二、孤 兒 預 り 所
6
それからの十月程の間というもの、オリヴァーは、全く組織立った欺懣の犠牲にされていた。
彼は勿論、人工栄養で育てられた。
幼兒の栄養が足りないということは、救貧院の役員から教会区の役員へと報告された。
教会区の役員は又救貧院の役員の資格を以って、院内の住居者でオリヴァーに栄養を慰謝
をば授け得べき女性があるや否やを、救貧院役員へ照会したが、救貧院役員が謹んでそういう女性のいないことを答えるに至って、教会区役員は満場一致で、しかも、慈悲深くも、オリヴァーを「預ける」ことにしてしまった。
言葉を換えて言えば、その市から三哩ばかり離れたところに、救貧院の分院とも見るべきものがあって、其処では、一人の老女の監理の下に、何時も二三十人の孤兒が床の上を転げ廻っているのであったが、其
へオリヴァーを預けるというのであった。
7
その孤兒一人頭の入費は一週六片半というのであるから、それだけの銭では、幼兒
は皆不快になるくらいにまで満腹させられ得る筈であったのだが、その老女は世智にも経験にも長
けた一筋縄ではいかぬ女であったので、幼兒
等には何れだけにすればいいものであるか、何うすれば何れだけが自分の利徳になるか等いうような点をば詳細にはっきりと知って居った。
で、老女は幼兒等の費用の大部分をば自分の懐中に入れてしまって、幼兒等の諸費用を本来の高よりグッと切り詰めたのだ。
詰まり、そういう風にして、この老女は、物の下の深所
の先きに、なお一層の底の深所があるものだということをば発見したのであって、自分が其所で偉大なる実験派哲学者であることをしめしたわけであった。
8
昔或る実験派哲学者があって、馬は何も食わずに生きていることが出来る物だという学説をば唱導し、馬が一日藁
一本で生きていられるというところまではその学説を証明し、今一歩で馬は全く何も食わずに勢い好く飛び跳ねることのできる動物であるという生きた実例をば何等疑点なく世上
に提示することができる筈であったのだが、惜しいかな、その馬は空気という飼料
の最初の旨さをば味わい得るに先だつこと二十四時間にして、バッタリ死んでしまったという話は、誰でも知っているだろう。
運悪るくも、オリヴァー・ツウィストの世話を委託された女性の実験哲学にあっても、大抵何時もこの前の運命と同じような結果が老女の方法の実行には伴うのであった。
即ち、一人の幼兒ができるだけ最も栄養の少ない食物のできるだけ最も少ない量で生存し得るように自ら処置することができた丁度その刹那に、意地悪くも、十中八半
ぐらいの割り合いで、その兒は栄養不良とか、感冒
とかで倒れるとか、附き添う者がなかったがために火の中へ落ちるとか、運悪くも何うかして半窒息になってしまったとか、いうような事が起こって、そういう場合には、何時でも、哀れな幼ない者どもは大抵彼の世へと呼ばれて行って、其処で、この世では名も顔も知らなかった父親たちの膝の下へと集められてしまうのであった。
9
時々は寝台掃除の時に幼兒のいることを忘れて、教会区の幼兒を壓
し潰してしまったとか、家の洗い日であったがために幼兒が都合悪くも煮湯の中へ落ちて死んだとかいうような場合には、尤も、洗い日に似寄ったようなことは此処の幼兒預り所では極く稀有
であるので、火傷の場合は先ず余りない事であるのだが、そういう場合には、何時もにない一般の興味を惹く検屍裁判が開かれ、陪審員は面倒な審問をしようと思いだし、教会区の住民は住民で、反抗的に詰問書に署名はするにはする。
けれども、権威者に対するそういう干犯の行為は、医者の鑑定と教会区の証言で一と堪
りもなく圧倒されてしまうのだ。
詰まり、医者の方かは何時も幼兒の屍体を切り開いて見るが、中には何もない、(物をロクに食わせていなのだから、それは先づ大抵腹の中は空虚であるべきはずである)それから教会区の方はというと、これは何時も変らず、教会区の人々が教会区の口をとおして言わせたと思う通りの証言をする。
