ローマ帝国衰亡史 第一巻

著 者 エドワード・ギボン(Edward Gibbon)
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目 次

第一章 アントニヌス時代の帝国の範囲と軍事力

1 ローマ帝国の繁栄

紀元後約二世紀の間、ローマ帝国は地球上で最も美しい、そして最も文明の発達した人類をその治世下においていました。

その広大な帝国の辺境地は、古来からの名声と統制のとれたローマ軍によって守られていました。

穏健かつ強力な法律と慣習の影響力が、徐々に辺境地の属州の統合を固めていきました。

平和な住民たちは、富と贅沢の利益を享受し、また乱用もしていました。

元老院は国家主権者としての権威を持ってるように見えましたが、国家の施政権は全て皇帝に委ねられました。

自由な政治体制という外観は、一応、敬意をもって維持されていました。

八十年以上の幸福な時代にわたって、国家の治世は、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、そして2人のアントニウスの徳と能力によって導かれました。

この章とその後の二つの章の構想は、彼らの帝国の繁栄した状態を描写すること、そして、マルクス・アントニウスの死後、帝国の衰退と崩壊という最も重要な情況をたどることです。そのような大変革は世界中の国々に今もなお感動を与え永遠に記憶されることでしょう。

共和政ローマの元老院

古代ローマの元老院は、共和制時代の最高意思決定機関であり、元老(シナトル)たちから構成されていました。

元老院は、政治的な決定を行うだけでなく、法律の制定や軍事戦略の策定など、国家運営の重要方針に関わる職務を担当していました。

また、元老院は、政府のトップである執政官や護民官の任命や罷免、重要な外交交渉の承認なども行っていました。そのため、古代ローマの政治体制において、元老院は非常に重要な役割を果たしていました。

古代ローマ共和制において実際の政務を行う政務官として、一年ごとに通常二人の執政官が選出されました。

この2人の執政官はお互いに監視し合う制度であり、互いの権力を制限し合うことで暴走を防ぐことが意図されていました。

しかし、前一世紀に入ると政治的混乱と内戦が続いたため、独裁官)を置いたり、執政官の人数を増やすようになります。

前八一年には、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラが執政官を十人選出し、その後も多くの場合で執政官の数は2人から増やされることがありました。

このように、共和制時代には元老院が重要な役割を果たしており、執政官や護民官といった役職に就く者たちの指導的な役割を果たしていました。

その後、前二七年にオクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)が帝国の最高権力者となり、元老院は皇帝の支配下に置かれ共和制が崩壊しました。

帝国時代においては、元老院は名目上の権力を持ちつつも、実際の政治的決定は皇帝が行うことが一般的でした。元老院は皇帝の政策を支持し、彼の意向に従うことが求められました。

また、元老院内においても皇帝の支持者や反対派などが存在し、時には政治的な駆け引きが行われましたが、皇帝の影響力が非常に大きかったことは否めませんでした。

その後、ローマ帝国の歴史の中で皇帝と元老院の関係はさまざまな変化を遂げましたが、元老院は帝国政治の一翼を担いつつも、皇帝の権力に従属する存在としての性格を持っていました。

2 古代ローマ初期の七世紀

ローマ人の主な征服は共和制の下で達成されました。

そして、ほとんどの場合、皇帝たちは元老院の政策、執政官の活発な競争心、そして人々の軍事的熱狂によって獲得された領土を保持することで満足していました。

古代ローマの最初の七世紀は急激な勝利の連続によって満たされていました。

💡 王政ローマ(前七五三 - 前五〇九)

王政ローマは、古代ローマの初期の政治体制で、伝承では後述するように前七五三年に初代ローマ王ロームルスが建国し、前五〇九に第七代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっています。

王政への反省からこの年、前509年からは共和政がとられ、二名の執政官がローマの政治を司ることになりました。

王政ローマの伝説的な七人の王には、ロームルス(ローマの創設者とされる人物)、ヌマ・ポンピリウス、タルクィニウス・プリスクス、セルウィウス・トゥッリウス、アンクス・マルキウス、タルクィニウス・スペルブス、セルウィウス・スルピキウスが含まれます。

これらの王たちは、異なる時代にローマを統治しましたが、その歴史の詳細には伝説と歴史的な事実の区別が難しい部分もあります。

王政ローマの期間は、貴族層と平民層の対立や権力の移動などが含まれる複雑な時期でした。

この時代の終焉は、伝説的な出来事であるルクレティア事件(前五〇九年)によって、ローマで共和政が確立されたとされています。

この事件をきっかけに、ローマは王政から共和政へと移行し、貴族階級が政治的な権力を持つようになりました。

💡 **共和政ローマ (前五〇九 - 前二七)

共和政ローマは、古代ローマの歴史において、前五〇九年から前二七年までの時期を指します。

この時期は、王政ローマの崩壊後に始まり、初めは共和政体制が確立されました。

共和政ローマは、市民の参加と法治主義の基盤に立ち、権力の分散と相互の制約を重視していました。

一. **元老院と執政官制度:** 共和政ローマでは、元老院が最高の立法機関であり、執政官(コンスル)が行政のトップを務める制度が採用されました。元老院は貴族階級によって構成され、執政官は選挙によって選ばれました。

二. **平民の権利拡大:** 共和政初期においては、平民と貴族との対立が続きましたが、平民の権利が拡大されていきました。前二八七年の「レキニウス・セクスティウス法」によって、平民が元老院の決定に対抗できるようになりました。

三. **ポエニ戦争:** 共和政ローマは**カルタゴとのポエニ戦争**(前二六四年 - 前一四六年)を通じて地中海世界での覇権を確立しました。この戦争は数回にわたり、ローマが地中海世界の主導的な国家となる基盤を築きました。

四. **内部の政治的不安定さ:** 共和政ローマは時折、内部で政治的な不安定さを経験しました。例えば、マリウスとスッラの対立や、第三次奴隷戦争などがその一例です。

五. **ユリウス・カエサルの登場:** 共和政ローマの終焉は、ユリウス・カエサルの台頭とその後の内戦によって象徴的です。前四九年から前四五年までのカエサルの統治は、共和政の崩壊と帝政の始まりを予兆するものでした。

これらの要因が絡み合い、最終的には共和政ローマが崩壊し、前二七年にはオクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)が帝政ローマを樹立することとなりました。

カエサルのローマ内戦

一連のガリア戦争によって、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れました。

この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えました。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵軍団(陸軍の基本的な編成単位)を形成しました。

名声高まるカエサルの勢力を恐れた元老院派はポンペイウスと結んでカエサルと対抗する姿勢を強め、前四九年一月一〇日のカエサル及び配下のローマ軍団によるルビコン川渡河から始まるポンペイウス及び元老院派との内戦へ突入することになりました。

ガリア戦争終結後の共和政ローマ

(🟥:元老院派・ポンペイウス勢力圏 🟦:カエサル支配の属州ガリアイリュリア他)

共和政ローマの崩壊

共和政ローマが崩壊した原因は非常に複雑で多岐にわたりますが、主な要因は以下のように挙げられます。

一. **政治の腐敗と内紛:** 共和政ローマは長い間続いたが、時間が経つにつれて政治が腐敗し、貴族階級と平民の対立が激化しました。さまざまな政治家や将軍たちが個人的な野心や権力争いに明け暮れ、内紛が絶え間なくなりました。

二. **奴隷制度の悪影響:** 共和政ローマ時代には奴隷が広範に使用されていました。これにより一部の富裕な市民層が土地を大量に所有し、農民階級は没落しました。土地の集中が社会の不均衡を助長し、農業の衰退と都市の過密化が進みました。

三. **外敵の脅威:** ローマは多くの戦争を戦い、その中で領土を拡大しました。しかし、これによって国境が拡大し、それに対する管理が難しくなりました。外敵の脅威も増加し、特にゲルマン人や東方の部族との戦争が続きました。

四. **将軍の権力の強化:** カエサル、ポンペイウス、クラッサスなどの将軍たちは共和政の崩壊に影響を与えました。**カエサルはガリア遠征中に大きな権力を握り、帰国後に内戦を引き起こしました(ローマ内戦)。

五. カエサル派が最終的に元老院派を打倒して独裁体制を確立しました。これが結果的に共和政の終焉につながりました。

3 初代皇帝アウグストゥス

しかしその後、初代皇帝アウグストゥスに残されていた仕事は、全世界を征服するという野心的な計画を断念し、国家の諸会議に穏健な精神を導入することでした。

繁栄の頂点にある現在のローマにおいて、彼が、軍事力は不安より多くのことを期待することができないと気づいたのは、その平和を好む性格と現状からすれば簡単なことでした。

遠く離れた地で戦争を遂行し続けることは日々困難になっており、その結果も不確定で、統治はより不安定となりその利益も少なくなっていました。

アウグストゥスは、自身の指示が慎重で力強いものであれば、最も強力な敵からの要求にも対応し、ローマの安全と威厳を維持することが容易にできることを、その経験によって実際に確信することができました。

アウグストゥスの経験(ヴァルスの戦い)

ローマの作家によって「ヴァルスの敗北」と呼ばれ、トイトブルクの森の戦い(ドイツ語)とも呼ばれる呼ばれる。

ローマ帝国のゲルマニア属州の総督プブリウス・クィンクティリウス・ヴァルスの下で補助部隊と兵站部隊を含む3つのローマ軍団が、ケルスク族の族長アルミニウス(「ヘルマン」)の率いたゲルマ人に対して壊滅的な敗北した戦いをいいます。

この知らせを聞いた当時七十一歳のローマ皇帝アウグストゥスは「ウァルスよ、我が軍団を返してくれ!」(Quintili Vare, legiones redde!)と悲痛な叫びを発したとされています。

4 初代皇帝アウグストゥスの対外政策

まず、彼自身とローマの軍勢をパルティア人の矢面に晒す代わりに、信義誠実な和平条約によって、クラッススの敗北で奪われた軍旗と捕虜の返還を勝ち取ったのです。

また、アウグストゥスの初期に治世おいて、ローマの将軍たちはエチオピアとアラビア・フェリクスの征服を試みました。

ローマ軍は南北回帰線の南約千マイルまで行軍しましたが、地域の気候の熱さがすぐに侵略者を撃退し、辺境の地の非戦闘機な住民は守りました。

ヨーロッパ北部の国々は、征服のために費用や労力をかける価値はほとんどありませんでした。

ゲルマニアの森林と湿地帯は、自由を失う生活をひどく嫌っていた頑健な野蛮人の集団で溢れていました。最初の攻撃では、ローマの圧倒的な軍事力に屈したように見えましたが、彼らはすぐに絶望的な合図の行動をして、独立を取り戻しました。

このような経験は、アウグストゥスに運命の移り変わりやすさを思い知らせたのです。

パルティア帝国とクラッススの敗北

パルティア帝国は、紀元前三世紀から三世紀まで存在したイランの古代王国です。パルティア人によって建国され、ローマ帝国との間で領土拡大や戦争を繰り広げました。

ローマの将軍クラッススは、共和政ローマ時代に活躍した政治家・軍人で、三頭政治の一人です。

紀元前五三年、クラッススは、ポンペイウスに対抗し軍事的功績を得ようとしてにパルティア帝国へ侵攻しました。

しかしクラッススは、ローマ軍の軍旗(ゴールデン・イーグル)を奪われ多くの兵士が捕虜となるという壊滅的な敗北を期しました。

これに対しアウグストゥスは、軍事力によってパルティアへ侵攻するのはなく、穏健な外交交渉を展開しました。

パルティアとの和平協定によって、ローマは軍旗と捕虜の返還に成功し、パルティア側もメソポタミアの領土から一定の利益を得られて、両国によって外交的な安定をもたすという成果を得ることができたのです。

パルティア帝国の勢力圏
古代エチオピア

エチオピアの歴史

古代エチオピアは、現在のエチオピア地域に広がる歴史的な文明や王国のことを指します。エチオピアはアフリカの中でも古くから独自の文化や政治体制を持っていた地域です。

エチオピアは紀元前一〇世紀のシバの女王とソロモン王の子、メネリク一世を伝承上の国家の起源としています。

歴史上の初めて国家は、紀元前五世紀ころからティグレ地方に起こったアクスム王国で、アドゥリスの港を得て交易によって発展しました。

アクスム王国が最盛期を迎えたのは、クシュ王国を滅ぼしてスーダン北部からアラビア半島南部まで領土を広げた後三五〇年頃です。

アクムス王国は、三二〇年頃にキリスト教へ改宗しており、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世がキリスト教を公認したミラノ勅令が三一三年であることを考えると、相当に早い時期にキリスト教を受容していたといえるでしょう。

一方、イスラム教との接触もあり、交易や文化の交流が盛んに行われていました。

アラビア・フェリクス

アラビア・フェリクス(Arabia Felix)は、古代ローマ時代の地理学者プトレマイオスが記述したアラビア半島の南端部分の地名です。ラテン語で「幸福なアラビア」を意味し、その名前はこの地域の豊かな自然環境や繁栄した都市の存在を表しています。

主に現在のイエメンの領域に相当し、古代のアラビア半島の南西端は、降雨量が多かったため、他の地域よりも緑地が多く緑豊かで農業が盛んな地域として知られていました。特にマレバル山脈(現在のイエメンの山脈地帯)では、多くの水源があり、農業や都市の発展に寄与しました。

古代ローマはアラビア半島の北部の一部を支配下に置くこともありました。例えば、紀元前1世紀から紀元前3世紀にかけて、ローマはアラビア・ペトラエア(現在のヨルダン南部)を支配していました。

ローマ帝国は、アラビア半島との貿易を通じて香料や香辛料、貴重な金属などを得ることがありました。特にアラビア・フェリクスの豊かな自然資源や貴重な商品は、古代ローマの市場で高く評価され、多くの商人や船主がこの地域との貿易に参加していました。

5 アウグストゥスの遺訓

アウグストゥス帝の死後、彼の遺言は元老院で公に読み上げられました。

彼はその後継者たちに貴重な遺言として残したのは、ローマ帝国を永続的に防護する境界として自然が築いた思われる場所の範囲内に制限すること、そして、西は大西洋、北はライン川とドナウ川、東はユーフラテス川、そして南はアラビアとアフリカの砂漠地帯までがその限界ということでした。

ドナウ川とライン川
ドナウ川(ドイツ語)
ライン川(ドイツ語)
6 アウグストゥスの初期の後継者(五賢帝時代以前)

人類にとって幸いだったのは、アウグストゥスの英知によって推奨された穏健な方針が、彼の直近の後継者たちの「恐怖心」と「悪習」のおかげで採用されたということです。

初期のローマ皇帝たちは、娯楽に耽り圧政を行使するばかりで、軍勢や属州にその姿を見せることはめったにありませんでした。また彼らは、自ら見逃していたをにもかかわらず、その軍事的勝利をその指揮官の武勇と指揮によるものとして奪われること許す気はなかったのです。

一臣民の軍事的な名声は、皇帝の特権に対する傲慢な侵犯と見なされていたのです。

そして、全てのローマの将軍も、征服されるであろう野蛮人たちと同様に、自らも致命的となるかもしれない征服を望んでいたわけではなく、むしろ、彼らは自身に託された国境を守り、それが義務でありかつ利益に繋がると考えていました。

