テュキュディデス「戦史」

著 者 テュキュディデス(Thucydides)
底 本 小西晴雄「歴史」
URL ペルセウス・デジタル・ライブラリー

目 次

第一巻 

第一章

アテナイ人のトゥキュディデスは、ペロポネソス人とアテナイ人が互いに戦った戦争について書き記した。戦争が始まった時点からすぐに記録を始め、これが大規模で非常に重要な戦争になると予想した。彼は、両者がすべての面で準備万端であり、他のギリシア人たちも一部は直ちに一部は様子を見ながら、どちらかの陣営に加わるだろうと考えたからである。

この戦争はギリシア人にとっても、一部の異民族にとっても、これまでで最大の動乱であった。そして言うなれば、人類全体に広がるものであった。

これ(ペロポネソス戦争)より前の時代や、さらに古い時代のことは、時の経過が長いために明確に知ることはできなかった。しかし私が長い時間をかけて調べた証拠に基づく限り信じられるのは、それらの戦争もその他の事柄もそれほど大規模なものではなかったと私は思う。

第二章

現在ヘラス(ギリシア)と呼ばれている地域では、かつては安定的に居住していた部族はおらず、人々は頻繁に移動しており、ある部族は数の上で多い部族に迫られると、容易に自分たちの居住地を捨てていた。

交易は全くなく、互いに自由に交わることもなく、陸路でも海路でも安全に接触することができなかったため、それぞれが生計を立てるのに十分な範囲で自分の土地を管理し、財産の蓄えもなく、土地を耕すこともなかった。なぜなら、いつ他者が攻め込んできて、城壁もない彼らの土地を奪い取るかわからなかったからである。このため、日々の必要な糧を手に入れることだけを考え、どこでも住んでいけると考えていたので移住生活を苦にしていなかった。したがって、都市として規模的に大きくなることはなく、またその他の物資も潤沢になることはなかった。

特に肥沃な土地は常に住民の変遷が激しかった。現在テッサリアと呼ばれる地域や、ボイオティア、そしてペロポネソスのほとんど(ただしアルカディアを除く)、さらに他の土地が豊な地域も同様であった。

土地の肥沃さゆえに、特定の人々の力が強力になると内乱が起こり、そして同時に異民族からしばしば狙われ、それによって滅ぼされる部族もあった。

一方、アッティカ地方は土地が痩せていたために内乱が起こらず、長い間同じ人々が住み続けていた。

そしてこのことは、移住によって他の地域が同じように発展しなかったことの重要な証拠である。戦争や内乱によって他のギリシアから追放された有力者たちは、安定した場所であるアテネへ避難し、すぐに市民となって、古くからの住民にさらに加わり都市を一層大きくした。その結果、アッティカでは土地が十分でなくなるほどになり、後にイオニアへ植民が行われた。

第三章

また、このことも古代のギリシアの弱さを最もよく示しているように思われる。すなわち、トロイ戦争以前には、ギリシア全体が共同で行動したという記録がまったく見られない。

また、私にはこのことも明らかである。この『ヘラス』(ギリシア)という名称は、すべての地域でまだ広く用いられていなかったようであり、デウカリオーンの息子であるヘレーン以前には、この呼び名はまったく存在していない。それぞれの地域は他の民族名、たとえばペラスゴイ人など、自分たち独自の名前で呼ばれていた。しかし、ヘレーンとその子供たちがフティオティス地方で力を持ち、他の都市にも利益をもたらすようになると、各都市は徐々にヘレーン人(ギリシア人)と呼ばれるようになった。しかし、それでもこの名称が全体に行き渡るにはまだ多くの時間がかかった。

このことはホメロスが最もよく証明している。彼はトロイ戦争よりもずっと後の時代の人だが、全体を『ヘラス人』と呼んでるところはない。彼がその名で呼んでいるのは、アキレウスに従ったフティオティス出身の者たちだけであり、彼らが最初に『ヘレーン人(ギリシア人)』と呼ばれたのである。この他の部族は、ホメロスは詩の中で『ダナオイ』や『アルゴス人』、『アカイオス人』と呼んでいる。つまり『バルバロイ(異民族)』という言葉を使っていないのは、『ギリシア人』という一つの名称が対立する形で確立していなかったためだと私は考える。