教会区の人々は皆自分の区の対面ばかり重んじているのだから、事実通りの証言などを誰も要しはしないのだ。
幼兒虐待というような事実はこの教会区には決してないという証明がよし表面だけでも立てばそれで宜しいのであった。
その外、教会院委員が幼兒預り所へ定時の視察をすることになっていたが、何時もその前日に教区吏をやって自分たちの翌日行くことを知らせるのであった。
だから、委員たちが観に行った時には、幼兒等は何時も小綺麗なのだ。誰が見てももうそれで沢山であった訳だ。
10
こういう育兒所の方法が、極く非常な盛な収穫を齎らすものだとは誰も思わぬであろう。
オリヴァー・ツウィストは九回目の誕生日を迎えたが、顔の蒼い痩せた兒童で、身長も幾らか低く、胴廻りも余程細かった。
が、天然か、遺伝か、オリヴァーの胸には善い確乎した元気が植えつけられていた。
この育兒所の食い物が少なかったことのお陰であろうか、オリヴァーの胸の内はそういう元気が傍聴するだけの十分な余地があった。
或いは、オリヴァーが九回目の誕生日をそう迎えることができたのは、そういう事情のお蔭であったかも知れぬのだ。
が、そんな事は何うでもいいとして置いて、とにかく、それはオリヴァーの九回目の誕生日であって、彼は他の二人の若い紳士(幼兒のこと)と共に特に選び出されて、石炭貯蔵の穴倉で、その誕生日を祝っていたのだ、詰り、その三人の兒童は、大胆不敵にも腹がすいたなどと言い出した罪によって、散々打ちのめされた後で、その穴蔵へ閉じ籠
められていたのであった。
ところが、丁度その時、家の主婦のミセス・マンの眼に、庭門の網代戸
を押し開けようとしている教区吏ドンブル氏〔原文ママ〕の姿が忽然として入ったのだ。
11
「あら、まあ、バンブルさんですわねえ」
ミセス・マンは如何にも嬉しそうな態を装って、窓から、顔を突き出して言って置いて、室内
の方へは極く小声で、「それ、スウザンや、お前、直ぐオリヴァーとあと二人の頑童共をさ、早く二階へ引きずってって綺麗に洗っておくれよ、さ早くさ』
それから、バンブル氏の方へ向いて、「あら、まア、嬉しいですわねえ。何うもまア好くいらしってくださいましたわね、まア、ほんとうに」
12
ところが、バンブル氏は肥った短期な男なので、ミセス・マンのお世辞たらだらの言葉を耳にも掛けず、開かない網代戸を、揺
ぶったり、蹴ったりしていた。
もうこれまでに兒童
の始末をつけさしてしまったので、十分安心したミセス・マンは家のなかから駆けだして行って、「まア、あたし、何うしたらいいでしょう。ほんとに何うしたらいいでしょう。兒童たちが大切なんで、門をなかから締めて置いたのをすっかり忘れてしまってましたわね。さア、まア、お入りください。さア、ずっとお入りください。バンブルさん、さア何
うぞ」
13
いかな無愛想な教会番人の心でも和げ得るようなこの愛嬌たっぷりの挨拶でも、この教会区ハンブル氏の不機嫌は直らなかった。
「これ、ミセス・マン、教区の役員が、教区の孤兒に就いての用務で参った時に、それを庭戸の外へ締め出して待たして置くちゅうのは、無礼な怪
しからんことだとは、あんた思いなさらんか?」ミセスマン〔原文ママ〕、あんたは、教区の雇員で、手当を受けていなさることを忘れさしやったかな?」
バンブル氏は、杖をしっかり握って、そう言った。
「イェ、それはもう、バンブルさん、あたくしは、ほんとに、貴下、貴下をお好き申しております。可愛い兒童たちに、貴下が置いでなさることを話して聞かして居りましたんですわ」
ミセス・マンは、極くうやうやしい態度でそう答えた。
「あア、あア、ミセス・マン。まア、それはあんたの言う通りかも知れん。ともあれ、家内へ案内さっしゃい、わしは用務で来ましたで、話もありますでな」