7 ブリタニア

ローマ帝国が西暦紀元一世紀を通じて、唯一征服によって属州としたのはブリタニアでした。

この一つの事実については、カエサルとアウグストゥスの後継者たちは、後者による遺訓よりもむしろ、前者の先例に従うことを選んだことになります。

その場所がガリアの沿岸部に近かったことが彼らの武力を誘い込んだように見えますが、不確かながらも魅力的な真珠の漁場があるという情報も、彼らの富への欲望を惹きつけたのです。

そして、ブリタニアは隔絶された異次元世界であるということを考えれば、その征服は、かろうじて大陸の一般的な判断基準の例外にすることができたのです。

ガリアとブリタニア

ガリアは現在のフランスとベルギー、ルクセンブルク、一部の隣接地域を指します。

ローマ帝国の時代には、ガリアは三つの地域に分かれていました。

ガリア・セルナティカ(北部)、ガリア・アクィタニカ(南西部)、ガリア・トゥリガリエンシス(東部)です。

ガリアはケルト人が占めていましたが、紀元前一世紀にローマ帝国によって征服されました。

紀元前五八年から紀元前五〇年にかけて、ユリウス・カエサルによるガリア遠征が行われ、これが有名な「ガリア戦争」として知られています。

ブリタニアは現在のイギリスのブリテン諸島を指します。

この地域はイギリス、スコットランド、ウェールズ、アイルランドなどが含まれます。

ブリタニアもまたケルト人が最初に住んでいたと考えられています。

ブリタニアはローマ帝国の支配下に入ることとなり、クラウディウス帝(後四三年)による征服が行われました。

ガリアとブリタニアのローマ帝国による約四〇〇年間の支配の後、ローマ帝国はガリア・ブリタニアから撤退、西ローマ帝国は崩壊し、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に変容します。

そして、ガリアは新たにフランク人(現在のフランス人、ベルギー人、ドイツ人など)、ブリタニアはアングロ・サクソン人(現在のイギリス人)の時代を迎えることとなります。

ガリアとブリタニアの部族(紀元前一世紀)
8 ブリタニア遠征

戦争は、最も愚かな皇帝によって始められ、最もだらしない皇帝によって続けられ、そして最も気弱な皇帝によって終結するまで約四十年かけた後、ブリテン島の大半はローマの支配下に置かれました。

ブリタニア遠征の皇帝たち
ユリウス=クラウディウス朝(前二七 - 後六八年)

ユリウス=クラウディウス朝は、初代皇帝アウグストゥスに始まるユリウス・カエサルの血統につながる5人の皇帝(アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ)の治世いいます。

その中でギボンのいう最も愚かな皇帝とは「クラウディウス」(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus)のことです。(在位:後四一 - 五四年)

クラウディウスは、ゲルマニア遠征の英雄ゲルマニクスの弟で正統な皇帝の系統でした。

病弱であったため目立たない存在でしたが頭脳は明晰で、前帝カリグラから逃れるために病弱を装っていたとも言われています。

カリグラを暗殺した近衛隊(praetoriani)に担がれて就任し、ローマ帝国では軍人に推挙され元老院が追認した初めての皇帝といわれています。

クラウディウスが始めたブリタニア遠征はカエサル以来初めての軍事行動であり、ブリテン島南部の征服に成功しています。

ただし、私生活においては酒好き女好きで気が弱いところがあり、愚か皇帝かどうか研究者の評価は分かれているようです。

次の最もだらしない皇帝とは「ネロ」(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)です。

ネロの母アグリッピナはカリグラ帝の妹で前帝クラウディウスと結婚しています。

十七歳で即位し政治にはまったく興味がなく、ギリシャ文化にかぶれた芸術家気取りの皇帝でした。

皇帝として放蕩の限りを尽くすうちに、ネロは母アグリッピナが邪魔になり殺してしまいます。

その後、自身の邪魔者をことごとく抹殺し、ローマの大火をキリスト教徒の犯罪としてペテロとパウロ処刑しました。

ただ、当時はまだキリスト教の民衆に対する影響力は小さく、後に言われる「暴君ネロによるキリスト教徒迫害」というほどのものではなかったようです。

ネロの評価は、道楽三昧を続け国家財政を赤字に陥れたまさに「だらしない皇帝」と言われても過言ではありません。

最後の最も気弱な皇帝「ドミティアヌス」(Titus Flavius Domitianus)(治世:後八一 - 九六年)は、フラウィウス朝(後六九 - 九六年)の最後の皇帝です。その次の皇帝ネルウァから、ローマ皇帝は「五賢帝時代」を迎えます。

ドミティアヌス帝の時代に、名将アグリコラがブリタニア征服を成し遂げスコットランドまで侵攻しました。

しかし、ゲルマニア総督アントニウス・サトゥルニヌスの反乱などで疑心暗鬼になってしまい、元老院と対立して議員を処刑するなど暴君に変容します。

アイルランド侵攻を計画していたアグリコラといった有能な将軍を解任するなど、自身の統治力に自信がなくなったことでこのような評価がされているのかもしれません。

9 ブリタニアの諸民族

ブリタニアの諸民族には、勇敢ではあっても統率力がなく、自由を愛していても団結力のないところがありました。

彼らは野蛮な獰猛さで武器を手にしていたようで、ときにそれを投げ捨てたり、ときに気まぐれに激昂して、お互いに武器を向け合ったりしていました。そうして、彼らは個々に戦っている間に、次々と征服されていきました。

カラクタクスの不屈の精神も、ボアディケアの絶望、ドルイド教徒の狂信も、いずれも彼らの国の奴隷化を防ぐことも、ローマ帝国将軍たちの絶え間なく続く侵攻に抵抗することもできませんでした。

帝位が、最も無力または最も残虐な人間による不名誉な時代でさえ、帝国将軍たちは国家の栄光を維持したのです。

- カラクタクスの不屈の精神

カラクタクス(CaratacusまたはCaractacusとも呼ばれる)は、ローマ帝国に対するブリタニアの部族の一世紀初頭に活躍した指導者で、ローマ帝国に対抗したことで知られています。

カラクタクスはクラウディウス治世の後四三年、タメシス川(現在のテムズ川)周辺でローマ軍に善戦しましたが、最終的に敗れローマに連行されました。

ローマに連行された後も、ローマでの抵抗を続け、クラウディウス帝の前に引き出されときに印象的な演説を行いました。

カラクタスはその演説の中でブリタニアの自由と尊厳を強調し、自らと部族の抵抗の理由を堂々述べたその態度によって、ローマ社会で広く尊敬を集めました。

クラウディウス帝は彼の勇気に感銘を受け、彼とその家族を助け、後に彼を釈放しました。

ローマの皇帝クラウディウスの前のカラクタクス、一八世紀の版画、
ボアディケアの失望

ボアディケア(Boudica)は、後一世紀初頭のブリタニアの東部沿岸(現在のノーフォーク)に住むケルト人イケニ族の女王で、有名な反乱を指導したことで知られています。「ボアディケアの失望」とは、ローマ帝国の支配下での具体的な事件について言及したものです。

ボアディケアの夫であるイケニ族の王は、ローマ帝国に忠誠を示していましたが、彼の死後、ローマの支配者たちはイケニ族の領土を剥奪し、ボアディケアの家族に対して不当な扱いを行ったとされています。

特に、ボアディケアはローマの支配者たちによって女性として侮辱され、彼女の娘たちも凌辱されたとされています。これは当時のローマ社会において、女性にとって極めて不名誉なことであり、ボアディケア自身がこれに深く失望したと考えらています。

更らに、ローマ帝国はブリタニアを支配する過程で、地元の部族に対して厳しい課税を行い、彼らを抑圧しました。このような政策が地元の支配層や一般の人々に強い反感を抱かせ、反乱の原因となりました。

ボアディケアはこれらの出来事に失望し、ブリタニアの異なる部族を結集して反乱を起こしました。

彼女は後六〇年から六一年にかけて、ローマの植民都市であるコロニア(Colonia)に対して反乱を指導し、都市を破壊しましたが、最終的にはローマ軍に敗れました。

ドルイド教徒の狂信

ドルイド(Druid)は、ケルト文化における宗教的指導者、学者、法律家、癒し手などを含む特別な聖職者や知識階級を指す言葉です。ドルイド教徒は、古代のケルト社会において神聖な存在とされ、精神的な指導者や知識の保持者と見なされました。

「Fanaticism(狂信)」という言葉は、ある信念や思想に対する極端な熱狂や偏執的な信仰を指します。この言葉は、一部のドルイド教徒が持っていたとされる極端な信仰や宗教的な熱狂を表現するために使われることがあります。

ただし、ドルイド教徒全体が「fanaticism(狂信)」を持っていたわけではありません。むしろ、ドルイド教はケルト社会において知識の伝承や宗教的儀式、法律などの様々な側面を包括する宗教的・文化的な体系でした。

10 名将アグリコラのスコットランド侵攻

ドミティアヌス帝が、自ら招いた恐怖を感じて宮殿に閉じこもっているまさにその時、ローマ軍は名将アグリコラの指揮のもと、グランピアンヒルズの麓でカレドニア人(古代スコットラン人)の連合軍を打ち破りました。

一方、ローマの艦隊は、あえて危険を冒して未知の危険な航路を進み、島のあらゆる地域でローマ軍を展開しました。

イギリスの征服は既に達成されたと考えられていました。そしてアグリコラは、アイルランドを簡単に制圧することによって、自身の軍事的成功を完全に確かなものしようと計画し、そのためには、1個軍団と数人の補助兵で十分だと考えていました。

ブリテン島の西の島は貴重な財産として発展するかもしれません。そして、ブリテン島の住民は、もし自由になる見通しや先例が、彼らの目の前の周辺から完全に無くなれば、ためらいなくローマ帝国の属州に屈したことでしょう。

名将アグリコラ(the virtuous Agricola)の記述

ガイウス・ユリウス・アグリコラは一世紀のローマの将軍であり、特にブリタニアにおける征服を進め、タキトゥスの婿でもありました。

タキトゥスは『アグリコラ』という著作で、アグリコラの生涯と彼のブリタニア遠征に焦点を当て、アグリコラの賞賛に充てています。

モンタクトゥスの戦い(Battle of Mons Graupius)は、紀元八三年にアグリコラ率いるローマ軍と、Caledonians(カレドニアンズ、スコットランド地域の部族)との間で行われた戦いです。

戦いはグランピアン・ヒルズ周辺で行われたとされていますが、具体的な場所は特定されていません。

タキトゥスは『アグリコラ』で、この戦いの詳細についてはあまり触れていません。彼は「the virtuous Agricola」とように自分の婿、アグリコラの賞賛に重点を置いており、戦闘の詳細については意図的に省略した可能性があります。

「グランピアン・ヒルズ」(The Grampian Hills)

「The Grampian Hills(グランピアン・ヒルズ)」は、現在のスコットランドの地域で「Grampian Mountains」と呼ばれています。

グランピアン山脈は、スコットランドのハイランドの主要な山脈の一つで、スコットランドの約半分を占めています。

他の二つの範囲は、ノースウェストハイランドサザンアップランドです。

グラウピウス山の戦い(モンタクトゥスの戦い)が行われた場所はスコットランドのハイランド地方とされ、更に「ハイランドとローランド地方]との境となるアバディーンシャイアのケンプストンヒル(Kempstone Hill)やベナーキー(Bennachie)の丘を含む一帯」との説が有力ですが、正確な場所については諸説が分かれています。

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しかし、アグリコラの優れた才能は、すぐに彼をブリテン総督からの解任という結果をもたらしました。この合理的だけれども大規模な征服計画は永遠に葬り去られたのです。

慎重な将軍は総督を辞する前に、統治と同様に防衛に対しても備えをしていきました。

約40マイルの狭い地域にわたって、彼は軍事基地による防衛戦を引いていました。

この防衛戦は、後にアントニヌス・ピウスの治世に、石の基礎の上に築かれた土の壁(土塁)によって強化されました。

このアントニヌスの壁は、現代のエディンバラとグラスゴーの都市を少し越えた場所にあって、ローマ帝国の属州の境界として定められました。

名将アグリコラの解任

アグリコラは紀元七七年から八三年までブリテン総督を務め、その治世で北部のスコットランド地域に進出し、カルドニア(Caledonia)として知られる地域まで遠征したことが知られています。

ブリテン総督を解任されますが、その理由はいくつか考えられます。

アグリコラのブリテン侵攻は軍事的成功を収めましたが、その遠征が続けられることで兵力や物資が枯渇し、帝国全体の防衛や他の地域での重要な軍事行動に資源を割く必要があったとする意見があります。また、ローマ帝国は様々な戦線での紛争に巻き込まれており、他の地域での重要な戦いがあった可能性も考えられます。

アグリコラの成功により彼の名声が増し、その影響力が強まることを恐れた帝国内の他の指導者たちが、彼を排除しようとしたという説もあります。政治的な陰謀やライバルたちの策略により、アグリコラがブリテン島の統治から引き揚げざるを得なくなった可能性があります。

アグリコラがブリテン島での成功を収めた時期は、皇帝ドミティアヌスの統治下にありました。ドミティアヌスは専制的な性格で知られ、アグリコラが独自の成功を収めることを嫌った可能性があります。このような政治的な背景も、アグリコラがブリテン島から引き揚げる理由として挙げられています。

12 アグリコラの残した防衛線

慎重な将軍は総督を辞する前に、統治と同様に防衛に対しても備えをしていきました。

彼は、その島が、東西相対した入江によって、又は今日ではスコット・ランド・フィルスと呼ばれている湾の存在によって、不平等な二つの地域に分断されていることに気づいていました。

約40マイルの狭い地域にわたって、彼は軍事基地による防衛戦を引きました。

この防衛戦は、後にアントニヌス・ピウスの治世に、石の基礎の上に築かれた土の壁(土塁)によって強化されました。

このアントニヌスの壁は、現代のエディンバラとグラスゴーの都市を少し越えた場所にあって、ローマ帝国の属州の境界として定められました。

スコットランド・フィルス(the Firths of Scotland)

スコットランドのフィルスは、スコットランドの東西沿岸部にある大きな入り江や湾を指します。

これには、フォース湾、クライド湾、テイ湾、モレイ湾などが含まれます。

アントニヌスの壁(Wall of Antoninus)

スコットランドのフォース川(エジンバラ市)とクライド川(グラスゴー市)の間にある古代のローマの防壁です。

ネルウァ=アントニヌス朝アントニヌス・ピウス帝によって一四二年から一四四年の間に建設され、エディンバラからグラスゴーにかけての約四十マイル(約六十キロメートル)にわたって延びています。