このように各都市ごとにギリシア人として互いに理解していた者たちや、後に全体としてギリシア人と呼ばれるようになった者たちも、トロイ戦争以前には弱小な都市に過ぎず、互いの交流も少なかったことから、まとまって行動することはなかった。しかしこの遠征については、彼らはすでに海を多く利用していたので、一緒に出陣したのである。

第四章

我々が伝え聞く中で最も古い時代に海軍を組織したミノス(クレタ島の支配者)は、今のエーゲ海域の広範囲にわたって支配権を確立した。そしてキクラデス諸島を支配し、カリア人を追い出して、多くの島々の最初の開拓者となり、自分の息子たちをその島々の統治者に任命した。また当然のことながら、収入を増やすために、可能な限り海賊行為を取り締まったのである。

第五章

というのも、古代のギリシア人やバルバロイ(異民族)のうち、海沿いに住む者たちや島々を所有していた者たちは、より頻繁に船で互いに渡航し始めると、海賊行為に手を染めるようになった。彼らは決して弱者ではなく、利益を得るために、また貧しい者には生計を立てるためにこの道に進んだ。城壁を持たない都市や村に住む人々を襲い、略奪して生計を立て、その活動に恥を感じることはなく、むしろ名誉とされることさえあった。

このことは、今でも一部の大陸に住む人々が証明している。彼らにとっては、この行為(海賊行為)を立派に行うことが名誉とされている。というのも古代の詩人たちの表現を見ると、どこでも同じように船で到着する人々に『あなた方は海賊ですか?』と尋ねることが習慣だった。また尋ねられた人々はその行為を恥じることなく、また尋ねる側もそれを非難するような様子もなく描いているのである。

そして彼らは、互いに内陸においても略奪を行っていた。現在でも特にオゾライ・ロクリス人、アイトリア人、アカルナニア人、その周辺の多くのギリシア本土には昔の習慣が残っており、彼らが武装しているのは昔からの海賊行為の名残である。

第六章

実は、かつてはギリシア全土が武装していた。それは住居が無防備であり、互いに安全な交流ができなかったためである。したがって、人々は生活の中で武器を持つことが常態化しており、それはまるで異民族(バルバロイ)のようであったのだ。

今日でもかつての生活様式を続けているギリシアの地方が残っているのがその証拠であり、その昔はすべての人々が同じような生活を送っていたことを示している。

そして最初にアテナイ人が武器を置き、生活様式をより贅沢で洗練されたものへと移行した。彼らの中でも裕福な年長者たちは贅沢な生活を送っていたので、贅沢なリネンのチュニックを着るのを止めたのも、また頭髪につけていた金のセミの飾りを取ったのも、それほど昔のことではない。この習慣は彼らの親族であるイオニア人にも伝わり、特に年長者には長く受け継がれた。

また、スパルタ人は、再び現代のような簡素な衣服での生活を最初に始めたのであるが、彼らは富裕層であっても一般の多くの人々と同じような暮らしをしていた。

公の競技を裸で行い、また自分たちの体に油を塗って身体を鍛える習慣を最初に始めたのもスパルタ人である。古くはオリンピック競技でも、選手たちは下半身にだけ布を巻いて競技をしていたが、この習慣は数十年で廃止された。しかし、今でも一部の異民族、特にアジアの民族の中には、ボクシングやレスリングの競技を行う際に布をまとっている者がいる。

このように古代のギリシアの生活様式が、現在の異民族の生活様式と類似していることを示す例は他にもたくさんあるだろう。

第七章

比較的新しく建設された都市はすでに航海術が発達していたため、より豊かな財産を持つものがは海岸沿いに城壁を築き、海峡を占拠して商業や隣接する諸国への影響力を強めていた。一方、古い都市は、長らく海賊行為の影響を受けていたため海から遠く離れた場所に建設され、今でもそのままそこに住んでいるが、これは島でも大陸でも同様である。海洋民族でなくても海沿いの都市では互いに略奪しあっていたからだ。

