの詳細を理解し、未来においても人間的な類似の事象があることを考慮する者にとっては、それらの情報は十分に有益であると考えられるだろう。これらの情報は、一時の興味のためにではなく、永遠にわたって価値あるものであり続けるのである。
第二十三章
そして、これまでの事例の中で最も重要なものはミケノス(ペルシア)戦争だが、これは二回の海戦と二回の陸戦とで短期に終結した。一方、今回のこの戦争の期間は非常に長く、またその過程で起こった惨事は、同じ長さの他の戦争でも例を見ないものであった。
この戦争のように、これほど多くの都市が征服されて荒廃した例はなく、その一部は異民族によって、また一部は同じ民族の間での内戦によって荒廃したのである(その中には移住させられた住民もいる)。また、多くの人々が逃げ、戦争による殺害や内戦による殺害も同様に多かった。
以前から伝えられていたことで、実際の出来事が確認されることは稀であるが、今や信頼できないとは言えなくなったのである。地震については、広範囲にわたって強い地震があったことが知られており、また、日食も以前の記録よりも頻繁に発生した。さらに、干ばつも大規模なもので、これが原因で飢饉が起こり、特に害悪だった伝染病も発生し、一部の地域に甚大な被害を与えた。これらすべては、この戦争と同時期に発生したのである。
この戦争は、アテナイ人とペロポネソス人が、エウボイアの陥落の後に結んだ三十年間の和平条約を破棄したことから始まる。
なぜ彼らが和平条約を破棄したのか、その理由と原因を最初に説明し、そして何がきっかけでこのような大規模な戦争がギリシャ人たちに起こったのかを探求することにした。
最も根本的な理由は、アテナイ人が力を増し、スパルタ人たちに恐怖を与えたため、戦争に引き込まざるを得なくなったことだと思われる。しかし、公表された理由は、双方が戦争の原因として挙げたものであり、これらによって和平条約が解消され、戦争が引き起こされたのである。
第二十四章
エピダムノス(Ἐπίδαμνός)はイオニア湾に入って右側に位置する都市であり、その周辺にはタウランティオイ(Ταυλάντιοι)というイリュリア( Ἰλλυρικὸν)系の異民族が住んでいる。
この都市(エピダムノス)を植民したのはケルキュラ(Κερκυραῖοι)人であり、建設者はコリントス人のエラトクレイデスの子ファリオスで、ヘラクレスの子孫の一族である。彼は古代の慣習に従って、ケリキュラの母都市(コリントス)から招かれたのである。また、コリントス人や他のドーリア系の人々も共に植民に参加していた。
時が経つにつれて、エピダムノスの勢力は大きくなり、人口も増加した。
だが彼らは、長年にわたって内紛を起こし、近隣の異民族との戦争のために衰退し、勢力を失ったと言われている。
そして、この戦争の直前に、民衆たちが少数派の有力者たちを追放したが、その追放された有力者が異民族(イリュリア人)と共に戻ってきて、陸と海の両方から都市を襲撃して略奪していた。
エピダムノスにいる民衆は追放者たちから圧迫を受けると、母都市であるケルキュラに使節団を送り、自分たちが滅ぼされるのを黙って見過ごさず、追放者たちとの間の調停に立ち、異民族との戦争を終わらせるよう願い出た。
使節団はヘライオン(ヘラ神殿)に座り込み、助けを求めた。しかしケルキュラ人はこの嘆願を受け入れず、何の成果も無いままで彼らを送り返したのである。
第二十五章
ケルキュラから助けが得られないことを知ったエピダムノス人は、行き詰まった状況に直面してどうすべきか迷った。そこでデルフォイに神託を求めるために使者を送り、コリントス人に宗主国として自分たちの都市を託して庇護するべく、彼らから何らかの支援を求めるべきかどうか尋ねた。すると神は、コリントス人に都市を託し、彼らを庇護者として受け入れるよう命じた。
エピダムノス人は神託に従い、コリントスに来て自分たちの都市を彼らに託し、その創始者がコリントス出身であることを説明して神託を明らかにした。そして彼らに、自分たちが滅びるのを黙って見ていないで庇護するよう訴えた。
コリントス人は、エピダムノスがケルキュラと同様に自分たちの植民都市であると考え、同時にケルキュラに対して不満持つことは正義であるとして報復を引き受けた。彼ら(ケルキュラ人)がコリントスの植民都市でありながら、自分たちを軽んじていたからである。