この壁は、アントニヌス帝がスコットランドのインヴァーネスに遠征した際に、彼の勝利を記念して建設されました。

ローマ帝国の境界線を守るためのものでしたが、後に放棄されました。現在、その一部が残っており、歴史的な遺産として保護されています。

アントニヌス・ピウスの壁とハドリアヌスの壁
13 カレドニア原住民

カレドニアの原住民は、ブリテン島の最北端で原始的な独立を保ち続けました。そのためには彼らは勇敢になるだけでなく、貧困を克服しなければなりませんでした。

彼らは何度も襲撃しましたが、撃退されそして懲罰を受けました。しかし、彼らの国が征服されることは決してありませんでした。

地球上で最も美しく最も恵まれた気候の地域の支配者(ローマ人)たちは、冬の嵐に襲われる陰気な丘や憂鬱な霧に包まれた湖、そして寒くて孤独な荒野、そしてそこでは森の鹿が裸の野蛮人たちに追われているという風景に軽蔑の眼差しを向けて、そこから去って行ったのです。

14 軍人皇帝トラヤヌス帝

Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus「マールクス・ウルピウス・ネルウァ・トライヤーヌス・アウグストゥス」(在位: 九八年一月二七日から - 一一七年八月八日)

ローマ帝国の版図はそういった穏健な状態であり、帝国の政策もアウグストゥスの死からトラヤヌスの即位までその遺訓に基づいていました。

高潔で意欲的な君主のトラヤヌス帝は、軍人としての教育を受け、将軍の才能を持っていました。

彼の前任の皇帝たちの平和な体制は、戦争と征服の場面によって中断されました。長い休止期間を経て、久しぶりにローマ軍の先頭に軍事皇帝が立ったのです。

15 ダキア遠征

最初のトラヤヌスの遠征は、ダキア人、つまり最も戦闘的な民族に対して行われました。

彼らはドナウ川の向こう側に住んでおり、ドミティアヌスの治世中にローマの威厳を侮辱し、罰せられることなく振舞っていました。

彼らは、野蛮な精神と獰猛さに加えて、人の命を軽視していました。それは、魂の不滅性と輪廻転生という信仰から由来するものでした。

ダキア王デケバルスは、自身がトトラヤヌスにとって決して劣らぬライバルであると自負しており、自分と国の運命を諦めることはありませんでした。

彼は敵が懺悔するまで、勇気と策略のすべての手段を使い果たしたのです。

この記憶に残る戦争は、一時的な武力攻撃の中断を挟んで、五年間続きました。

トラヤヌス帝は、国力の全てを自由につぎ込むことができたので、野蛮人たちの無条件降伏によって戦争は終結しました。

ドミティアヌス帝時代のダキア戦争(Domitian's Dacian War)

後八六年から八八年にかけて、モエシア属州に侵攻したダキア王国とローマ帝国の間で起きた戦争です。

ダキア人は後八五年からローマ属州モエシアへと度々侵入、属州総督を殺害していました。

デュラス王に代わってデケバルスがダキア軍の指揮を執った八六年ドミティアヌス帝が派兵したローマ軍(二軍団)を全滅させ、ローマ軍の総指揮を取っていたコルネリウス・フスクスを討ち取りました。

八七年、ティトゥス・ユリアヌスを司令官としたローマ軍がダキアに侵攻しデケバルスはこれを迎え撃つも散々に打ち破られましたが、同じ時期に高地ゲルマニア総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌスがドミティアヌスに対して反乱を起こしたことから、ローマ側の申入れにより平和協定を締結するに至りました。

これが、ローマの威厳を侮辱した協定と言われています。

このドミティアヌス帝がダキア戦争で不利な和平条約を結んだという事実は、その後の歴史家たちによって論争の的となっています。一部の歴史家は、ドミティアヌスがデケバルスとの和平によってローマの戦略的地位を弱めたと主張しています。

和平条約では、ローマはダキアに金銀の年貢を支払うことを認め、またダキアに対する年金を支払うことも約束しました。これにより、ローマはダキアに対する従属的な立場を示すこととなりました。

また、ローマはダキアにとって有益な条件を受け入れたとされ、これが後のダキアの力を増大させる一因となったと考えられています。

しかし、一方でこの条約にはローマがダキアに対して軍事的な圧力を保持し続けることを条件としていたという見方もあります。このため、ドミティアヌスの和平政策は、彼がローマの国益を守りつつ、長期的な平和を求めた結果として評価されることもあります。

ドミティアヌス帝は、ダキアのデケバロス王国に対して侵略的な姿勢をとることなく、外交によって同盟を築こうとしました。これにより、ダキアはローマの同盟国として帝国内に取り込まれた可能性があります。

ダキア王デケバルス(またはデケバロス、Decebalus)

古代ローマとのダキア戦争で知られるダキアの王でした。デケバルスは後一世紀にダキア(現在のルーマニア地域)を統治し、トラヤヌス帝国との対立で特に注目されています。

デケバルスの最も有名な時期は、トラヤヌス帝国とのダキア戦争(後一〇一年から一〇六年)です。トラヤヌス帝はダキアを征服し、その後にトラヤヌスの記念柱(Columna Trajana)を建立してこの戦争の様子を描いています。デケバルスは何度かトラヤヌスに抵抗しましたが、最終的には降伏しました。

ダキアが陥落した後、デケバルスは捕虜となり、ローマに連行されました。彼は自らの自由を奪われることを嫌い、自らの手で死を選びました。一〇六年、デケバルスは自殺し、彼の頭部はローマに持ち帰られて勝利の象徴とされました。

ダキア戦争の結果、ダキアはローマ帝国の一部となり、ローマ属州として組み込まれました。ダキアからは鉱物資源などが採取されました。トラヤヌスの勝利はローマ帝国の栄光を象徴し、その後のローマ帝国の領土拡大に影響を与えました。

トラヤヌス帝の勝因の背景

トラヤヌス帝が帝国の国力の全てを自由につぎ込むことができたのは、ローマ政府と国内、特に元老院からの支持があったためと考えられます。

フラウィウス朝最後の皇帝ドミティアヌスの強圧的な統治に対して元老院は敵対しており、ローマ帝国は内政的に不安定な状態でした。

ネルウァ=アントニヌス朝初代ネルウァ帝の統治時代(後九六 - 九八)は短く、いくつかの経済的・軍事的な課題が残されました。

ローマ帝国は通貨の不安定性に直面しており、硬貨の減価や鋳造の乱用が経済に影響を与えていました。通貨の不安定性は物価上昇や市場の混乱を引き起こしました。

帝国の広大な領土には多くの地域が含まれており、それぞれ異なる税制が適用されていました。これが負担を増大させ、地方の経済的な不満を引き起こす要因となりました。

ローマ帝国の国境地帯ではしばしば外敵との脅威が発生しており、特にゲルマン人やサルマタイ人などの諸民族との戦闘が続いていました。これにより、軍事的な安定が求められました。

軍隊内での忠誠問題や反乱が発生することがあり、これが統治者の交代や政治的混乱を引き起こす一因となりました。

ネルウァ帝の後継者トラヤヌス帝は、これまでの穏健な方針から領土拡大の方針に転換し、これらの課題に対処する一環としてダキア戦争が元老院から支持されたと考えらています。

16 トラヤヌス帝の領土の拡大

新たな属州ダキアは、アウグストゥスの遺訓に対する二つ目の例外となりました。

それによる全長約一三〇〇マイルの自然の境界線は、ドニエストル川、ティシュ川(又はティビスクス川)、ドナウ川下流、そして黒海でした。

ドナウ川の岸からベンデル(モルドヴァ)の付近まで、軍事道路の名残がまだ見つけられます。ベンデルは現代史で有名な場所であり、トルコとロシア帝国の実際の国境でもあります。

ダキア戦争後の新しい領土境界線
17 アレクサンダー大王の称賛

トラヤヌスは名声を追い求める野心家でした。

人類に恩恵を与える者よりも人類の破壊者に対してより大くの称賛を続ける限り、軍事的な栄光への渇望は、最高位に就く者の特徴的な不徳として続くことでしょう。

詩人や歴史家の継承によって伝えられたアレクサンダーへの賛辞は、トラヤヌスの心に危険な競争心をかき立てました。

アレクサンダー大王(Alexander the Great)

前三五六年に古代ギリシャのマケドニア王国で生まれ、前三二三年にバビロンで亡くなりました。

アレクサンダーはマケドニア王ピリッポス二世とオリンピアスの間でマケドニア王国の王子として生まれました。

幼少期から哲学者アリストテレスによって教育を受けました。アリストテレスの影響で、アレクサンダーは帝国を統治する理念や知識を深めました。

前三三六年、アレクサンドロス三世(ローマ語)としてマケドニア王に即位しました。

前三三四年、アレクサンダーはアジア遠征を開始し、ギリシャからアジアへ進軍しました。

グラニコス川の戦いやイッソスの戦いなど、数々の戦闘でペルシア帝国と対峙し、勝利を収めました。

紀元前三三一年、ガウガメラの戦いでアケメネス朝ペルシア王ダレイオス三世を破り、ペルシアの首都ペルセポリスを占領しました。

アレクサンダーの進軍により、ペルシア帝国は崩壊し、アレクサンダーは新たな帝国の支配者となりました。

アレクサンダーは更らに東方に進出し、インダス川流域まで遠征を行いました。その過程で、多くの都市や地域を征服しました。

帝国を統治するために、アレクサンダーは東西に分割されたサトラップ(太守)制度を導入し、異なる文化や民族を統合しようとしました(ヘレニズム文化)

アレクサンダーは時折、神聖視され、英雄と見なされることがありました。彼の冒険的で壮大な旅程や偉業は、神話的な側面を帯び、彼を半ば神聖視する賛辞も存在しました。

アレクサンダーのリーダーシップや影響力に焦点を当てた詩や文献も存在します。彼はその若さにもかかわらず、強力な軍隊を指導し、大帝国を統治したとして、偉大な指導者として尊敬されています。

大王は前三二三年にバビロンで病死しました。彼の死後、将軍たち(ディアドコイ)は帝国を分割し、それぞれが異なる地域を支配することとなりました(プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア)。

マケドニア王国の最大版図
18 トラヤヌス帝の東方遠征

ローマ皇帝(トラヤヌス)は、彼(アレクサンダー)と同様に東方の国々に対する遠征を企てました.

しかし、彼の年齢で進軍するには、フィリップの息子の名声に匹敵するような希望は残されていないということを、ため息をつきながら嘆きました。

しかしながら、トラヤヌスの成功は束の間であるものの、迅速かつ華々しいものでした。

すでに衰退期に入っていたパルティア人は内乱によって壊滅し、彼の軍勢の前に逃げ去りました。

彼は勝利を続けながら、アルメニアの山々からペルシャ湾まで、ティグリス川を下りました。

彼は、その遠い海を航海した最初で最後ローマの将軍という栄誉に恵まれました。

19 トラヤヌス帝の東方征服

彼の艦隊はアラビア沿岸を略奪しましたが、トラヤヌスは虚しくも自分がインドの辺境に近づいていると思い込んでいい気になってました。

元老院は、毎日、彼の支配を認めた新しい名前や新しい国々の情報を受け取り驚きました。

彼らは、ボスポラス、コルコス、イベリア、アルバニア、オスロエネなどの王たち、さらにはパルティア帝国の君主自身も、ローマ皇帝の手から王冠を授かったことを知らされました。

また、メディアやカルドゥチア高原の独立民族が、彼の保護を懇願していたことや、さらに、アルメニア、メソポタミア、そしてアッシリアといった豊かな国々が属州の状態にまで衰退していることも知らされました。

一一七年頃のローマ帝国

元老院州(Senatorial province)は一般的により安定しており、平和な州でした。これらはローマ元老院の直接の管理下に置かれ、総督や法務官によって管理されました。これらの総督はローマの元老院議員であり、これらの属州の民事行政と司法の責任を負っていました。 元老院州は主にイタリアとその近隣地域、さらにスペインとギリシャの一部に置かれていました。

帝国属州(Imperial province)はローマ皇帝が直接管理する属州でした。これらは概して国境に位置する州であり、より不安定で軍事紛争が多発していました。これらの属州の総督は皇帝によって直接任命され、将軍や元解放奴隷など、皇帝に信頼される人物によって統治されていました。これらの総督は広範な軍事および文民権限を有しており、主な関心は国境地域の平和と安全を維持することでした。帝国属州には、ガリア、シリア、エジプト、ブルターニュ、ダキアなどの地域が含まれていました。

20 トラヤヌス帝崩御後

しかし、トラヤヌス帝が死ぬとたちまち輝かしい将来の見通しに暗雲が立ち込めました。

その強力な力で抑圧されてきた多くの辺境諸国が、もはやそこから解放された以上、彼らは慣れない束縛を振り捨てるだろうと心配するのは当然のことでした。

古代の伝承によれば、ローマの王の一人によってカピトリウムの神殿が建てられたとき、神テルミヌス(当時の方法に従って大きな石で表示された境界を司る神でした)は、すべての下位の神々の中でただ一人、神々の王ユピテルに自分の場所を譲ることを拒みました。

このテルミヌス神の頑固さは、占い師たちによって、ローマの勢力の境界線が決して後退しないという確実な予言として解釈され、都合の良い結論が導き出されました。

21 ハドリアヌス帝の即位

長い間、予言は通常通り、その結論に貢献してきました。しかし、テルミヌスはユピテルの威厳に抵抗しましたが、皇帝ハドリアヌスの権威には従いました。

トラヤヌス帝の東方征服の支配地を全て解放することは、ハドリアヌス帝の治世の最初の措置でした。

彼はパルティアに独立した君主の選挙を復活させ、アルメニア、メソポタミア、アッシリアの属州からローマの守備隊を撤退させ、アウグストゥスの遺訓に従って、再びユーフラテス川を帝国の国境として確立しました。

彼はパルティアに独立した君主の選挙を復活させ、アルメニア、メソポタミア、アッシリアの属州からローマの守備隊を撤退させ、アウグストゥスの遺訓に従って、再びユーフラテス川を帝国の国境として確立しました。

ハドリアヌ帝の領土防衛政策 皇帝ハドリアヌス

ハドリアヌス帝(在位:117年 - 138年)は、ローマ帝国ネルウァ=アントニヌス朝のトラヤヌス帝の後継者、第三代皇帝でありローマ皇帝としては第一四代目にあたります。

トラヤヌスの軍事活動によってローマの軍事費の負担は増大する一方で、トラヤヌス帝の厳しい統治から解放された辺境諸国では、大規模な反乱が発生して属州の統治は困難になっていました。

ハドリアヌス帝は、トラヤヌス帝の領土拡大路線を放棄し、属州の再編と国境の防衛方針を採りました。

ハドリアヌ帝治世のローマ帝国の領土境界
22 ハドリアヌス帝への批判的評価

君主の公の行動や私的な動機に関わる疑惑について非難されるのは、ハドリアヌスの慎重さと節度という性格に帰すべき国家運営に対する羨望から生じたといわれます。

ときに最も卑劣で、ときに最も寛大な感情を見せることもあるという、この皇帝の多様な性格が、この疑惑をもっともらしく見せたのかもしれません。

ハドリアヌス帝に関わる疑惑

ハドリアヌスはトラヤヌス帝の遺言によってその後継者として指名されました。

しかし、ハドリアヌスはダキア戦争、パルティア遠征に従軍しましたが、特に功績がなくトラヤヌス帝の後継者と誰もが認めるほどの経歴はなかった言われています。

そこでトラヤヌスがハドリアヌスを後継者に指名する遺言は信憑性が疑問視され、ハドリアヌスを後継者としていたという明確な証拠はなく、遺言はハドリアヌスの近親者による捏造ではないかと言われています。