バンブル氏もずっと静な声になった。
14
ミセス・マンは、教区吏をば小さい客間へと案内した。
そして、兒童の病気の時に、薬に混ぜるのだと言って、ジン酒をバンブル氏に羞めた。
バンブル氏は、水を割ったジン酒を啜りながら用談を始めた。
15
バンブル氏は柔皮の手帳を出して、「さて、そこで、用事なんぢゃが——オリヴァー・ツウィストという名で、仮洗礼を受けさせたあの童は、今日丁度九歳になりましたわい」
「ほんとに可愛そうな童ですわ」と、ミセス・マンが、エプロンの隅で左の目を擦り赤めながら、言を挟れた。
「初めは十磅、後でそれを二十磅に増して賞金を懸けたですわい。そういう風にこの教会区の方で、最高の努力をしたですけれどもな、彼童の父親も、母親の住居も、名も、身分も一切分らんぢゃった」
それで、オリヴァー・ツウィストのいう名は、バンブル氏は、無名の孤兒に名を附ける時に、何時もABC順で附けるので、オリヴァーの番が丁度Tの番に当ったので、バンブル氏が、ツウィストと名附けたというのであった。
「あら、まア、貴下はほんとに文学者でいらっしゃいますわね」
ミセス・マンはそう褒めそやした。
「いや。いや」
そのお世辞でひどく満足したらしい教区吏は、「そうかも知れんです。それはそうかも知れんですわい、ミセス・マン」
バンブル氏は、そこでジン酒を飲み終って、それから話しを続けた。
それは、オリヴァーはもうこの育兒所に置く年齢を越えてしまっているので、役員会は、オリヴァーをば救貧院へ伴れて帰ろうということに決した。
それでバンブル氏自身が、オリヴァーを伴れにやって来た。
で、直ぐ、その童をバンブル氏の前へ伴れて来いというのであった。
16
「直ぐ伴れて参るでございますよ」
そう言って、ミセス・マンは、オリヴァーを伴れにと部屋を出た。
オリヴァーは、もう此時は、彼の顔や手をべったり蔽っている垢や埃の外皮をば、一度の洗いでこそげ落とすことのできるだけを落とされて、その所謂恩人の主婦に伴れられて、ハンブル氏のいる部屋へと入って来た。
「旦那にお辞儀をしなさい、オリヴァー」
ミセス・マンが言った。
17
オリヴァーは、椅子に腰掛けているバンブル氏と、卓子の上のバンブル氏の船底の帽子の、丁度間の所へ向けてお辞儀した。
「わしと一緒に来るかね、オリヴァー」
そう言ったバンブル氏の声には、威儀厳然たるものがあった。
18
オリヴァーは、誰とでも喜んでこの家を出ると言おうとしたのであったが、その時、ひょいと見上げると。教区吏の掛けている椅子の後へと廻ったミセス・マンが、恐ろしい怖い顔付で、オリヴァーに向って拳固を振っているのが眼に入った。
オリヴァーは、そこで本当のこと言っては不可ないのだということが直ぐ分った。
拳固は度々身体に当てられていたので、それの意味は直ぐに分るようになっていたのだ。
「伯母さんも一緒に来てくれるんですか」
哀れなオリヴァーは、抜からずそう訊ねた。
「いや、伯母さんは行けない。だが、時々お前に会いに来てくれる」
バンブル氏の答えはそうであった。
19
オリヴァーに取っては、ミセス・マンが会いに来てくれようがくれまいが、別に大した慰めになるのではなかった。
けれども、彼は幼いとはいいながら、この家を出る別れが如何にも悲しいという感情を装うだけの知恵は十分あった。
オリヴァーに取って、眼に涙を出す位ののことは何でもないことであった。
何時でも泣きたいと思えば食物もろくに貰えないことと、この頃の虐待とを思い出しさえすればよかったのだ。
オリヴァーは全く本当に泣く事ができたのだ。
ミセス・マンは、オリヴァーを幾度となく抱き上げた。
そして、オリヴァーに取って尚お一層有難いことには、パンの幾片かに、バターを添えて渡してくれた。
