日米講和外交

[出典]函館市/函館市地域史料アーカイブ第三編第5章
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[アメリカによる単独占領]

天皇の終戦宣言・日本軍の敗戦の結果、わが国はアメリカを中心とする連合国軍の占領下におかれた。この占領政策の最高決定機関としてワシントンに、米英ソ中など11カ国(いわゆる連合国)からなる極東委員会が設けられたが、実質的な占領政策は、東京の連合国軍最高司令部(GHQ)最高司令官マッカーサー(対日戦争のアメリカ軍最高司令官)主導のもと強力に行われた。すなわち、連合国軍による占領は名目で、実質的にはアメリカによる単独占領であった。このことは戦後の日本の発展に、特に外的条件(国際紛争・東西冷戦、朝鮮戦争などの)にも幸いした。

 アメリカによる事実上の単独占領は、初め軍事力の剥奪については厳しかったが、その他については予想外に寛大であった。寛大であったというだけではなく、民主化の方向と経済の回復に積極的な役割を果たした。占領政策には当然、行き過ぎや逆転があったりはしたが、新日本国憲法の制定にイニシャティブをとったほか、農地を耕作者に解放し、労働者に団結権と公正な労働基準を与え、女性に男性と平等の地位を認め、ことに基本的人権と言論の自由を擁護し、社会保障制度の端緒(たんしょ)をつくりだした。

 また、アメリカは対日賠償を放棄し、民族資本を温存し、軍事費を大部分肩代わりし、財政のバランスをすすめ、インフレを防止し、技術の導入に努力したが朝鮮戦争にともなう域外調達(いわゆる特需)が、異常の好材料を日本に与えた。これらが日本経済繁栄の基礎をすえた。

 もちろんアメリカの日本占領の目的性格は、第一義的には自国の利害関係から割り出された。したがって占領は日本国民にとって辛いものであった。国民は1日も早く占領の終結と、自国の独立を待ち望んだ。しかし、占領下にあった日本国民には、アメリカ政策の批判は原則として禁じられていた。

[講和問題の展開]

日本の占領には期限の定めがなかった。ポツダム宣言第12項に前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシとあるだけであった。

この項を適用するならば、占領後4年たった昭和24年(1949年)には、非軍事化また民主化という占領目的はほぼ達成され、自由で責任ある政府も吉田保守政権のもとに樹立されていたわけで、占領軍の撤退は行われ、講和が結ばれるべきであったが、事実は同26年(1951年)9月まで遅延となった。

 これは主として連合国間、特に冷戦状態にあった米ソ両国政府の対日講和方式のくいちがいのためであった。さらにアジアの情勢をみれば、23~24年(1948~49年)にかけて中国共産党による中国革命の進展に影響され、国際情勢の不安定要因が増大していた。したがってアメリカはアジアにおける日本の地位を重要とみなし、講和問題を予想より2年あまりも遅らせてしまったのである。

 この政策のはじまりは、22年(1947年)からのことであるが、25年(1950年)6月に勃発した朝鮮戦争(後述)を契機に、はっきりと実行されたのが、同年10月、特別警察予備隊−後の自衛隊の創設にはじまる。その後再軍備の要求が日本国民に対して矢継ぎ早になされた。GHQ最高司令官マッカーサー元帥が、再軍備のために憲法改正を国民に示唆しても吉田内閣・政府、政党、国民も動かなかった。反戦ムードにあった国民の中に少なくない反米気分が高まりはじめたのもこの頃である。講和については万事受け身の日本政府にも用意はできていなかったし、政府はむしろ当時の国際情勢・政情からみて早期講和を不利と考えていた。

 対日講和問題の具体的な展開は、昭和24年(1949年)9月、トルーマン大統領がワシントンにて米英外相会議を開催し、ソ連の反対と対日戦参加国の不確定な態度を承知のうえで、対日講和会議の方針を議したことに始まる。この時の国際情勢をみれば、アメリカは北大西洋条約機構(NATO)の構想によるソ連封じ込め政策をとっており、東南アジアにおいてもポイント・フォア計画によって、冷戦の方針をほぼ固めてきていた。こうした最中、11月1日、米国務省より対日講和条約案起草準備中と発表された。