ケルキュラは、共同の祭典において慣例に従って寄付をしないだけでなく、他の植民都市のようにコリントスに最初に祭儀を行わないなど、宗主国に敬意を払っていなかった。
また、その当時ケルキュラは、財力においてはギリシアの中でも最も裕福な都市に匹敵し、軍事力においてもより強力で、海軍力においてもはるかに優れていた。というのもケルキュラは、かつてフェアケス人によって植民されたのが最初で、彼らの海軍の名声が高かったことに誇りを持っており、それがさらにケルキュラの海軍力の強化につながったのである。
そして彼らが戦争に参加し始めた頃には、百二十隻もの三段櫂船を保有していたのだ。
第二十六章
このように、あらゆることに対して不満を抱いていたコリントスは、喜んでエピダムノスに援軍を送った。さらに、希望する者には植民者としてエピノダムスに行くように命じ、(同盟都市の)アンブラキア人やレウカディア人、そして自分たちの守備隊も派遣した。
彼らは、まず陸路でコリントスの植民地であったアポロニアへ向かった。海路ではケルキュラ海軍に妨害されることを恐れたからである、
ケルキュラは、コリントス側の植民者と守備隊がエピダムノスに到着し、その植民地がコリントスに託されたことを知って激怒した。そして、すぐに二十五隻の船でエピのダムスに向けて出航し、その後さらに別の艦隊を派遣して、追放された有力者たちを受け入れるように脅迫した(ケルキュラにはエピダムノスの追放者たちが亡命していて、彼らはケルキュラにある祖先の墓と親族関係であることを示し、それを理由に自分たちをエピノダムスで元の地位に戻してくれとケルキュラに訴えていた)。
また、コリントスが送った守備隊と植民者をコリントスへ返すよう要求した。
しかし、エピダムノスはケルキュラ人の言うことをまったく聞き入れなかったので、ケルキュラは四十隻の船と亡命者たちを連れてエピダムノスに戦いを仕掛けた。そして亡命者を元の地位に戻すために、異民族のイリュリア人を味方に引き入れて進軍した。
ケルキュラ軍はエピノダムスに到着すると、エピダムノス市民や外国人に対して、希望すれば無傷で去ることができるが、そうしない者は敵として扱うと警告した。しかし誰も従わなかったため、ケルキュラは(地峡に位置していた)エピノダムスを都市を包囲した。
第二十七章
コリントス人たちは、エピダムノスから使者が来て、(ケルキュラ軍に)包囲されているという報告を受けると、出兵の準備にかかり、さらにエピダムノスへの入植を希望する者は、(先の入植者と)平等に同じ条件を与えると宣言した。
また、植民に参加したいという者で、すぐには一緒に(エピノダムスに)渡航できない場合でも、五十ドラクマを支払えばコリントスに留まることができるとした。渡航に参加する者は多数にのぼり、またお金(五十ドラクマ)を支払った者も多くいた。
彼ら(コリントス人)はメガラ人にも援助を求め、ケルキュラ人によって渡航を妨害されたときのことを考えて、艦船で共に航行してくれるように頼みました。するとメガラ人は八隻の艦船を準備し、ケファロニアのパレーも四隻を用意しました。
エピダウロスにも援助を求め、彼らは五隻を提供しました。エルミオネは一隻、トロイゼーン人は二隻、レウカディア人は十隻、アンブラキア人は八隻を準備しました。
また、テーバイ人とフリウス人には資金を求め、エリス人には艦船と資金の両方を求めました。コリントス人自身は三十隻の艦船と三千人の重装歩兵を準備していました。
第二十八章
しかし、ケルキュラ人はその準備を知ると、スパルタ人やシキュオン人を伴ってコリントスに使節を送り、エピダムノスにいるコリントスの守備隊や入植者を退去させるよう要求した。エピダムノスは彼ら(コリントス人)とは関係ないという理由からである。
もし相手(コリントス)がそれに異議を唱えるのであれば、両者が合意できるペロポネソス諸都市によって調停を受けることを望んでいた。そして、どちらの側に植民地の権利があると裁定されるか、その諸都市が決定するべきだと提案した。また、デルフォイの神託に委ねることも望んでいた。
彼らは戦争を起こすことを望んでいなかった。しかし、もし避けられない場合に相手が暴力で圧迫するのであれば、今の友好都市よりもむしろ利益のために、望まざる諸都市を新たな友好都市にせざるを得なくなるだろうと述べた。
これに対しコリントスは次のように答えた。「もし(ケルキュラが)艦船と異民族をエピダムノスから撤退させるならば、話し合うことも考えよう。しかし、それ以前に、こちらが包囲されている状態で裁定に応じることは不当である。」