これはオリヴァーが救貧院に行った時に、余りに腹が減っていて物を食いたがると、自分の家で、兒童に食物をロクに与えないということが、発覚しては大変だと思ったからであった。
手にパンの片を持ち、頭に小さい鳶色の布の教区帽を被って、オリヴァーは、彼の幼年時代の暗黒の中で、一つの親切な言葉さえ聞かず、一度の親切な顔付さえ向けられなかったその悲しい家をば、バンブル氏に伴れられて出た。
で、そんな家であったけれども、家の扉が彼の後で閉まるというと、幼童らしい悲しみの苦しさにわッと泣き出して終った。
彼が今別れて行く不幸の中での小さい友達は、賤しい哀れな者どもであったけれども、オリヴァーが生まれてから持った遊びと友達というのは、そういう者ども限りであった。
今、それらの友達にさえ別れて、たった独り、大きい広い世間へ出るという何とも言えぬ淋しい心持が、茲で初めてこの幼童の心の底へと沈んで行ったのだ。
20
バンブル氏は大股で歩いた。
小さいオリヴァーは、バンブル氏の金絲で縢った袖口を掴んで、チョコチョコに走り附いて行きながら、三四丁行く度に「もう直きなのか」と、尋ね尋ねした。
その度にまたバンブル氏は、極く短い素気ない返事をした。
ジン酒のお蔭で、一時機嫌好くなっていた心持が、もうすっかり消えてしまって、バンブル氏は又ふたたび元の無愛そうな教区吏に戻ってしまったのだ。
21
救貧院へ着くと、バンブル氏はオリヴァーを一人の老女の手に渡して、何処か引っ込んでしまったが、軈て十五分も経たぬうちに、即ち、オリヴァーが、パンの二つ目の片を食い了らないうちに、バンブル氏は又出て来て、それは役員会議の晩なので、役員会の命令で、オリヴァーに其処へ出ろと言うのだと言うのであった。
22
英語では、役員会のことをボオドと言う。
即ち日本の音葉のボオルド(黒板)と同じ字なのだ。
で、オリヴァーは、それまでは板のボオルドしきゃ知らなかったので、今生きたボオルドというものは一体どんなものであるのか、どうも分らず、そういうものがあると聞いてひどく驚き、笑っていいものか、泣いていいものか全く分らなかった。
けれども、そんなことをもっとよく考える暇もあらせず、バンブル氏は、オリヴァーに眼を覚さす為にと、杖でオリヴァーの頭をコツンと叩き、尚しゃんしゃんと振るまわせようと、頭の後をもう一つ叩き、後へ附いて来いと言て、白塗の壁の大きな部屋とオリヴァーを連れ込んだが、其処には、八人から十人程の肥った紳士達が、卓子の周囲に坐っていた。
上座の所に、他の席よりは少し高い肘掛椅子に、ひどく丸い赤い顔の殊に肥った紳士が腰掛けていた。
23
「役員会の方々(ボオルド)にお辞儀をしろ」
そうバンブル氏が言ったので、オリヴァーは眼に溜まっている二三粒の涙を払って、ボオルドがあるかと、そこらを見廻したが、ボオルドは無かったが、卓子があったので、運好くそれに向ってお辞儀ををすることができた。
高い椅子の紳士から名を訊かれたけれども、そんな偉そうな人々が大勢いる中へ、不意に呼び出されたのではあり、バンブル氏からは又頭を一つコツンとやられたのとで、オリヴァーは泣き出して、オドオドしてよく返辞ができなかった。
それを見ると、白直衣の紳士が、オリヴァーは白痴なのだと言った。
24
「小童、これ。お前は孤兒だということを知っているぢゃろうな?」
高い椅子の紳士がそう言った。
「孤兒って何んですか』
哀れなオリヴァーは尋ねた。
「この小童は白痴だ——わしの思った通りだ。」
そう白直衣の紳士が言った。
最初に口を出した紳士は、「しいッ」と言って、「お前は、お父さんもお母さんもなくって、教育区のお蔭で育てられたということを知って居るぢゃろうね。そうぢゃろう?」
「そうです。」
オリヴァーはひどく泣きながら答えた。
「何で泣くのだ?」
白直衣の紳士が尋ねた。
この人には、オリヴァーが何故泣くのか不思議で堪らなかった。
何でその小童が泣くことがあるのだろう?