第八章

そして、島々の住民、特にカリア人やフェニキア人も海賊であった。彼らは多くの島々に住みついた。これを証明する出来事として、アテナイ人がこの戦争中にデロス島を清め、島に埋葬されていた遺体を掘り起こしたとき、半数以上がカリア人であることが判明した。これは、埋められていた武器や葬られた様式が、現在も続いているカリア人の埋葬方法と一致したからである。

ミノスの海軍が確立されると、島々同士の航海がより安全になって盛んになった(というのも、彼によって島々の悪党たちが一掃され、多くの島々に彼が入植を行った時期であった)。

そして海沿いに住む人々はより多くの財産を得るようになり、より安定して定住するようになった。中には自分たちが富裕になるにつれて、城壁を築く者もいた。利益を追求するあまり弱者は強者の支配を受け入れ、強者は豊富な資源を持つことでより小さな都市を従属させていった。

このような形で発展を続けた後、だいぶ経ってから彼らはトロイアに遠征したのである。

第九章

思うに、アガメムノンが多くの艦隊を集めることができたのは、ヘレネの求婚者たちがテュンダレオスの誓いに縛られていただけではなく、当時の権力者たちの中で抜群に実力があったからである。

また、ペロポネソスの人々の中でも最も確実な記録を伝える人もこう語っている。
ペロプスは最初にアジアから莫大な財産を持ってやって来て、貧しい人々の間で権力を得、その結果、彼が異国人でありながらもその土地に自分の名(ペロポネソス)を残したのである。その後さらに、彼の子孫たちにはより大きな富と力がもたらされた事情は次のとおりである、
(ペルセウスの子孫)エウリュステウスがアッティカで(ヘラクレスの子孫)ヘラクレイダイに殺された時、(ペロプスの子孫)アトレウスは彼の母の兄弟であったため、遠征に際してエウリュステウスからミュケナイとその支配権を委ねられていた(アトレウスはたまたまクリューシッポスの死によって父ペロプスから逃亡していた)。
エウリュステウスが遠征から戻らなかったため、ヘラクレイダイを恐れていたミュケナイ人たちは、アトレウスが有能で民衆をうまく扱っているように見えたので、ミュケナイとエウリュステウスが治めていた領土の王権をアトレウスが継承することを望んだのである。
こうしてペルセウスの子孫よりもペロプスの子孫の方が優勢になったのである。

アガメムノンはこれらの権力を引き継ぎ、他の者たちよりも強力な海軍を持つことで優位に立っていたので、民衆の好意というよりむしろ脅迫によって軍勢が集められ、トロイア遠征を実行したのだと私は思う。

アガメムノンは最も多くの船を率いて参戦し、しかもアルカディア人にも艦隊を提供したようである。もしもホメロスが証言している事実を論拠とするに足るならばこの点は確実である。というのもホメロスはアガメムノンが王権を受け継ぐと同時に、彼が『多くの島々と全アルゴスの支配者である』と述べているのである。

つまり近隣の島々(多くの島々とは呼べないであろう)以外の地域を(アガメムノン以前の)本土の王が支配することはできなかったということである。海軍を持っていなかった時代であればなおさらである。そしてこの遠征(トロイ戦争)の実情から、その前の時代の争いがどれほどの規模であったかを推測することが肝要である。

第十章

ミュケナイが小さかったことや、当時の都市が今は大したものに見えないことがあるとしても、それをもってして詩人たちが語り伝承されている遠征の規模が、それほど大きくなかったのではないかと疑うべきではない。