ケルキュラは、もしコリントスもエピダムノスにいる者たちを撤退させるならば、自分らもそうすると反論した。そして、両者がその土地から撤退した状態で、裁定が下るまで休戦協定を結ぶことにも同意する用意があると申し入れた。
第二十九章
しかしコリントス人たちはケルキュラのこれらの申し入れには全く応じなかった。船の乗組員も乗船完了し、同盟軍も集結していたので、まず使者を送り、ケルキュラ人に対して宣戦布告を行った。そして、七十隻の船と二千人の重装歩兵を率いてエピダムノスに向けて出航し、ケルキュラの軍勢に対して戦いを挑んだのである。
コリントスの艦隊の指揮官は、ペリッコスの子アリステウス、カリウスの子カリクラテス、ティマンテウスの子ティマノルであり、陸軍の指揮官は、エウリュティモスの子アルケティモスとイサルコスの子イサルキデスであった。
彼ら(コリントス人)がアンアクトリスの領地アクティウム、すなわちアポロン神殿があるアンブラキア湾の入口に到着すると、ケルキュラ人は彼らに対して小舟で使者を送り、自分たちに向けて進軍しないよう要求した。そして同時に、古い船を改修して航行可能にし、他の船も準備した。
使者が戻り、コリントス人は和平の意図が全くないという報告を受けると、ケルキュラ人はかねて準備を整えていた艦隊(百二十隻のうち四十隻はエピダムノスを包囲していたので)八十隻を出航し、戦列を整えて海戦を挑んだ。
そしてケルキュラ人は大勝利をおさめ、コリントスの船十五隻を撃破した。また同じ日に、エピダムノスを包囲していたケルキュラ軍は、(エピダムノスで内紛を起こした)異民族を解放し、コリントス人については後日どうするか決定するまで捕虜として拘束するという協定を結んだ。
第三十章
この海戦の後、ケルキュラ人はケルキュラの岬、レウキンメに戦勝記念碑を立て、コリントス人は捕虜として拘束したが、捕えられた他の者は全て殺された。
その後、コリントスとその同盟軍は海戦で敗北し、船で本国へ撤退したので、ケルキュラ人はその地域一帯の海を支配することになった。
そしてコリントスの植民地であるレウカダに向かって進軍してその地を荒らし、さらにコリントスに船と物資を提供したという理由で、エリス人の港町キュレネーに火を放った。
ケルキュラ人はこの戦いの後、ほとんどの常に制海権を握り、コリントスの同盟軍の船が海を渡ろうとするたびにこれを撃破していた。
しかし夏も終わり近くになって、コリントスは自分たちの同盟軍が困難に陥っていることを知ると、ようやく船と軍隊を派遣し、アクティウムとテスプロティスのキメリオンの周辺に駐留して、レウカダやその他の友好都市を守るための警備に当たった。
ケルキュラ人もまた、レウキンメ岬に船と陸軍を駐留させて対抗した。しかし、どちらの側もお互いに攻撃を仕掛けることはなく、この夏の間は対峙したままであった。そして冬が近づくとそれぞれ本国へ撤退した。
第三十一章
この海戦(紀元前四三五年)の後、コリントスはその年とその翌年の間、ケルキュラ人との戦争に対する怒りから、強力な艦隊を整備するために造船を続けていた。また、ペロポネソス全域や他のギリシャ地方から漕ぎ手を集め、高い報酬で雇い入れて準備を進めていたのである。
コリントスの準備を知ったケルキュラ人は恐れを抱き、アテナイに赴いて同盟を結び、彼らから何らかの支援を得ようと考えた。ケルキュラ人は他のギリシャ人と同盟を結んでおらず、アテナイやスパルタの同盟にも加わっていなかったのである。
これを知ったコリントスもまた、アテナイに使者を送った。ケルキュラの艦隊に加えてアテナイの援軍が自分たちに対して立ちはだかると、準備している戦争が思うようにいかなくなり、それを防ごうとしたのである。
民会が開かれると、両者が対立して討論に入った。まずケルキュラ人が次のように述べた
第三十二章
「アテナイ人たちよ、私たちのように大きな恩義も同盟の義務もないまま、他国に助けを求めに来た者が、まず最初にすべきことは、彼らの要求がいかに有益であるか、または少なくとも害にならないことを説明することである。そして、次にその恩が確実であることを保証すべきである。もしこれらの点について明確に示せない場合には、失敗しても怒らないでほしい。
ケルキュラは、同盟の要請とともに、これらのことも含めて皆さんに強力な支援を提供できると確信し、私たち使者を派遣しました。