また、ハドリアヌスが帝位について間もなく、コンスル(執政官)経験者の有力な四名の元老院議員が処刑される事件が発生しました。罪状はハドリアヌス暗殺の陰謀だったとされていますが、それは口実で後継者指名に疑問を持つライバルを排除した可能性も示唆されています。

23 ハドリアヌス帝の統治

しかしながら、彼の統治において、トラヤヌスの征服地を防衛する任務が自身の能力では不十分であると認めるようなこと、それ以上に前任者の優越性に際立つ光を当てるようなことは滅多にありません。

トラヤヌス帝の軍事的かつ野心的な精神は、彼の後継者トラヤヌス帝の穏健な精神とは、非常に特異な対比をなしていました。

ハドリアヌス帝の休むことのない活動は、アントニヌス・ピウス帝の大人しい平穏さと比較すれば、決して驚かないではいられません。

前者ハドリアヌス帝の生涯は、ほとんど休むことのない旅でした。そして彼は兵士、政治家、学者としての様々な才能を持っていたことから、彼の任務を果たす中で自身の好奇心を満足させることができたのです。

季節や気候の違いなど気にもせず、カレドニアの雪原や上エジプトの焼け付くような平原を、彼は徒歩で帽子も被らずに旅したのです。彼の統治期間に、皇帝が姿を見せる栄誉を受けられなかった帝国の属州はありませんでした。

24 ハドリアヌス帝とその後継者アントニヌス・ピウス帝の治世

しかし、アントニヌス・ピウス帝の平穏な生涯は、イタリアの庇護の中で過ごされました。彼の23年間にわたる治世において、この愛すべき皇帝の旅は、ローマの宮殿から引退のためのラヌヴィウムの別荘までの距離以上に伸びたことはありませんでした。

彼らは統治方針は個人的には違ってはいましたが、ハドリアヌス帝と二人のアントニヌス帝は、アウグストゥス帝の基本方針を同様に採用するとともに一貫して推進していたのです。

彼らは帝国の権威を維持するという方針を貫き、その範囲を拡大しようとはしませんでした。

彼らは、その場しのぎでも名誉ある手段を尽くして、蛮族との協調路線を採りました。そして、征服という衝動を乗り越えたローマ帝国の権力は、秩序と正義への忠誠心によってのみ行使されることを人々に納得させようと努力しました。

四十三年にわたる長い時を経て、彼らの高潔な努力は成就し栄誉で飾られました。

そして、国境の軍事訓練に寄与する程度のわずかな武力衝突を除けば、ハドリアヌス帝とアントニヌス・ピウス帝の治世は、帝国全体の平和という有望な将来性を示しています。

ローマの名前は、地球の最も遠い国々でもあがめられていました。

最も凶暴な蛮族たちは、しばしば彼ら同士の争いについて、皇帝の仲裁を委ねていました。そして、同時代の歴史家によれば、ローマ臣民という栄誉を懇願しに来た使節団が断られるのを見たことがあるとのことです。

両帝の時代の武力衝突

ハドリアヌス帝治世のユダヤ人の反乱は、一三二年から一三五年にかけてユダヤ人が起こした反乱です。この反乱は、ローマ帝国に対するユダヤ人の抵抗運動であり、ユダヤ人の自治国家の回復を目指していました。

反乱の指導者の一人であるバル・コクバは、ユダヤ人の戦士たちを組織し、ローマ軍との戦いに挑みました。彼は、ユダヤ人の独立を象徴する旗として「メシアの星」として知られる旗を掲げ、戦いの象徴としました。

反乱は激しい戦闘となり、長期化しました。しかし、最終的にはローマ帝国の圧倒的な軍事力によって鎮圧され、反乱は失敗に終わりました。

ピウス帝の時代にはモーリー人(ベルベル人)の反乱によって武力衝突が発生しました。

モーリー人は北アフリカ出身の部族で反乱を起こしましたが、ピウス帝はこれに対抗してモーリー人を鎮圧、領地から追放しました。

24 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の時代

ローマの軍事力に対する恐怖は、皇帝の節度に重要性と威厳を与えました。

皇帝たちは常に戦争に備えることで平和を保ち続けましたが、国境の国々に対して侵害する意志がないのと同様に、正義が彼らの行動を統制している限り、侵害に対しては受忍する気もないことを宣言していました。

軍事力は、ハドリアヌス帝と先代のアントニヌス帝の時代には、見せつけるだけで十分でしたが、マルクス帝はパルティアとゲルマニアに対してそれを行使しました。

蛮族の敵対行為は理性的な君主に憤りを抱かせ、正当な防衛行為を実行する中で、マルクス帝とその将軍たちは、ユーフラテス川とドナウ川の両方で、多くの輝かしい勝利を収めました。

マルクス帝・ウェルス帝共同統治時代のローマ・パルティア戦争

ローマ・パルティア戦争

一一八年、ハドリアヌス帝の穏健政策により、大アルメニア西部(メソポタミア北部地域)にパルティアの王を立て、オスロエネの実質的な支配権を与えていました。

つまりローマ帝国は、パルティア王をアルメニア王としてローマ皇帝が戴冠し、名目上はローマ帝国の従属国という形で、パルティアとの協調を維持していたのです。

一四四年、アルメニア王ヴォロガセス一世(一一七 - 一四〇年)の死後、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスはこれまでの慣習を破り、ローマ元老院のガイウス・ユリウス・ソハエムスをアルメニアの王位につけました。

これによって前帝ハドリアヌスによるパルティアとの協調路線は崩れ、ローマとパルティアはアルメニアをめぐって再び緊張関係となります。

一六一年、ヴォロガセス四世は、自身がアルメニアの正当な王であると主張して、アルメニアとシリアに軍を率いて侵攻、ローマ・パルティア戦争(ルキウス・ヴェルスのパルティア戦争が始まりました。

ヴォロガセス四世は初戦でローマ軍を破ってシリアを占領するとともに、アルメニア王ソハエムスを追放、息子のアウレリアス・パコルスをアルメニア王としました。

ローマ軍は、マルクス・アントニヌス帝との共同統治者であったルキウス・ヴェルス帝をアルメニアに派遣、その優れた軍事的指導力と感染症(アントニヌス・ペスト)の流行の混乱を利用して、シリア・アルメニアを奪還しました。

一六六年、ルキウス・ヴェルスはヴォロガセス四世と和平交渉を行い、ローマ皇帝がヴォロガセス四世をアルメニアの王として戴冠するという形で戦争は終結しました。

25 ローマ帝国の軍事組織

ローマ帝国の平穏または勝利を保障した軍事組織は、今では、私たちにとって適切で重要な関心事となっています。

純粋な共和政だった時代には、武器の使用は、愛する国家、守るべき財産をもち、それを維持することが利益であり義務として、法律で規定している一部の市民階級にのみ限定されていました。

しかし、征服地の拡大によって人々の自由が失われるにつれて、戦争は徐々に技能を必要とするものに進化して職業となっていきました。

ローマ軍自体は、最も遠い属州で募集された時でも、ローマ市民で構成されることが前提になっていました。

その栄誉は一般的には、法定の資格や軍人への適切な報酬によって認めらるものでしたが、しかし、より重要な点は、年齢や体力、軍事的な資質といった本質的な長所に対する評価でした。

すべての徴兵において、北部地方が南部地方に比べて公平な優先権が与えられました。

兵器の使用を生まれながら訓練された人々の集団は、都市よりも辺境地で探し求められました。

それは、鍛冶屋、大工、狩猟者といった頑健な職業が、贅沢なサービス業に従事する体を動かさない職業よりも多くの活力と解決能力を提供すると、極めて合理的に考えられたのです。

所有する資格が全て没収された後も、ローマ皇帝の軍隊は、大部分は自由民出身者と教養ある将校によって構成されていました。

しかし、下層の兵士たちは、現代ヨーロッパの傭兵部隊のように、最も卑しい人々、そしてしばしば最も堕落した人々から選ばれていました。

26 ローマ軍の兵士の意識

古代の人々の中で愛国心と呼ばれた公共の美徳とは、私たちが所属している自由な政府の繁栄と存続の中で、自己の利益を強く感じることによってもたらされます。

そのような感情は、共和政の軍隊であれば、ほぼ無敵にするほどの力をもたらしましたが、専制君主の傭兵たちには極めて弱い感情しかもたらしませんでした。

そして、その弱点は、異なっていてもそれに匹敵するくらい強力な性格を持った他の動機によって補う必要がありました。それは、名誉と宗教です。

農民や職人は、自分の階層や評判は自身の勇気次第であって、軍務に就くこと自体が尊敬される職業であり出世したという思い込みがありました。

そして、兵士の個人的な優れた技能が、しばしば名声から見落とされても、自身の行動が、所属する連隊、軍団、あるいは軍隊の名誉に、ときどき栄光または不名誉をもたらすことがあるということも、ローマ軍にとって都合の良い先入観でした。

27 

彼の最初の入隊時に、厳粛な形式で宣誓が行われました。彼は自分の軍旗から決して離れず、指導者の命令に従い、皇帝と帝国を守るために命を捧げることを誓いました。

ローマの軍隊が旗に忠誠を誓ったのは、宗教と名誉が結びついた影響に感化されたものでした。

ゴールデンイーグルは、軍団の前方で輝いており、彼らの最も熱い崇拝の対象でした。

危険な時にその神聖な旗印を放棄することは恥ずべきことであり、それ以上に冒涜的な行為はないと評価されていました。

ゴールデン・イーグル

軍旗「アクィラ」

古代ローマの軍旗類

ローマ軍の象徴的な軍旗であり、重要な軍団の旗として使用されていました。この軍旗は、「アクィラ(Aquila)」とも呼ばれ、軍の尊厳と勝利を象徴していました。

ゴールデンイーグルは通常、金色または真鍮製の鷲の彫刻や像を備えた長いポールに取り付けられ、これは軍団の軍旗手(Aquilifer)によって運ばれました。軍旗手は通常、勇気と忠誠心に溢れる選ばれた兵士でした。

アクィラは軍の神聖な標章と見なされ、軍団にとって非常に重要でした。

敵にとっては奪うことが名誉であり、また、ローマ兵士たちにとってはアクィラを守ることが誇りでした。アクィラの喪失は非常に重大で、それが戦闘での敗北を象徴することがありました。

ゴールデンイーグルとアクィラは、ローマの軍団が帝国を拡大し、戦争を戦った時期において、ローマ軍の象徴として栄えました。

28 ローマ軍の武勇

このような動機は、想像によって精神的に引き出され、もっと現実的な「恐怖」や「希望」によって、それは強化されました。

定期的な給与、時折の贈り物、および任期終了後の年金は、軍隊生活の苦難を軽減しました。

一方で、臆病さや不服従は最も厳しい罰を逃れることができませんでした。

ローマの軍隊では、百人隊長は殴打によって罰を与える権限を持ち、将軍は死刑によって罰を与える権利を持っていました。

また、ローマの軍隊の規律には、良い兵士は敵よりも上官を恐れるべきという厳格な原則がありました。

そのような賞賛すべき技術によって、帝国軍の武勇は、蛮族の衝動的で規律のない情熱では到達できない程度までの堅固さと従順さを獲得できたのです。

29 ローマン軍の軍事訓練

そして、ローマ人は、技術と訓練が無ければ武勇は不完全あることを常に意識していたので、彼らの言語(ラテン語)では、軍隊の名前は「練習」を意味する言葉から取り入れられました。

軍事演習は彼らの訓練において重要で間断のない目的でした。

新兵や若い兵士たちは、朝と夜、絶えず訓練を受けていました。年齢や知識に関係なく、ベテランたちも日々完全に習得した内容を繰り返し行うことから逃れることは許されませんでした。

大きな倉庫が兵士たちの冬の宿舎に建てられました。

これにより冬の最も荒れ狂う天候でも、彼らの有用な訓練に一切の中断が生じないようになりました。

また、注意深く観察すれば、この軍事演習のために準備された武器は、おそらく実際の戦闘で必要とされるものの二倍の重さがあったはずです。

30 

ローマ軍の演習の細かい説明に立ち入ることは、この著作の目的ではありません。

いったい何が体力を増し、活力を与え、動作の気高さをもたらすのかを、彼らが十分に理解していたことを述べるに留めます。

兵士たちは、行進し、走り、跳び、泳ぎ、重い荷物を運び、攻撃または防御のために使用されるあらゆる種類の武器を扱うことや、さまざまな旋回動作で整列させられ、ピュリックダンスや軍事舞踊の音楽に合わせて移動するように入念に指導されました。

平和の中にあっても、ローマ軍は自分達に、戦争の実践を習得させていました。

そして、彼らと戦った古代の歴史家は、戦場と訓練場を区別する唯一の要素は血の流れることだけであると巧みに述べています。

Pyrrhic dance(ピュリックダンス)

ピュリックダンスとは、ギリシャ神話においてアキレウス(Achilles)の息子であるピュロス(Pyrrhus)にちなんで名付けられた踊りのことです。

この踊りは戦いの技術や戦士としてのスキルを養うための踊りであったと言われています。

31 

最も優れた将軍たちや皇帝たちでさえ、自らの存在と模範によってこれらの軍事力の習得を奨励する方針をとっていました。

ハドリアヌス帝やトラヤヌス帝も同様に自ら、未熟な兵士たちを指導したり、勤勉な者に褒美を与えたり、時には優れた力や技量の賞を争ったりすることを躊躇しなかったと伝えられています。

このような皇帝の治世の下では、戦術を科学的に育むことで成功をおさめました。

そして、帝国が軍事力を維持する限り、彼らの軍事指導は、ローマの規律の最も完成した模範として尊重されました。

32 

九世紀にわたる戦争は、徐々に多くの変更と改良を軍に導入してきました。

ポリュビウスによって説明されているように、ポエニ戦争の時代のローマの軍勢は、カエサルが勝利を達成した軍勢やハドリアヌスとアントニウスが帝国を守った軍勢とは非常に異なっていました。

ポエニ戦争(Punic Wars)

前二六四年から前一四六年までの間、ローマ共和国とカルタゴ(ポエニ人の都市国家)との間で行われた一連の戦争を指します。

これらの戦争は主に地中海世界で争われ、その結果、ローマが地中海世界での覇権を確立することとなりました。

第一次ポエニ戦争(前二六四年 - 前二四一年)の発端はシチリア島での紛争から生じました。両者がシチリアに影響力を持ちたいという競争が戦争の原因であり、ローマは最終的に勝利し、シチリアを制圧しました。この戦争の終結により、ローマは最初の属州としてシチリアを手に入れました。

第二次ポエニ戦争(前二一八年 - 前二〇一年)は、カルタゴの将軍ハンニバルが有名です。彼はアルプス山脈を越えてイタリアに侵入し、カンネーの戦いなどでローマに勝利しました。しかし、最終的にはスキピオ・アフリカヌス(後のスキピオ・アフリカヌス・マイオル)によってカルタゴでの勝利がもたらされ、カルタゴはイベリア半島を含む多くの領土を失いました。