この人には、オリヴァーの泣く心持ちが少しも分らなかったのだ。
「毎晩祈禱を上げなさい。お前に食物をくだされ、お前の世話をしてくださる方たちの為に祈りなさい——基督教徒らしくな」
もう一人の紳士が濁声で言った。
「へえ」
オリヴァーは吃りながらそう言った。
最後に言葉を出した紳士の言ったことは、自分では気が附かなかったろうが、全くその言葉通りであった。
若し、オリヴァーが、彼に食物をくれ、彼の世話をしてくれた(言葉を換えて言えば、彼に食物をくれず、彼の世話もしてくれなかった)人々の為に祈ったのであったろう、オリヴァーは至極の基督教徒、しかも、又驚くべく立派な基督教徒らしくあったであろう。
だが、オリヴァーは、誰も彼に祈禱を教えてくれた人がなかったので、祈りなどはしなかったのだ。
25
そこでオリヴァーは、翌朝六時から起きて塡絮を造るようにと言い附けられて、教区吏の指図で低くお辞儀をして、大きな院部屋へと急いで伴れて行かれた。
そこで、オリヴァーは、粗末な硬い寝台の上で、泣き寝入りに寝入ってしまった。
これは英国の慈悲ある法律の何という好き実例であろう。
貧者さえ寝さしてくれるのだ。
26
オリヴァーはそういう風に何も知らずに寝て終ったが、役員会は丁度その日に、或る決議をして、それが、オリヴァーの将来に大影響を及ぼすことになった。
27
その役員会の紳士たちの如き、極めて賢明にして、哲学的な人々から見ると、救貧院というものは、貧民が其処にはいって、何もせずに寝て、食って、茶を飲んで、面白可笑しく暮らせる飛んだいい楽土であるのだと思われていた。
そこで、貧民にそう旨いこと許りはさしては置かれないという考えから、一つの規則を設けた。
即ち、それは、凡ゆる貧民に対して、救貧院へ入ってそろそろと餓死せしめられるか、外に居て忽ちに餓死するか、どちらかその一つを択ぶの自由を与えた。
流石に自由を貴ぶ英国の紳士たちで、貧民にさえそういう自由を与えたのだ。
決して強制などをするのではなかった。
そこで、そういう規則の結果として、規定の食事は、一日三度とも、薄い粥で、一週に二度、玉葱を一つ添え、日曜日には半斤ののパンをつけることになったのであった。
これ等並びにその救貧院の処置に就いては、多少の意見もあったであろうが、若し救貧院というものがなかったら、この市の貧民を一人一人救助する教会区の負担はどれ程になるか分らなかったのであるから、救貧の負担がなるべく小額で済む限り、院に収容された貧民が、亜sから晩まで水ばかり飲まされていようが、粥ばかりしきゃ食わされなかろうが、そんなことは公衆の一向構ったことではなかった。
公衆はただ救貧の負担の増すことばかりを恐れたのだ。
28
オリヴァー・ツウィストが救貧院へ伴れて来られてから、最初の半年の間は、この新規則が十分に強行された。
その新規則の結果、死者の数がずっと多くなって、葬式の費用がぐっと増し、それから一二週間も粥を食わせると、在院者の身体がぐっと痩せてしまって、着物がダブダブになるので、それを取り替えるなどの費用が加わるという風で、最初のうちこそ金はなかなかかかったのであるが、在院者の身体が痩せるとともに、在院貧者の数が余程少なくなったのであるから、役員会は大喜びであった。
29
小童等の食堂は、大きな石造の広間で、一つの端に銅の欄干が附いていて、其処からエプロンを掛けた食堂長が、一人か二人の女に手伝わせて、粥を柄杓で盛り分けてやるのであった。
どの小童も粥椀に一っぱいきりで、それ以上はどんなことがあっても貰えなかった。
尤も、大きな公共の祝典というものでもあれば、粥の他に、パンの二オンスと四分の一位は添えられることがあった。
男の兒というものは、大帝非常な食欲を持っているものだ。
オリヴァー・ツウィストと、彼の仲間たちは、そろそろ餓死して行く苦しみをば三ヶ月に亙って受けた。