例えば、もしラケダイモン(スパルタ)の都市が荒廃し、神殿や建物の基礎だけが残されたとしたら、長い年月が経った後にそれを見た者は、彼らの実力に対して非常に疑いを抱くと思う(とはいえ、彼らはペロポネソスの五分の二を支配し、全体を指導し、多くの同盟国を持っている)。
しかし、スパルタは一つの都市として統合されておらず、壮麗な神殿や建物を持っているわけでもなく、ギリシア古来の風習に従って村々に分かれて住んでいるため、その外見からは実際よりも劣って見えるだろう。
一方、アテネが同じように荒廃した場合、見た目の印象から、実際の実力よりも二倍ほど強大な都市であったと推測されるだろう。

したがって、都市の外見を信じるのではなく、その実力を考慮することが適切であり、あの遠征(トロイ戦争)がそれ以前のものに比べて最大であったとしても、今の時代のものよりは劣っていたと考えるべきである。そして、ホメロスの詩に頼るべきであるなら、彼が詩人として誇張しているのは当然だが、それでもなお、あの遠征は現在のものよりも劣っていたように思われる。

ホメロスは千二百隻の船を描いているが、ボイオティアの船は各々百二十人、フィロクテテスの船は五十人を乗せていた。これは他の船の規模については特に言及されていないことから思うに、最大のものと最小のものを示しているのだろう。
またフィロクテーテスの船では全員が弓兵として描かれていることから、すべての漕ぎ手が戦闘員であったことを示しているとすれば、王や指導者以外に多くの従者(非戦闘員)が同行していたとは考えにくい。特に漕ぎ手が戦闘員の装備とともに海を渡ろうとしていたことを考えれば、船は現代のように甲板で完全に覆われたものではなく、昔ながらの海賊船のような形で準備されていたのである。

最大の船と最小の船を基準にしてその中間を考えてみると、ギリシア全体から共同で派遣された数としてはそれほど多くはなかったように思われる。

第十一章

原因は人口が少なかったというよりも、むしろ財政の不足によって物資が足らなかったからであって、兵力は規模を縮小し、自ら現地で戦いながら生活できる程度の人数しか連れて行けなかったのである。
彼らがトロイに到着して初戦で勝利を収めたことは明らかであるが(もし勝利していなかったなら、軍を守るために防壁を築いたりはしなかっただろう)、それでも全軍を動員せず、代わりにケルソネソス半島で農業や略奪を行って物資を補っていたのである。
このためトロイ軍は彼らが分散していたことを利用し、十年もの間彼らに対抗できたのであり、残された敵の兵力と常に対峙することができたのである。

もし彼らが食糧の余裕を持って到着し、略奪や農業をせずに全軍がまとまって戦い続けていたならば、戦闘で容易に勝利しトロイアを陥落させていたであろう。
実際、彼らは全軍ではなく常に一部の兵力でしか攻撃していなかったが、それでも攻め続けていたのである。包囲作戦を徹底していればもっと短期間でそして容易にトロイアを陥落させていただろう。
しかし物資の不足のために以前の戦争はもちろん、このトロイ戦争もまた最も有名な戦争であったにもかかわらず、実際の行動においては評判に及ばず小規模であったことが明らかである。そして詩人たちの語りによって現在の名声が得られているのである。

第十二章

トロイア戦争の後も、ギリシア人は依然として移住と入植を続けていたので、安定して発展することがなかった。

ギリシア人のイリウム(トロイア)からの撤退が遅れため、長い間多くの混乱が生じた。このため各都市では頻繁に内乱が発生し、住む場所がなくなった人々は新たな都市を建設したのである。

例えばボイオティア人は、イリウムの陥落から六十年後にアルニスからテッサリア人に追われて現在のボイオティア、以前はカドメイアと呼ばれていた土地に移住しました(以前もこの土地には彼らの一部が住んでおり、イリウムへの遠征もしていました)。
またそれから八十年後には、ドーリア人がヘラクレイダイと共にペロポネソスを獲得しました。

そして長い時間をかけて、ようやくギリシアは落ちつくと、もはや新しい植民地を設立することはなくなり、イオニアはアテナイ人や他の島々の多くによって入植され、イタリアとシチリアのほとんどはペロポネソス人や他のギリシア人によって占められるようになった。これらすべての植民地はトロイア戦争の後に建設されたものである。

第十三章

第二巻