第三次ポエニ戦争(前一四九年 - 前一四六年)では、カルタゴが再びローマとの対立に巻き込まれました。この戦争ではローマがカルタゴを包囲しました。戦争の最後にカルタゴは陥落し、都市は破壊されました。この結果、ローマは地中海での優越性を確立し、カルタゴは滅亡しました。

「Poeni」という言葉は、ギリシャ語の「Φοῖνικες」(Phoinikes)に由来すると考えられています。ギリシャ語の「Φοῖνικες」は、「フェニキア人」を指し、古代ギリシャでは東地中海地域に住む海洋交易を行う民族を指す用語として使われていました。ローマはこれを借用し、「Poeni」を用いてカルタゴ人を指しました。

ポリュビオス(Polybius)

古代ギリシャの歴史家で、前二世紀に生きた人物です。彼は主に『歴史』("Histories"または"Ἱστορίαι")という作品で知られています。ポリュビオスは前二〇〇年頃に生まれ、前一一八年頃に死亡したと考えられています。

ポリュビオスはアカイア地方のメガロポリスに生まれ、ローマに連行されたカルタゴの将軍ハンニバルの同行者の息子として育ちました。

彼はローマで捕虜として過ごす中で、多くのローマの政治家や軍人と親交を結び、その経験からローマ共和国の政治体制や軍事機構を深く理解することができました。

ポリュビオスは『歴史』で、ローマの勃興からローマ帝国の初期までの出来事を詳細に記録し、特にポエニ戦争に関する詳細な分析を行いました。彼の歴史書は、歴史の記述において因果関係や政治的な要因を強調し、歴史的な出来事の理解において論理的で体系的な手法を採用しています。

ポリュビオスは歴史家としてだけでなく、政治家としても活動し、友人の一人であるスキピオ・アフリカヌスと共にローマの政治に影響を与えました。そのため、彼の歴史家としての視点は、当時の政治的な経験に裏打ちされています。

33 ローマ軍の軍事組織

帝国軍の組織は、わずかな言葉で説明されることがあります。

主力を構成する重装歩兵は、十個の軍団と五十五の中隊に分かれ、対応する数の指導者と百人隊長の指揮下にありました。

常に名誉ある地位とゴールデンイーグルの保護権が与えられる権一軍団は、勇敢さと忠誠心において最も優れた一一〇五人の兵士で構成されていました。

残りの九個の軍団は、それぞれ五五五人で構成されており、歩兵軍団の総数は六一〇〇人でした。

34 ローマ軍の兵士の武装

彼らの武装は均一であり、その軍務の性質にうまく適応していました。高い羽飾りを付けた開放型の兜、胸当てまたは鎖帷子、脚には 鎧のすねあて、そして左腕には十分に大きな盾がありました。

盾は長方形の凹面形の形をしており、長さは四フィート、幅は二フィート半で、軽い木材で作られ、牛の皮で覆われ、真鍮の板でしっかりと保護されていました。

また、軽量な槍の他に、軍の兵士の右手には、強力な「ピルム」(ラテン語でいう「すりこぎ」)と呼ばれる重い投槍を握っていました。その最大の長さは約六フィートで、その先端は十八インチの重厚な三角形の鋼で終わっていました。

この武器は実際には、現代の火器に比べてはるかに劣っていました。なぜなら、わずか10または12歩の距離に近づいて、一度投げるだけで使い終わったからです。

それが確かな技術と腕力を使って放たれた時は、まだ、それが届く範囲内に踏み込む勇気のある騎兵はいなかったし、その重さの衝撃を耐えることができる盾や胴鎧もありませんでした。

ローマ軍の兵士は、ピルムを投げるとすぐに剣を抜いて敵に向かって突進しました。

それは短く、適度に鍛えられたスペイン製の両刃の剣で、打撃することも突き刺すことも両方できる目的に適ったものでした。

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しかし兵士は、自分の身体に触れさせないようにしながら、相手により危険な傷を負わせることができるように、常に後者の武器を使うことが優先であると教えられていました。

軍団は通常、奥行きは八列に配置され、縦の列の間は横の列と同様に、通常三フィートの間隔がとられていました。

ローマ軍の一団は、この間隔をとった隊列を維持することに訓練されており、長い前線と迅速な突撃の中でも、戦争の状況や指揮官の技能から想定されるあらゆる配置を、兵士自ら実践する準備ができていました。

兵士は、自身の武器や動作のために必要な自由なスペースを確保し、また、疲弊した兵士の交代要員として適宜投入できるように、十分な休憩をとることが許されていました。

36 ギリシャ軍とマケドニア軍

ギリシャ軍とマケドニア軍の戦術は、ローマ軍とは全く異なる原則に基づいて構成されていました。

古代ギリシャの重歩兵の戦闘形態「ファランクス」の力は、最も密集して並べられたくさび形の一団で、長い槍の16の横列によるものでした。

しかし、実際の状況からだけでなく、考えてみればすぐにわかることですが、「ファランクス」の力は、兵士の活発な動きに対応することができなかったということでした。

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装甲機動部隊がなければ、ローマ軍の力は不完全なままであったでしょう。

それは十の部隊または中隊に分けられていました。

まず最初の先頭部隊が百三十二人の兵士で構成され、他の九つ部隊は、それぞれほんの六十六人にすぎませんでした。

全体の組織は、自然にそれぞれの軍団と連絡をとりながら、時折、列になって行動して別れ、現代の表現を使えば、軍勢の両翼の一部を構成する七百二十六頭の馬の連隊を形成しました。

38 皇帝の近衛騎兵隊

皇帝の近衛騎兵隊は、昔の共和国のようなローマとイタリアの最上級の貴族の若者たちで構成されていたわけではありません。彼らは、元老院議員や執政官の職務に備えて、馬上での軍務における勇敢な行為をすることで、将来の国民の投票を懇請していたのです。

慣習と支配体制が変化して以来、騎士階級で最も裕福な人々は、司法と歳入の管理に従事していました[54]。そして、彼らはいつでも軍の職務を受け入れ、すぐに騎兵隊または歩兵隊を任されました。

トラヤヌス帝とハドリアヌス帝は、自身の近衛騎兵隊を同じ地方と同じ階級のローマ市民で組織し、彼らは軍団のその階級の新規採用となりました。

馬は主にスペインやカッパドキアで繁殖されました。

カッパドキア(Cappadocia)

トルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。

古代の地理においてCappadocia(美しい馬の地を意味するペルシア語(Katpatuk)に由来)は、小アジア現代のトルコの広大な内陸地域を指した。

アケメネス朝ペルシアのダレイオス一世に従属していたが、アレクサンドロス三世の時代にアリアラテス一世のもとで独立を回復した。

前三三〇年にアケメネス朝が滅びた後もアレクサンドロス三世からは支配されず、その後のヘレニズム系国家に対抗して共和政ローマと同盟し独立を維持した。

初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援によって従属的独立は後一七年まで維持されたが、ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはローマの属州となった。

39 ローマ軍の武具の考え方

ローマの兵士たちは、東方の騎兵が全身に身につけていた動きにくい甲冑を見下していました。

より有能なローマの軍は、兜、長方形の盾、軽い軍靴、そして鎖帷子で武装していました。

ローマ軍の主な攻撃用の武器は、投げ槍と長い幅広の剣でした。

彼らが手持ちの槍や鉄製の鉾を使用するようになったのは、野蛮人から取り入れた結果のようです。

帝国の安全保障と名誉は主に軍団に託されていましたが、ローマ政府は、戦争に有用な道具は全て謙虚に採用していました。

40 辺境地の補助部隊

ローマ人という名誉に値しないとして区別された辺境地の中では、定期的に大量の徴税が行われました。

国境の周囲に拡がった多くの従属した王国や部族は、軍団が駐留している間は、自由と安全を維持することができました

敵対する野蛮人から選ばれた部隊でさえ、しばしば遠い地方での危険な軍役を強制または説得されて消耗しましたが、それはその属州の利益のためでした。

これらの部隊はすべて、補助部隊という一般名詞の下に含まれていました。しかしながら、時代や状況が異なることによってどれほど変化しても、その数は自身の部隊の数を下回ることはありませんでした。

補助部隊の中で最も勇敢で忠実な集団は、総督と百人隊長の指揮下に置かれ、ローマ方式の技術で厳しく訓練されました。しかし、彼らの武器の大部分はもっと独特なので、自国の性質や初期の生活習慣の方に適していました。

この仕組みにより、補助部隊が一定の割合で配分された各軍団は、軽装の兵士と飛び道具の全ての種類を自前で保有し、それぞれの武器と訓練の優位性によって、全ての国と対峙することができたのです。

42 ローマ軍の砲兵隊

軍団に、現代の言葉で言えば「砲兵隊」と称される部隊がなかったわけではありませんでした。

それは最大のものが十台、小さいものが五十五台の戦車から成り立っていました。しかし、これらはすべて、斜角や水平の両方向に石や矢を回避できない破壊力で発射しました。

42 ローマ軍の要塞都市

ローマ軍の野営地は要塞化した都市の姿を現しました。

その用地が区画割りされるとすぐに、開拓者は丁寧に地面を平らにし、その完全な規則性を妨害する可能性のあるすべての障害物を取り除きました。

その形状は正確な四角形で、計算すると、約七百ヤードの正方形が二万人のローマ人の野営地として十分だと考えられます。

けれども、自軍の部隊が同じ数であっても、敵の目にはその三倍以上に見えるでしょう。

野営地の中心には総督府又は将軍の宿舎が他よりも高くそびえ立ち、騎兵、歩兵、補助兵士たちはそれぞれの場所を占拠していました。

通りは広く完全に直線で、住居と城壁との間には二百フィートの空きスペースが確保されていました。

城壁自体は通常十二フィートの高さで、強固で複雑な尖り杭の柵で武装されており、深さと幅が共に十二フィートの溝によって防御されていました。

この重要な労働は軍団の兵士自身の手によって行われました。スコップやつるはしの使用は、剣や投げ槍の使用と同じくらい手慣れたものでした。

43 要塞都市からの出動

ラッパが出撃の合図を出すたびに、要塞都市はほぼ瞬時に解散し、兵士たちは遅れることも混乱することもなく、すぐに隊列を組みました。

彼らは武器の他に、軍団の兵士にはほとんど重荷になるとは思えない、調理用具や工事用具、そして長期にわたる日々の必需品をいっぱいに積み込んでいました。

現代の兵士の弱い体力では憂鬱になりそうなこの重量を背負って、彼らは、約六時間で約二十マイル近くの距離を、いつでも行軍できるよう訓練されていました。

敵の出現した際には、彼らは荷物を放り投げ、簡単かつ迅速に動いて行軍の隊列を戦闘態勢に転換しました。

投石兵と射手たちが最前列で小競り合いをすると、最初に補助部隊が前線を形成し、軍団の強力な力で補強され維持されました。騎兵部隊は両翼に広がって、戦車部隊は後方に配置されました。

それが戦争の技術であり、ローマの皇帝たちはそれによって彼らの広大な征服地を防衛し、他のすべての美徳が贅沢と独裁によって抑圧されている時代に、軍事精神を維持していました。

44 ローマ軍の軍事力の規模

彼らの軍事力を考えてみる場合に、その訓練法から数に視点を移してみると、それをある程度の精度をもって説明することは容易ではないでしょう。

しかし、ローマ軍本体は六八三一人であるため、軍団自体は付属の補助兵とともに約一万二五〇〇人に達すると計算することができます。

ハドリアヌス帝とその後継者の平和的な体制においては、少なくとも三十のこのような強力な軍団が組成されていました。そして、恐らくこれは三十七万五〇〇〇人の常設軍を形成していました。

45 国境沿いの駐屯地

ローマ人が病弱な者や気の弱い者の避難所として考えた要塞都市の城壁の内側に留まることはなく、軍団は大河の岸辺と野蛮人との国境沿いに駐屯していました。

彼らの駐屯地がほとんど固定されて恒久的になっていたので、兵士たちの配置を思い切って説明することができるでしょう。

ブリテン等には三個軍団で十分でした。

主要な部隊はライン川とドナウ川に置かれ、次の割合で十六個の軍団から成っていました:下ゲルマニア州に二個、上ゲルマニア州に三個、ラエティア州に一個、ノリクム州に一個、パンノニア州に四個、メシア州に三個、ダキア州に二個です。

ユーフラテス川の防衛は八個軍団に任され、そのうち六個はシリア州に、残りの二個はカッパドキア州に配備されました。

エジプト、アフリカ、スペインについては、それぞれが戦争の重要な舞台から遠く離れていたため、一個軍団がそれぞれ広い領域の国内の平穏を維持していました。

46 イタリアの親衛隊

イタリアも軍事力を持たないままでいることはありませんでした。

「都市歩兵隊」および「親衛隊」という称号で区別された2万人以上の選ばれた兵士たちが、君主と首都の安全を監視していました。

帝国を混乱させたほぼすべての革命の張本人として、「親衛隊」は、一番最初にそして一番目立って私たちの注意を惹きつけることでしょう。

しかし、より印象的な外観とより規律が緩んだ場合を除き、彼らの武器や組織の中に、軍団と彼らを区別すべき事実は何も見つけることはできません。

47 ローマ帝国の地中海支配

皇帝たちが保有した海軍は、彼らの偉大さに対しては不相応に見えるかもしれませんが、それは帝国の全ての目的に役に立つ十分なものでした。

ローマ人の野心は陸地に限定されていました。

テュロス、カルタゴ、さらにはマルセイユの航海者たちを駆り立てた商売人気質をもって、世界の境界を広げ、海洋の最も遠い海岸を探検するような戦闘的な民族ではありませんでした。

ローマ人にとって、海は好奇心よりも恐怖の対象でした。

カルタゴの破壊と海賊の一掃後に、地中海全体が彼らの版図に含まれるようになりました。

皇帝たちの方針は、その海の平和な支配を維持し、その支配地の商業を保護することだけを目指していました。

Tyre「テュロス」

古代ローマ時代のTyreは、フェニキア人によって建設された都市国家で、現在のレバノンの南部に位置していました。

古代のテュロスは地中海の商業都市として繁栄し、前一千年から前一世紀までの間、地中海貿易の中心地の一つとして知られていました。

ローマ帝国が支配するようになると、テュロスは帝国の一部として組み込まれましたが、その商業的重要性は依然として高かったです。

Carthage「カルタゴ」

古代ローマ時代のCarthage(カルタゴ)は、現在のチュニジアの都市で、フェニキア人によって建設されました。

地中海沿岸の交易拠点として栄え、紀元前9世紀から紀元前2世紀にかけて、地中海世界で最も強力な都市国家の一つとして知られていました。

ローマとの間で数々の戦争を繰り広げたことで有名であり、ポエニ戦争(Punic Wars)として知られるこの戦争の舞台となりました。最終的には、紀元前一四六年にローマによって征服され、カルタゴは破壊されました。

カルタゴの破壊

ローマによるカルタゴの破壊は、共和政ローマ時代の前一四六年に起きた第三次ポエニ戦争の結果として知られています。カルタゴは古代ローマのライバルであり、地中海での覇権を巡って長年にわたり争ってきました。