で、もうみんな腹が減って堪らなくなったので、みんな集って会議を開いて籤を引き、その籤に当ったものが、その晩の夕食の時に、食堂長の前へ行って、粥をもう少しくれと頼むことになったが、その籤がオリヴァー・ツウィストに当った。
30
その晩みんな食堂へ出て、粥が何時もの通り一口で無くなってしまうと、小童等は囁き合い、オリヴァーに向って目交せをし、直ぐ隣の小童らはオリヴァーを突っついた。
幼童ではあったが、オリヴァーは腹が減っているが為に絶望的になり、悲しさの為に向う見ずになっていたので、卓子かr立ち上がると、椀と食匙を手に持って、食堂長の前へと進んで行って、吾ながら自分の大胆さに少し驚いた風で、「何卒、あなた、もう少しください。」
「何に」
食堂長は弱々した声で言った。
「どうぞ、あんた、もう少しください。」
31
食堂長は柄杓でオリヴァーの頭を一つ喰わし、腕を捉まえて羽翼締めにし、大声を挙げて院長の教区吏を呼んだ。
役員会は丁度何にか重大な会議中であったが、そこへバンブル氏が大周章に周章て、飛び込んできて、高椅子の紳士へと話し掛けた。
「リムキンスさん、貴下、どうぞ一寸。オリヴァー・ツウィストが、もっとくれと申したです。」
誰も彼もがはッと驚いた。
慄然とした様子が誰の顔にも現われた。
32
「何に。もっとくれ。」
そうリムスキン氏は言って、「まア、落ち着きなさい。バンブル。判然言いなさい。それでは、まだその上、彼奴は食制で定っている夕食を食った後で、もっとくれと言うたのぢゃね?」
「そう言いましたぢゃ。」
バンブルはそう答えた。
「あんな奴は、行末屹度絞罪になる。」
そう言ったのは白直衣の紳士であった。
33
この預言者の紳士の説に意義を唱えるものは誰もいなかった。
熱心な会議が開かれた。
オリヴァーは直ぐ禁錮を命ぜられた。
次の朝になると、教会区の手からオリヴァーを引き取ってくれる人には、誰にでも五磅の賞金を与えるという掲示が者の外へ張り出された。
言葉を換えて言えば、何んな商売、何んな職業に対してでも、年期小僧を要する男にでも、女にでも、先方さえ承知なら、オリヴァーに対して五磅付けてやってしまうというのであった。
三、煙 突 掃 除 人
34
オリヴァーは、腹が減っているから、もう少し食物をくれというような、そういう怪しからん涜神的な罪みを犯したというので、そういう悪魔に憑かれたような小童は、その儘にしては置かれないという役員会の知恵と慈悲によって、暗い部屋に一週間程一人閉ぢ籠められていたのであるが、或る朝のこと、煙突掃除人のガムフィールドという男が、家主からひどく催促されだした家賃の滞りを払う方法をいろいろと思案しながら、「本街」をば通り掛った。
ガムフィールドは、自分の収入をどれ程一生懸命に計算して見ても、現に入用の金高にはどうしても五磅以上、不足するのであった。
で、頭の中で無暗にいろいろ考えたり、引いている驢馬を殴りつけたりしながら、吸引院の前を通り越そうとしたが、その時門の貼り出しが眼に入った。
35
これも車に積んだ二袋の煙煤の荷を下ろしたら、甘藍の茎の一つか二つも貰えるだろうがなどと思いながら、飼主の命令などはきかずに、勝手に歩いて行く驢馬をば、頭を殴ったり、手綱を把って口をしゃくったりして、十分たしなめて置いてから、ガムフィールドに、貼り出しを読みにと門へと行った。
36
白直衣の紳士が、背後で手を組んで、門のところに立っていた。
ガムフィールドと、驢馬との争闘を見てから、ガムフィールドが、張り出しを読みにやってくるというと、紳士はほくそ笑みをした。
それは、ガムフィールドが、オリヴァー・ツウィストには持って来いという打ってつけの主人であるのだと見て取ったからなのだ。
ガムフィールドは丁度五磅だけ欲しい所であったので、貼り出しを読むと莞爾莞爾しだした。
その金に附いている男の兒はというと、ガーフィールドは、救貧院の食制のどういうものであるかをよく知っていたので、どんなものをどれ程少なく食わせても一向差支えはない。