第三次ポエニ戦争は、前一四九年に勃発しました。戦争は前一四六年にカルタゴが降伏したことで終結しましたが、ローマはカルタゴを完全に破壊することを決定しました。カルタゴは包囲され、激しい戦闘の末に陥落しました。

陥落後、ローマはカルタゴを徹底的に破壊しました。都市は略奪され、住民は虐殺され、建物は破壊されました。さらに、カルタゴの周囲にあった農地は塩をまかれて不毛の地にされたと言われています。

この行為は、ローマの強大さと非情さを示すものとされています。カルタゴの破壊は、地中海世界におけるローマの覇権を確立する重要な出来事の1つでした。

Marseilles「マルセイユ」

古代ローマのMarseille(マルセイユ)は、フランスの都市マルセイユのことです。

ギリシャ人によって紀元前600年頃に建設された古代の植民都市で、当時はマッシリア(Massilia)と呼ばれていました。

地中海沿岸の重要な港湾都市として発展し、ローマ時代にはローマ帝国の支配下に入りましたが、その後も商業的な重要性を保ち続けました。

古代ローマの海賊たち

古代ローマ時代の地中海の海賊は、さまざまな地域出身の人々によって構成されていました。彼らの出身地は単一ではなく、地中海沿岸や周辺地域、さらには遠くの地域からも海賊が活動していました。

例えば、地中海の北アフリカ沿岸にはベルベル人や他の部族がいて、彼らの中には海賊として活動する者もいました。また、地中海東部の地域ではギリシャ人や小アジア出身の人々も海賊行為に関与していました。さらに、地中海の島々や沿岸部に住む人々も海賊として活動することがありました。

48 ローマ帝国のイタリア海軍

このような穏健な見通しで、アウグストゥスはイタリアの最も便利な港に2つの恒久的な艦隊を配置しました。一つはアドリア海のラヴェンナ、もう一つはナポリ湾のミセヌムにあります。

経験から古代の人々は最終的に、ガレー船の漕ぎ手が二列を以上もしくは最大三列になると、それらは実際の軍役よりも、むしろ自慢げに誇示する方が都合が良いと確信するようになったようです。

Ravenna「ラヴェンナ」

ローマ帝国時代のラヴェンナは、その戦略的な位置と豊かな自然資源により、重要な都市として位置付けられていました。アドリア海に面し、陸上交通や海上交通の要所に位置していたため、商業や軍事上の要地として重要視されました。

西ローマ帝国の首都がミラノからラヴェンナに移されたこともあり、ラヴェンナは5世紀から6世紀にかけて西ローマ帝国の重要な行政・軍事拠点となりました。

また、東ゴート王国の支配下でもラヴェンナは重要な都市として維持され、その後東ローマ帝国の支配下に入り、ビザンツ帝国の属州の首府となりました。

Misenum(ミセヌム)

ナポリ湾のミセヌム(Misenum)は、古代ローマ時代における重要な軍港として知られていました。ミセヌムは現在のイタリア、カンパニア州に位置し、ナポリ湾の北西部に位置しています。

ミセヌムはローマ帝国時代において、特にローマ艦隊の主要基地の1つとして機能していました。海軍の司令官が駐在し、地中海の安全とローマの海洋交通の監視を担当していました。また、軍港としての役割だけでなく、ミセヌムは豊かな別荘地としても知られ、ローマの貴族や政治家が避暑や余暇を過ごす場所として利用されました。

ミセヌムの名前は、地元のオシャンの神であるミセヌムに由来しています。この地域は美しい景観と豊かな自然環境に恵まれており、古代ローマ時代から重要な拠点として栄えました。

49 アクティウムの戦い

アウグストゥス自身はアクティウムの戦いの勝利で、自身の小さな快足帆船(リブルニアンと呼ばれていました)方が、相手の大きすぎて扱いにくい巨大船よりも優れていることを発見しました。

これら「リブルニアン」によって、彼はラヴェンナとミセヌムの2つの艦隊を組織し、一つは地中海の東部、もう一つは西部を統率するように決められていました。そして、彼はそれぞれの分隊に数千人の海兵隊を配置しました。

アクティウムの戦い

アクティウムの戦いは、前三一年九月二日に、古代ローマのアクティウム(現在のギリシャ、アクティオ)近くの海域で行われました。この戦いは、ローマ内戦の最終決戦であり、マルクス・アントニウスとクレオパトラ率いる東方三頭政治の軍と、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)率いるローマ共和国の軍との間で行われました。

アントニウスとクレオパトラは、共にカエサル暗殺事件の首謀者であったことから、ローマの政治的な敵と見なされていました。一方、オクタウィアヌスはカエサルの養子であり、カエサルの遺産を引き継ぎ、その後継者としての地位を確立しようとしていました。

アクティウムの海戦は、アウグストゥスの軍が勝利を収めたことで決着しました。アントニウスとクレオパトラは敗走し、数日後に両者とも自殺しました。この戦いによって、アウグストゥスはローマ帝国の唯一の支配者となり、共和制から帝国への移行が進むこととなりました。

50 その他のローマ海軍

これら二つの港はローマ海軍の主要な拠点と考えられていましたが、その他にも、プロヴァンス沿岸のフレジュスに、かなりの軍事力が配備されていました。また、エウクシンは四十隻の船と三千人の兵士によって守られていました。

これら全てに、ガリアとブリテン間の輸送を維持した艦隊、そしてライン川とドナウ川では、辺境地域を繰り返し急襲し、または野蛮人の進路を妨害するために、常に整備された大量の船が加わります。

Frejus「フレジュス」

Euxine「エウクシン」(黒海)

Euxineは、古代ギリシャ語で「黒海」を意味します。この言葉は、古代ギリシャ人が黒海を指す際に使われていました。当時、黒海はギリシャの都市国家と接しており、重要な交易ルートや文化交流の中心地でした。

ローマ帝国とEuxine(黒海)の関係は、古代の地中海世界における重要な一部でした。ローマ帝国は、黒海沿岸に位置する都市や地域と積極的に関わりを持ちました。これは、黒海地域が貿易や軍事上の重要性を持っていたためです。

黒海沿岸の都市や地域は、ローマとの貿易や同盟を求めることがありました。また、ローマは黒海地域を通じて東方との交流を行い、文化や技術の伝播にも寄与しました。

一方で、ローマと黒海地域との関係は時には緊張を伴うこともありました。例えば、ローマと黒海地域の一部となったポントス王国との対立や、周辺地域からの侵略に対する防衛などが挙げられます。

51 ローマ軍事力の規模

この帝国軍の一般的な状況、騎兵も歩兵も、軍団、補助兵、護衛、そして海軍を検討するとしたら、海と陸の全体の常備軍を最も偏見を持たずにどんなに多く見積もっても四十五万人以上に定めることはできないでしょう。

その軍事力はどんなに強大に見えても、その王国がローマ帝国の一つの属州内に限定されていた前世紀の国王の時代に相当するものでした。

52 現在のローマ帝国の支配下の状況

以上、ハドリアヌス帝とアントニヌス帝の力となった穏健な精神とそれを支えた軍事力ついて見てきました。

これから、かつてローマ帝国の支配下で統一されていましたが、現在、多くの独立した敵対的な国家に分割されている国々について、明解かつ正確に見ていこうと思います。

53 ポルトガルとスペイン

スペインは、ローマ帝国の、ヨーロッパの、そして古代世界の西端に位置し、全ての時代を通じて常に同じ自然の境界であるピレネー山脈や地中海、そして大西洋を常に同じ自然の境界として維持されてきました。

 現在二つの国家で不均等に分割されてる広大な半島は、アウグストゥス帝によって三つの属州、ルシタニア、バエティカ、タラコネンシスに分割されていました。

ポルトガル王国は現在、戦闘的なルシタニア人の国があった土地を占めており、かつて東側で失った損失は、北側へ領土を増やすことによって埋め合わせされています。

グレナダとアンダルシアの境界は、古代のバエティカのそれと一致します。

スペインの残りの部分 - ガリシア、アストゥリアス、ビスカヤ、ナバーラ、レオン、二つのカスティーリャ、ムルシア、バレンシア、カタロニア、アラゴン - すべてが、ローマ帝国の第三の最も重要な支配地を形成するために貢献しました。これは、その首都の名前から、タラゴナの州と呼ばれました。

原住の野蛮人の中で、ケルティベリア人が最も強力で、カンタブリア人とアストゥリアス人が最も手に負えないことがわかりました。

山での強さに自信を持っていた彼らは、最後にローマの軍事力に服従し、アラブのくびきを最初に逃れた人々でした。

ヒスパニア属州
Celtiberians「ケルティベリア人」

古代イベリア半島に居住していたケルト人の一派のこと。

ケルティベリア人は、古代ローマ時代にイベリア半島中部に住んでいたケルト系とイベリア系の混血民族です。

彼らは前六世紀から前一世紀にかけてこの地域に住んでおり、特に前三世紀から前一世紀には、彼らの文化と政治的組織が隆盛を極めました。

ケルティベリア人は、自らの言語や文化を持ちながらも、ローマとの接触により徐々にローマ文化の影響を受けるようになりました。

彼らはローマとの間で何度か戦争を行いましたが、最終的には前一世紀後半にローマ帝国の支配下に入りました。

Cantabrians「カンタブリア人」

カンタブリア人は、古代ローマ時代にイベリア半島北部に住んでいた民族です。彼らは現在のスペイン北部にあたる地域に居住し、ケルト系とイベリア系の要素を持つ民族でした。

カンタブリア人は、前一世紀から前二世紀にかけて、ローマ帝国と頻繁に戦いました。最終的には、前一九年から前一六年にかけて行われたカンタブリア戦争により、ローマ帝国に征服されました。これにより、カンタブリア人はローマの支配下に入り、ローマ文化の影響を受けることとなりました。

アラブのくびき

アラブのくびきは、中世から近世初期にかけて、イスラム教徒の支配下にあったイベリア半島(スペインとポルトガル)において、キリスト教徒がアラブ人やベルベル人の支配下に置かれた状態を指します。

アラブの支配は七一一年に始まり、一四九二年のレコンキスタ(キリスト教徒による再征服)まで続きました。

この時期、スペインのイスラム支配下では、アラブ文化やイスラム文明の影響が強く、科学、哲学、文学などの分野で繁栄しました。

54 ガリア

古代のガリアはピレネー山脈、アルプス山脈、ライン川、そして大西洋に囲まれた国全体が含まれていため、現代のフランスよりも広範囲にわたっていました。

今の強大な君主制の領土に、最近のアルザスとロレーヌの獲得を加える必要があります。

また、サヴォイ公国、スイスのカントン、ラインの四つの選帝侯領、およびリエージュ司教領、ルクセンブルク、エノー、フランドル、ブラバントの領土も加わります。

ガリアの領土
Alsace-Lorraine「アルザス=ロレーヌ」

アルザス=ロレーヌ地方は長年神聖ローマ帝国傘下のロートリンゲン公国などの支配下にあった。

しかし、一七世紀になるとフランス王国が勢力を拡大してストラスブールなどを支配下に置いた。

一七三六年にロートリンゲン公フランツ三世シュテファンがオーストリア系ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝家)のマリア・テレジアの婿に決定すると、フランス王国はロレーヌが実質的にオーストリア公領となるこの結婚に反対した。

協議の結果、領土交換が行われ、一代限りのロレーヌ公となったスタニスワフ・レシチニスキの死後には完全にフランス領に編入された。

the duchy of Savoy「サヴォイア公国」

サヴォイア公国は、サルディーニャ王国の前身となった公国です。

一七一八年に締結されたロンドン条約の結果、一七二〇年にサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ二世は、シチリア島(シチリア王国)を手放す代わりに、ハプスブルク家の所領だったサルデーニャ島(サルデーニャ王国)を獲得しました。

一方、サヴォイア公爵領もイタリア統一によりイタリア王国の一部となって解消されるまで存続しました。

Cantons of Swizerland「スイスのカントン」

スイスの地方行政区画は、まず二十六のカントンと呼ばれる州からなっていました。

これは一九世紀半ばまで、独自の軍を持った主権国家でした。

現在の連邦制度は一八四八年に確立されました。

the four electorates of the Rhine「ラインの四つの選帝侯領」

「ライン川の四選帝侯」とは、神聖ローマ帝国の歴史において、ライン川沿いの四つの選挙区域における選帝侯(Kurfürst、選帝侯)を指します。これらの選帝侯は、特定の帝国議会において皇帝を選出する権利を持っていました。彼らは主にケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教、プファルツ選帝侯として知られていました。。

一一九八年、ローマ教皇インノケンティウス三世はヴェルフ家とホーエンシュタウフェン朝のローマ王位争いについて、「ライン川流域の四人の諸侯、マインツ大司教・ケルン大司教・トリーア大司教・ライン宮中伯の賛同が不可欠である」と宣言しました。

一. ケルン大司教領(Kurköln): ケルン大司教が統治する地域で、現在のドイツ西部に位置しています。ケルン大司教はケルン大聖堂の長であり、神聖ローマ帝国の選帝侯の一人としての地位を保持していました。

二. マインツ大司教領(Kurmainz): マインツ大司教が統治する地域で、現在のドイツ西部に位置しています。マインツ大司教もケルン大司教同様に、神聖ローマ帝国の選帝侯の一人でした。

三. トリーア大司教領(Kurtrier): トリーア大司教が統治する地域で、現在のドイツ西部に位置しています。トリーア大司教もケルン大司教やマインツ大司教と同様に、神聖ローマ帝国の選帝侯でした。

四. プファルツ選帝侯領(Kurpfalz): プファルツ選帝侯が統治する地域で、現在のドイツ南西部に位置しています。プファルツ選帝侯も神聖ローマ帝国の選帝侯の一人であり、プロテスタントの選帝侯として重要な役割を果たしました。

深緑=マインツ、オレンジ=ケルン、紫=トリーア、赤&うすピンク=ボヘミア、黒=ブランデンブルク、黄=ザクセン、青=ライン宮中伯(プファルツ)
the territories of Liege「リエージ司教領」

リエージュ(Liege)は、ベルギーの南東部に位置する都市であり、かつては独立した司教領でした。

神聖ローマ帝国の帝国諸侯の一人であり、その領土は現在のベルギー、オランダ、ドイツの一部にまたがっていました。

周囲の諸侯や国々としばしば対立し、時には同盟を結んでいました。

一六世紀から一八世紀にかけては、宗教改革の影響を受けて内部での対立が激化し、フランス革命によってリエージュ司教領は1一七九五年に廃止されました。

Luxemburg「ルクセンブルク」

ルクセンブルクの領土は、現在のルクセンブルク大公国の前身である歴史的な領域を指します。

これは、現在のルクセンブルク市の周りに広がる地域であり、中世から近代にかけて重要な政治的地域でした。

ルクセンブルクは、神聖ローマ帝国の一部であり、後にブルゴーニュ、スペイン、オーストリアなどの支配下に入りました。

近代に入ると、ルクセンブルクはハプスブルク家やスペイン、フランスなどの間で度々争奪される地域となりました。

一八一五年のウィーン会議によって、ルクセンブルクはオランダ王国の一部となり、一八三九年には独立国家として承認されました。

ルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)は、西ヨーロッパに位置する国であり、首都はルクセンブルク市です。

国土面積は約二五八六平方キロメートルで、人口は約六十万人です。

ベルギー、フランス、ドイツと国境を接しており、ベネルクス諸国の一つです。

ルクセンブルクは、歴史的には神聖ローマ帝国やその後の大国の支配下にありましたが、一九世紀初頭に独立を回復し、一八三九年にはロンドン条約によって国際的に独立国家として承認されました。その後、ルクセンブルクは中立政策を採りながら経済的に成長し、鉄鋼産業や金融産業が重要な柱となっています。

Hainault「エノー」

エノー郡は、現在のベルギーとフランスの国境にまたがる中世の神聖ローマ帝国内の領土です。

Flanders「フランドル」

フランドルは、ベルギー西部(旧フランドル伯領)を中心とし、オランダ南西部、フランス北東部にまたがる地域です。

一四七七年のネーデルラント十七州の地図。フランドルは西部に位置する(九番)。
Brabant「ブラバンド」

ブラバントは、ベルギーとオランダの境界に位置する地域で、かつては独自の公国として存在していました。現在は、ベルギーのフランデレン地域とワロン地域にまたがる地域の一部として知られています。

ブラバント公国(Duchy of Brabant)は、中世から近世にかけて現在のベルギーとオランダにまたがる地域に存在した歴史的な公国です。ブラバント公国は、フランク王国の一部として成立し、後に神聖ローマ帝国の一部となりました。この公国は、フランドル地方やワロン地方、そして現在のオランダ南部に広がっていました。

55 ガリアの分割と名称

アウグストゥス帝は義父カエサルの征服地に法律を制定し、軍団の進行、河川の流れ、そして主要な国家区分に等しく順応するようガリアを分割をしました。そこには百以上の独立した国家が含まれていました。

地中海の沿岸にある、ラングドック、プロヴァンス、ドーフィネは、ナルボンヌの植民地が、その属州の名称となりました。

アキテーヌの属州はピレネー山脈からロワールまで拡大されました。

ロワール川とセーヌ川の間の国はケルト・ガリアと呼ばれていましたが、すぐに有名なルグドゥヌムまたはリヨンの植民地から新しい名称を取り入れました。

ベルギックはセーヌ川を越えて広がり、もっと古い時代はライン川だけが境界でした。しかし、カエサルの時代の少し前に、ゲルマン人はその優れた武勇を乱用して、ベルギックの領土のかなりの部分を占領しました。

Languedoc「ラングドック」

フランスの地域名です。これは、かつてのフランスの地方区分であり、現在はオクシタニー地域圏(Occitanie)の一部となっています。

ラングドックの領域は、ローマ帝国属州ガリア・ナルボネンシスの初期の頃に大まかに重なる。この地域はのちにセプティマニアと呼ばれた。

五世紀にこの地域の支配者となった西ゴート族は、土地をゴティアと呼んだ。

アンシャン・レジーム(フランス革命までの旧体制)時代後半のラングドックの地図
Provence「プロヴァンス」

プロヴァンス(Provence)は、フランスの南東部に位置する地域で、地中海沿岸からアルプス山脈にかけて広がります。この地域は、温暖な気候、美しい風景、古代から続く歴史的な街並み、そして特にラベンダーやオリーブの栽培で知られています。

歴史的には、ローマ帝国終焉後、プロヴァンスは五三六年にフランク王国に含まれ、九四七年にはブルグント王国内のプロヴァンス侯領となった。

その後、エクス=アン=プロヴァンスを首都とするプロヴァンス伯領となった。

マルセイユやニースなどの大都市から小さな村までさまざまな魅力的な場所があり、多くの観光客を魅了しています。

また、プロヴァンスは芸術や文学の分野でも重要であり、特に画家のポール・セザンヌや作家のアルベール・カミュなど、多くの著名な芸術家や文学者を輩出してきました。

Dauphiné「ドフィーネ」

Dauphiné(ドーフィネ)は、フランスの歴史的な地域名で、現在はアルプス山脈の一部となっています。この地域はかつて独立した国家であり、フランス王の王太子(dauphin)に由来する名前でもあります。そのため、歴史的にはフランス王家の領地として重要でした。

Dauphinéは、アルプス山脈の南東部に位置し、グルノーブルやシャンベリなどの都市があります。この地域は自然美やスキーリゾートとして知られており、アウトドア活動や冬のスポーツに適しています。また、歴史的な城や教会、美しい村々も多く、観光地としても人気があります。

Narbonne「ナルボンヌ」

フランスの都市。フランス南部の地中海沿岸に位置し、古代ローマ時代には重要な都市でした。

ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス(Gallia Narbonensis)と呼ばれる地域の中心的な都市であり、後には西ゴート王国やフランク王国の支配下に入りました。

Lugdunum or Lyons「ルグドゥヌム」

ルグドゥヌムは、前43年にローマ法の植民地が設立されたガリア遺跡の名称です。

古代ローマの都市で、現在のフランスのリヨンに位置していました。

ガリア・ルグドゥネンシス(Gallia Lugdunensis)と呼ばれるローマ帝国の属州の首都であり、重要な政治的、経済的な中心地でした。また、ローマ帝国時代には、重要な通商路の交差点でもありました。

seine「セーヌ川」
- The Belgic 「ベルギック」

古代ローマ時代においては、現在のベルギー地域のみならず、セーヌ川付近までのガリア北部に住む複数のケルト系民族を指す用語として使われていました。

56 

ローマの征服者たちは、このような状況を大げさに褒め称えて喜んで受け入れており、バーゼルからライデンにかけてのライン川沿いをガリアの国境として、上ゲルマニアと下ゲルマニアという大げさな名前が与えられました。

そういうわけで、アントニヌスの治世の下では、ガリアには6つの属州が存在しました。それらは、ナルボンヌ、アキテーヌ、ケルトまたはリヨン、ベルギック、そして二つのゲルマニアでした。

the Upper and the Lower Germany「上・下ゲルマニア」

「上ゲルマニア」と「下ゲルマニア」は、古代ローマ帝国が現在のドイツ地域において行った行政区分の一部です。これらは紀元前1世紀から5世紀にかけて存在しました。

上ゲルマニア(Germania Superior)は、ライン川上流地域に位置し、メイン川やネッカー川の流域を含んでいました。この地域は戦略的に重要であり、軍事的にも要所でした。上ゲルマニアにはマインツ(Mainz)やストラスブール(Strasbourg)などの重要な都市がありました。

一方、下ゲルマニア(Germania Inferior)は、ライン川下流地域に位置し、ライン川とマース川の間の地域を指しました。こちらも軍事的に重要な地域で、コロニア・アグリッピナ(現在のケルン)などの都市が含まれていました。

上ゲルマニアと下ゲルマニアは、ローマ帝国がゲルマン人との境界を確保するために設立された行政区分でした。これらの地域は、ローマの支配下にあり、軍事的および行政的な目的で使用されました。

上ゲルマニア(Germania Superior)
下ゲルマニア(Germania Inferior)
57 ブリタニア属州

ブリタニアを征服したことと、この島のローマ属州の境界を確定したことについては、既に述べてきたとおりです。

それは全イングランド、ウェールズ、そしてスコットランドの低地のほぼ全て、ダンバートンとエディンバラのフリスまで包含していました。

ブリトン人が自由を失う前、その辺境地は不規則に30の野蛮な部族に分けられていました。その中で最も重要なのは、西部のベルガエ族、北部のブリガンテス族、南ウェールズのシルリ族、ノーフォークとサフォークのイケニ族でした。

ブリトン人

ブリトン人(Britons, Brython)は、前ローマ時代にブリテン島(ブリタニア属州)に定住していたケルト系の土着民族をいいます。

単に「Briton」というと近代英国民のことを指すので、学術上この民族集団を指すときは「ブリテン諸部族(British tribes)」、「古代ブリトン人(ancient Britons)」、または「ブリトン民族(ethnic Britons)」とも呼ばれます。

四〇九年、ローマ帝国がブリタニア属州を放棄した後、古来からのブリトン人の部族制が復活します。

それぞれが王を戴く部族国家が乱立し、政治的統一がされる前に、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきました。

彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐しました。これがイギリスにおける最初のアングロ・サクソン人です。

58 西ヨーロッパ属州

風俗や言語の類似点を見つけ信用できる範囲において、スペイン、ガリア、ブリタニアには同種の屈強で野蛮な民族が住んでいました。

ローマ軍に服従する前は、彼らはしばしば領地を争い、しばしば戦いを繰り返していました。

彼らが服従した後、彼らはヨーロッパ属州の西部部分を構成しました。これはヘラクレスの柱からアントニヌスの壁まで、そしてテージョ川の河口からライン川とドナウ川の源まで広がっていました。

the Tagus 「テージョ川」

テージョ川は、イベリア半島で最も長い川です。

川はスペイン中東部のテルエル近くのモンテス・ウニベルサレスで上昇し、一般的に西に向かって一〇〇七キロメートル(六二六マイル)を流れ、リスボンの大西洋に流れ込みます。

59 イタリア半島北部

ローマ人による征服以前は、現在のロンバルディアと呼ばれる国はイタリアの一部とは考えられていませんでした。

そこは強力なガリア人居留地が占拠していました。彼らはポー川沿いに自らを定着させ、ピエモンテからロマーニャにかけて、アルプスからアペニン山脈まで武器を運び、その名を広めました。

Lombardy「ロンバルディア」

ロンバルディア(Lombardy)は、イタリアの北部に位置する地域で、首都はミラノです。古代ローマ時代から続く歴史を持ち、ロンバルディア地方は中世にランゴバルド人(ロンバルド人)によって支配されたことからその名が付けられました。

ロンバルディアはイタリアで最も経済的に重要な地域の一つであり、工業や金融、ファッション産業などが盛んです。また、ミラノはファッションやデザイン、美術の中心地として知られています。さらに、ロンバルディアには美しい湖が点在しており、コモ湖やガルダ湖などがあります。

この地域はまた、歴史的な建造物や美術館なども豊富にあり、観光地としても人気があります。ロンバルディアはイタリアの他の地域とは異なる独自の文化や伝統を持ち、多くの人々に愛されています。

the Po「ポー川」
Piedmont「ピエモンテ州」

ピエモンテ(Piedmont)は、イタリアの北西部に位置する地域で、首都はトリノです。ピエモンテはアルプス山脈とポー川平野に囲まれた美しい地域で、自然の景観が豊かです。

ピエモンテはイタリアで最も広いワイン生産地域の一つであり、バローロやバルバレスコなどの高品質なワインで知られています。また、トリュフやチーズなどのグルメな食材でも有名です。

この地域には、歴史的な建造物や美術館、美しい庭園などが数多くあり、文化的にも豊かです。トリノはかつてサヴォイア家の首都として栄え、その歴史的な遺産は今も残っています。

ピエモンテはアウトドア愛好家にとっても魅力的な地域で、アルプス山脈でのハイキングやスキーなどのアクティビティが楽しめます。また、美しい湖や温泉地もあり、リラックスするのに最適な場所です。

Romagna「ロマーニャ」

ロマーニャは、イタリアのエミリア・ロマーニャ州(Emilia-Romagna)に含まれる地域の一部で、州の南東部に位置しています。エミリア・ロマーニャ州は、中世の頃からエミリア地方とロマーニャ地方という二つの異なる地域から成り立っており、その名前もこの二つの地域の名前から取られています。

ロマーニャ地方は、アドリア海に面しており、リミニ(Rimini)などの海岸都市があります。リミニは古代ローマ時代から続く歴史を持ち、美しいビーチや歴史的な建造物が人気を集めています。また、ロマーニャ地方は美食の地としても知られており、特にピアチェンツァ(piadina)やシュガルコ・アル・ビアンコ(Squacquerone)などの料理が有名です。

ロマーニャ地方はまた、自然の景観も豊かで、丘陵地帯や農地が広がっています。サン・マリノ共和国もこの地域に近いため、観光客に人気のある場所です。ロマーニャ地方はエミリア・ロマーニャ州内でも独自の文化や伝統を持ち、訪れる人々を魅了しています。

60 ジェノヴァ・ベネツィア

リグリア人は、今ではジェノヴァ共和国を形成する岩の多い海岸に住んでいました。

ヴェネツィアはまだ生まれていませんでした。しかし、アディジェ川の東に位置するその州の領土は、ヴェネツィア人によって居住されていました。

リグリア人とジェノヴァ共和国

古代のリグリア人は、現在のイタリア北西部リグリア地方に居住していた民族でした。

彼らは主に山岳地帯や海岸地域に住んでおり、農業や畜産、狩猟、漁業などで生活していました。

リグリア人はしばしばローマとの接触や衝突があり、ローマの支配下に入る前は独自の文化や言語を持っていましたが、ローマの支配下に入ると徐々にローマ文化に同化していきました。

ジェノバ共和国とリグリア人の関係は非常に密接でした。ジェノバはリグリア人の居住地域に位置し、中世にはリグリア人の一部として考えられることがあります。

ジェノバ共和国は中世から近世にかけて、リグリア地方を中心に繁栄しました。

ジェノバは海洋貿易や海軍力を重視し、地中海での交易や支配を拡大していきました。この過程で、ジェノバはリグリア人との関係を重要視し、リグリア地方を支配下におさめることで、その勢力を拡大していきました。

一方、リグリア人はジェノバの支配を受け入れる一方で、自らの文化や言語、伝統を維持しようと努力しました。ジェノバとリグリア人の関係は、時には協力的であったり、対立的であったりしましたが、おおむね共存関係が続きました。

ベネツィア共和国

ベネツィアは、東ローマ帝国の支配から逃れるために沼地に避難した人々によって建設されました。これが八世紀のことです。その後、ベネツィアは独自の政治体制を発展させ、独立した共和国として成長しました。

ベネツィア共和国は、中世からルネサンス期にかけて地中海貿易で栄え、海洋交易の中心として繁栄しました。ヴェネツィアは、東方への貿易路やイスラム世界との交易で富を築きました。

一一世紀から一五世紀にかけて、ヴェネツィアは十字軍遠征にも参加し、東地中海の制海権を確立しました。また、ヴェネツィアは芸術や建築、文化の面でも多大な成果を上げ、ヴェネツィア派と呼ばれる独自の絵画様式を発展させました。

しかし、一六世紀以降、ヴェネツィアはオスマン帝国との戦争やヨーロッパの大国との競争によって衰退し始めました。

一七九七年、ナポレオン・ボナパルトによってヴェネツィア共和国は滅ぼされ、その後、オーストリア帝国の支配下に入りました。

アディジェ川
61 イタリア半島中央部

現在のトスカーナ公国と教皇領を構成する半島の中央部は、古代エトルリア人とウンブリア人の古代の拠点でした。エトルリア人には、イタリアが文明化する最初の段階で恩恵を受けています。