標準暖炉で炊けるだけで二人の食物は十分間に合うのだと思ったのだ。
そこで初めからしまいまで貼り出しの文面を二度繰り返して読んでから、如何にも恭恭しく、自分の毛皮の帽子に手を掛けて、白直衣の紳士に話し掛けた。
37
「この幼童を、教区ぢゃあ年期に出しなさろうというのですかい?」
「ああ、お前、何うなんだね。」
白直衣の紳士は、愛想のいい笑顔を見せた。
「立派なmちゃんとした、煙突掃除の職で、かるい心もちのいい商売を仕込みなさろうというのならばね。」
ガムフィールドは、そう言って、「小僧を一人欲しい所なんで、わしが引き受けてもようがすが。」
「まア、入りなさい。」
白直衣の紳士がそういった。
そういうふ風で、ガムフィールドは例の会議室へと伴れ込まれた。
38
ガムフィールドが、其処でもう一度自分の希望を述べると、「どうも嫌な商売ぢゃ。」
そうリムキンス氏が言った。
「これまでにお前の方では、煙突で窒息した小童が三四人あったぢゃないか。」
そうもう一人の紳士が言った。
そこで、ガムフィールドは、小童等は、なかなか片意地で怠け者で、煙突に入ったが最後、なかなか下りてなんぞ来るものではないので、それを下りてこさせるために、一寸下から藁火を焚いて脅すのであるが、その時つい藁が湿っていると、煙ばかり強く立って、つい間違いが出来るのだ。
しかし、足を焼く位で、煙突から下りて来させるのであったら、それは寧ろ親方の慈悲なのだというような説明をした。
しかし、役員たちは小声で相談を始めて、時々「費用を節減する」「よく出納表を見なさい」「印刷した報告をださにゃアならん」というような言葉が聞こえたのであったが、軈て囁き声は止んで、役員は威儀を整えてそれぞれの座に着き、そこで、リムキンス氏が言った。
「我々はお前の希望に就いて相談したんぢゃが何うも賛成できん。」
「とても駄目だ。」
他の役員たちが言い足した。
39
ガムフィールドは、もうそれまでに三四人の小童を怪我で殺した。という非難を受けていたので、彼は役員会がどうしかした不思議な気まぐれで、そんな無関係な事件をば、此処で問題にしようとしているのかも知れぬと思った。
で、役員たちの掛け合い事の場合の何時ものやり方から見て、それもありそうなことだと思った。
けれども、自分の身にかかるそんな嫌な噂を、此処までまた呼び起こされては堪らぬと思ったので、彼は手で帽子を捩りながら、卓子の所から、そろそろと離れた。
「では、わしぢゃその兒は駄目ですかい。旦那がた。」
ガムフィールドは、戸口の所で立ち止まって、そう言った。
「いや駄目ぢゃ。」
リムスキン氏が答えて、「兎に角どうも嫌な商売ぢゃから、お前は吾々の方の懸賞より幾干か少ない額で承知したらよかろう。と思うんぢゃがね。」
ガムフィールドの顔色は明るくなって、ヅカヅカと卓子へ戻ってきた。
「幾ら出るんですかい、旦那方。ねえ、わしは貧乏だから、そう虐めないでくだせえ。いってえ幾干出るんですか?」
「そうさな、三磅十で沢山ぢゃ」
リムスキン氏が言った。
「十志だけ余計だ。」
白直衣のの紳士がそう言った。
「もし、ねえ。四磅としてくだせえ、旦那がた。四磅としてくだせえ、わしはすっかり引き受けるですがよ。さアどうぞ、そうしてくだせえ。」
「三磅十」
リムスキン氏は断乎として繰り返えした。
「それぢゃあ余り残酷でがすよ、旦那がた」と、ガムフィールドが折れだした。
「へッ、何にを馬鹿な。金銭なんぞ一文も附かんでも、安過ぎるんだ。何故彼の兒を伴れて行かんのだ、馬鹿な男だな。お前には丁度いい兒ぢゃアないか。何に、そりゃア、時々棒のいることもあるだろうが、それには、彼兒にはためになるというものだ。食い物だって幾らかかるものかな、生れてから、空腹には慣れきってる奴何だからな、アハハ﹅」
そう言ったのは白直衣の紳士であった。
ガムフィールドは、卓子の周囲の人々の顔をば口惜しそうな意地悪い顔つきで見廻したが、誰にお