テベレ川はローマの七つの丘のふもとを流れ、サビニ人、ラテン人、ボルスキ人の国々は、その川からナポリの国境にかけて、ローマ初期の勝利の舞台となりました。

その有名な土地は、最初の執政官たちが凱旋式を受けるにふさわしく、彼らの後継者たちは邸宅で飾り立て、その子孫たちは修道院を建てました。

the duchy of Tuscany「トスカーナ公国」

トスカーナ公国(Granducato di Toscana)は、かつてイタリアに存在した国家であり、トスカーナ地方を支配していました。公国は16世紀後半から19世紀初頭まで存在し、メディチ家や後にはロレーナ家によって統治されました。トスカーナ公国はイタリア統一運動の影響を受け、1860年にサルデーニャ王国に併合され、その後イタリア王国の一部となりました。

61 イタリア半島南部

カプアとカンパニアはナポリ王国の領地を所有していました。

王国の残りの部分は、マルシ人、サムニウム人、アプリア人、ルカニア人など、多くの武闘派の民族によって居住されていました。

海岸沿いはギリシャ人の繁栄する植民地に含まれていました。

ナポリ王国

古代ローマ時代: ナポリ周辺は古代ローマの支配下にありました。この地域はカンパニア地方として知られ、重要な農業地帯として栄えました。ローマ帝国の衰退後、ナポリ周辺はさまざまな侵略者の影響を受けました。

中世: 中世初期には、ナポリ周辺は東ローマ帝国の支配下にありましたが、8世紀にはランゴバルド人の支配を受けました。その後、九世紀にはノルマン人が侵入し、一一世紀には南イタリアの支配を確立しました。

アンジュー家とアラゴン王国: 一三世紀後半から一四世紀初頭にかけて、ナポリ王国はアンジュー家の支配下に入りました。しかし、後にアラゴン王国の支配下に移り、一五世紀半ばまで続きました。

スペイン支配: 一五世紀後半から一八世紀初頭にかけて、ナポリ王国はスペインの支配下に入りました。この時期、ナポリはスペイン領イタリアの一部として統治されました。

ボルボン朝: 一八世紀後半には、ナポリ王国はブルボン朝の支配下に入りました。この時期、ナポリは文化的な発展を遂げ、ナポリ湾周辺の美しい建築物が建設されました。

統一イタリア: 一九世紀半ば、ナポリ王国は統一イタリアの一部となりました。一八六一年にイタリア王国が成立し、ナポリもその一部として統合されました。

マルシ人、サムニウム人、アプリア人、ルカニア人

マルシ人(Marsi)、サムニウム人(Samnites)、アプリア人(Apulians)、およびルカニア人(Lucanians)は、古代イタリアに存在した武闘派の民族です。彼らはそれぞれ異なる地域に居住しており、独自の文化や言語を持っていました。

マルシ人(Marsi)は、現在のイタリア中部に居住していました。彼らは農耕や牧畜を行いながら、しばしばローマとの衝突や戦争を経験しました。マルシ人はローマ共和国期にはローマの同盟国となり、後にはローマの一部として統合されました。

サムニウム人(Samnites)は、現在のイタリア南部に居住していました。彼らは独自の文化や軍事力を持ち、しばしばローマとの間で戦争を繰り返しました。サムニウム戦争は、サムニウム人とローマとの長期にわたる対立を描いています。

アプリア人(Apulians)は、現在のイタリア南東部、特にアプリア地方に居住していました。彼らはイリュリア人やギリシャ人の影響を受けながらも独自の文化を築きました。アプリアは、古代ギリシャ植民地の影響を受けた地域でもありました。

ルカニア人(Lucanians)は、現在のイタリア南部に居住していました。彼らはサムニウム人と近い関係を持ちながらも、独自の文化や歴史を持っていました。ルカニアは、古代ギリシャの植民地やローマ帝国の支配下に入るなど、さまざまな文化的な影響を受けました。

62 

アウグストゥスがイタリアを十一の地域に分割した際、イストリアの小さな州がローマの支配地域に併合されたことを指摘しておきましょう。

Istria「イストリア」

イストリアはアドリア海の奥、東側に位置する三角形の半島にある地域を指します。

古代イストリアは、現在のクロアチア、スロベニア、および一部のイタリアの地域にあたります。この地域は、古代からさまざまな民族や文化の影響を受けてきました。

古代ギリシャや古代ローマ時代には、イストリアはイリュリア人や他の周辺民族と交流がありました。特にローマ時代には、イストリアはローマ帝国の支配下に入り、重要な交易や農業地域として栄えました。イストリアの多くの都市や町は、ローマの支配によって発展し、ローマ風の建築や文化が根付きました。

中世には、イストリアはさまざまな王国や国家の支配を受けました。クロアチア王国やヴェネツィア共和国、オーストリア帝国などがこの地域を支配しました。これらの支配者の影響により、イストリアの文化や建築は多様化しました。

現代のイストリアは、クロアチアとスロベニアの一部として続いています。この地域は、美しい自然や歴史的な遺産、そして独自の文化で知られています。

63 ライン川とドナウ川沿岸

ローマのヨーロッパの属州は、ライン川とドナウ川の流路によって守られていました。

これらの巨大な河川のうち後者ドナウ川は、前者ライン川からわずか三十マイルしか離れていない場所で生まれ、ほとんどが南東に向かって一三〇〇マイル以上流れ、六十の航行可能な川からの流水を集め、最終的に六つの河口を通って黒海に注ぎ込まれます。黒海は、そのような水量の増加にとても対応できないように思われます。

ドナウ川沿いの属州はすぐにイリュリクムまたはイリュリアの辺境という一般的な呼称を得て、帝国で最も戦闘的とみなされました。しかし、これらの属州は、ラエティア、ノリクム、パノニア、ダルマティア、ダキア、メシア、トラキア、マケドニア、およびギリシャという名前でより詳細に考えるのが相応しいでしょう。

ラエティア属州によって、すぐにヴィンデリキアン(Vindelicians)の名前は消滅しました。この属州は、アルプス山脈の頂上からドナウ川の岸まで、その源からイン川との合流点まで広がっていました。

ほとんどの平地はバイエルン選帝侯の支配下にあり、アウクスブルク市は神聖ローマ帝国の憲法によって保護されています。

グラウビュンデン州は山々に守られており、ティロル地方はオーストリア大公家の多くの州の一つに位置づけられています。

イン川、ドナウ川、およびサヴァ川に囲まれた広大な領土、つまりオーストリア、シュタイアーマルク、カリンティア、カルニオラ、下ハンガリー、およびスラボニアは、古代にはノリクム(Noricum)とパンノニア(Pannonia)として知られていました。

Illyricum「イリュリクム」

古代ローマ時代のIllyricum(イリュリクム)は、現在のバルカン半島西部および中部にあたる地域を指します。この地域は、古代ローマ帝国において、イリュリア人(Illyrians)と呼ばれる諸部族が住んでいたことから名付けられました。

イリュリクムは、前二世紀から後四世紀初頭にかけて、ローマ帝国の一部として存在しました。この地域は、ローマにとって軍事的に重要な地域であり、バルカン半島とイタリア半島を結ぶ交通の要所でした。

また、イリュリクムは、ローマ帝国の属州として統治され、その後はダキアやパンノニアなどの属州とともに管理されました。

イリュリクムは、バルカン半島西部に位置していたため、古代ローマ帝国における東西の交通や文化の交流の中心地として重要な役割を果たしました。また、この地域は、古代ギリシャとローマ文化の影響を受けながら独自の文化を発展させました。

Vindelicians「ヴィンデリキア人」

古代ローマ時代にアルプス山脈周辺に住んでいたとされるケルト系の部族です。彼らは現在のオーストリア、ドイツ、スイスの一帯に居住していたとされています。

ヴィンデリキア人は、前一世紀から後一世紀にかけて、ローマ帝国との接触や衝突が増えました。前一五年には、ローマの将軍ティベリウスがヴィンデリキア人に対して軍事行動を行い、一部の地域を征服しました。その後もローマとの関係は続き、ヴィンデリキア人はローマ帝国の支配下に入りました。

ヴィンデリキア人は、ローマ帝国の属州として組み込まれることはありませんでしたが、ラエティア属州という隣接する属州に組み込まれ、ローマ帝国の影響を受けました。その後、ヴィンデリキア人の名前は消滅し、彼らの文化や言語はローマ文化に吸収されていったとされています。

バイエルン選帝侯

バイエルン選帝侯は、ドイツのバイエルン地方にあった選帝侯領の君主を指します。

バイエルン選帝侯の領地は、主に現在のドイツのバイエルン州に相当する地域でした。彼らはバイエルン地方を支配し、領土を拡大し、経済的・政治的な影響力を築きました。特に、バイエルン選帝侯は、ミュンヘンを首都とするバイエルン公国(Duchy of Bavaria)を統治していました。

神聖ローマ帝国の選帝侯の一人であり、帝国議会(帝国議会)の一員として重要な地位を占めていました。

選帝侯は、神聖ローマ皇帝を選出するための選挙に参加し、選帝侯の地位は世襲されました。

バイエルンのヴィッテルスバッハ家(House of Wittelsbach)によって長い間支配されており、その歴史は中世から近代にわたります。

Duchy of Bavaria「バイエルン公国(一六一八)」
Graubünden「グラウビュンデン州」

スイスの州カントンの一つであり、その首都はシャムッツ(Chur)です。

スイスの東部に位置し、オーストリア、イタリア、リヒテンシュタインと国境を接しています。

この州は、アルプス山脈に囲まれた美しい景観で知られており、観光客に人気のある地域です。

グラウビュンデン州は、ユネスコの世界遺産に登録されているセント・モリッツやダビオスなどのリゾート地があり、冬季スポーツやアウトドアアクティビティを楽しむ人々にとって魅力的な目的地となっています。また、州内にはロマンシュ語を話す人々が多く住んでおり、独自の文化や言語が根付いています。

Archduke of Austria「オーストリア大公」

オーストリア大公(Archduke of Austria)は、かつてハプスブルク家が保有していた称号の一つで、オーストリアの君主を指しました。

ハプスブルク家は、中世から近世にかけてオーストリアを支配し、後に神聖ローマ帝国の皇帝を輩出するなど、ヨーロッパの歴史において重要な役割を果たしました。

チロル地方はアルプス山脈の一部を占めており、自然の美しさやスキー場として有名です。

チロルは中世から近代にかけて、オーストリア大公の支配下にありました。オーストリア大公は、チロルを含む広大な領地を統治し、その領地は後にオーストリア帝国の一部となりました。

Inn「イン川」

スイス、オーストリア、ドイツを流れるドナウ川に合流する川です。全長は約五一七キロメートルで、アルプス山脈を源流としています。

特にオーストリアのチロル州では、イン川沿いに美しい風景や観光名所が点在しています。

イン川は、ドナウ川の支流として知られており、ドナウ川と合流するウルムでの合流点までの間で、重要な水運路としても機能しています。

Save「サヴァ川」

スロベニアとクロアチアを流れるサヴァ川(Sava River)を指します。この川は、スロベニアのアルプス山脈を源流とし、東南ヨーロッパを流れ、セルビアとの国境を形成している重要な河川です。

サヴァ川は、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアを結ぶ交通の要として重要であり、また、周辺地域の農業や産業にとっても重要な水源となっています。川沿いには多くの都市があり、文化的、経済的な中心地としての役割を果たしています。

64 オーストリア

元々独立国だった頃、彼らは気性の激しい住民で、密接に連携していました。

ローマの統治下では、彼らは頻繁に合併しておおり、今でも一つの親族の世襲領土として残っています。

彼らは現在、自らローマ皇帝と称するドイツ王の居住地を含めて、オーストリア勢力の強さと同様に、その中心となっています。

ボヘミア、モラビア、オーストリアの北部辺地、およびティサとドナウ川の間のハンガリーの一部を除けば、オーストリア(ハプスブルク)家の他のすべての領土は、ローマ帝国の範囲内に含まれていたと言っても間違いではないでしょう。

the Theiss「ティサ」

現在のハンガリー語で「Tisza」と呼ばれるドナウ川の支流です。

ティサ川(Tisza River)は、中央ヨーロッパに位置する川で、その中でも主にハンガリーを流れています。

ウクライナのカルパティア山脈を源流とし、セルビア、ウクライナ、スロバキア、ハンガリーを通ります。

特にハンガリーでは、国土の中央部を流れ、重要な水源として機能しています。

65 ダルマチア

ダルマチアは、イリュリクムという名前がもっと適切に適用される地域であり、サヴァ川とアドリア海の間に位置する長いが狭い地帯でした。

今でもその古代の名称を維持している海岸の最も良い地域は、ヴェネツィア共和国の一州であり、小さな共和国ラグーサの拠点です。

Dalmatia「ダルマチア」

「Dalmatia(ダルマチア)」は、かつてのローマ帝国の属州であり、現在のクロアチア沿岸地域を指します。

この地域は、アドリア海沿岸に位置し、その地理的特性や文化的背景から、古代から中世にかけて重要な地域でした。

ベネツィア共和国

中世から近世にかけて、イタリアの都市国家であったヴェネツィアの政治体制を指し、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家です。

七世紀末期から一七九七年まで千年の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国です。

この共和国は、東地中海の貿易で栄え、商業的な影響力を持ち、また海軍力によって地中海の支配権を保持しました。

ヴェネツィア共和国の領土の変遷
66 ライン川・ドナウ川内陸部

内陸部はクロアチアとボスニアのスラブ系の名前を取り入れました。

前者はオーストリアの総督の治下にあり、後者はトルコに従属しています。

しかし、国土全体はまだ野蛮な部族がはびこっており、彼らの激しい独立活動は、キリスト教とイスラム教の影響力の曖昧な境界を不規則な状態にしています。

Croatia「クロアチア」

古代クロアチアの地域は、古代ギリシャや古代イタリアと交易路で結ばれており、地中海の文化との接触があったと考えられています。

この地域にはイリュリア人と呼ばれる民族が住んでおり、彼らは古代ギリシャや古代ローマの文化圏と交流しました。また、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスや古代ローマの歴史家プリニウスなどの文献に、この地域の一部に関する言及があります。

前一世紀から後一世紀にかけて、古代ローマ帝国の支配下に入りました。この時期、地域の多くの都市がローマ化され、ローマの法律や文化が導入されました。しかし、古代クロアチアの歴史は、ローマ帝国の衰退とともに複雑な時期を経験しました。

五5世紀には、東ゴート族や東ローマ帝国の影響が現れ、六世紀にはスラヴ人の移住が始まりました。

スラヴ人の到来により、古代クロアチアの文化や社会構造は大きく変化しました。スラヴ人はこの地域に新たな王国を築き、中世初期のクロアチア王国が成立しました。

現代のクロアチア共和国
スラブ人

スラブ人は、スラブ語族の言語を話す民族の総称です。

中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、そして一部西ヨーロッパにも分布しています。

彼らは共通の言語グループであるスラブ語族に属し、ロシア語、ウクライナ語、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、クロアチア語、セルビア語、ブルガリア語、スロベニア語、ボスニア語、マケドニア語など、多くの言語がこの語族に含まれます。

スラブ人は非常に多様であり、異なる宗教、文化、歴史的な経験を持つグループに分かれていますが、スラブ語族の言語を共有することから、共通の要素を持っています。

東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)、西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)、南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)の三つに分けられます。

スラヴ人が多数派を形成する国々