 この方針に基づいて、昭和25年(1950年)春、トルーマン大統領は共和党のダレスを国務省の対日講和問題顧問に採用した。ダレス顧問が特命をおびて第1回目の来日をしたのが同年6月、朝鮮戦争勃発直前であった。その目的は日本の実情を視察し、GHQおよび日本政府の意見を聴取するとともに、アジア、特に朝鮮の状況を観察するためであった。平和的・理想主義的論文を過去に発表し、少なくとも、そう認識されていたダレスがとじまり論で、とじまりのない日本に対して再軍備をほのめかし、日本の世論を驚かせたのもこの時である。それだけ、アメリカは東西の冷戦構造を緊迫した情勢として分析し日本の東陣営に対する存在を重要視していたのであろう。

[朝鮮戦争の勃発]

ダレスの第1回目の対日講和外交が終るのを待っていたかのように、冷戦構造の中でもっとも懸念されていた南北朝鮮の衝突・朝鮮戦争が勃発した。

 昭和25年(1950年)6月25日午前4時頃、突如として、朝鮮を南北に分割している北緯38度線の全線にわたって戦闘が始まった。北朝鮮軍は11カ所で38度線の境界を突破して南へ向かって進撃を開始、南朝鮮の東海岸にも上陸、京城(ソウル)郊外にある飛行場に銃爆撃を加えてきた。これに対して、韓国側は直ちに北朝鮮の侵略を国連に報告して援助を求めた。一方、北朝鮮は放送を通し、午前11時韓国に対し正式に宣戦を布告、午後1時30分には、韓国軍が夜中(24~25日にかけてということか)に38度線を越え北朝鮮に侵入したと報じた。そして、翌26日午前には、北朝鮮の金日成(キムイルソン)首席が放送を通して責任は南朝鮮が負わねばならないと述べた。

 戦いは3年間におよんだ。南にはアメリカ軍を中心とする国連軍が、北には中国人民義勇軍が加わり激しい攻防戦がくりかえされたが、昭和28年(1953年)7月、板門店で休戦協定が結ばれた。

 この戦争の直後(8月10日)、日本ではGHQの指示により警察予備隊(のちの自衛隊)が発足、自衛力の強化がはかられた。また、多くの共産主義者が官公庁や言論機関から追放された(レッドパージ)。朝鮮戦争で国連軍の補給基地となった日本は、戦争による需要・特需が増え、昭和26年(1951年)の鉱工業生産は戦前の平均水準に回復し、以降、鉱工業・経済は順調な発展を見せる。

[サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約]

(1) 講和七原則

2度目のダレス来訪は半年後の昭和26年1月下旬、朝鮮戦争たけなわの時、それも、南下した北朝鮮軍に対して国連軍の反撃が開始された時であった。

 ダレスはソ連の態度を無視して対日講和促進の腹を決め、日本政府と講和条件について折衝を行った。この時、政府も、また、経済同友会などの経済団体もそれぞれ意見書を提出して、ダレスの対日講和の構想に賛意を示した。朝鮮戦争勃発後の米国の対日関心は、軍備のない日本が独立国となった後、いかに自国・米国を指導力とする自由主義世界へ寄与・貢献できるのか、また、動乱のアジアにおいて軍備のない自主国家をいかに維持するか、という矛盾にみちた問題の解決方向を見出だすことにあった。

 その方向を示したのが、ダレスが日本政府との会談に際し明らかにした講和7原則である。
(1)参加国の資格、
(2)国際連合への加盟、
(3)領土問題の処置、
(4)独立後の日本の安全保障、
(5)通商条約の締結並びに多数国の同条約への加入、
(6)日本への請求権の放棄、
(7)請求権または賠償の紛争についての国際司法裁判所の処理などの諸事項に関するもので、
日本政府の予期していたものよりはるかに寛大であった。
これに対する日本側の要望は、
(1)占領中の改革を平和条約で恒久化しないこと、
(2)賠償については日本に外貨負担を課さぬため、役務賠償を原則とすること、
(3)戦犯については、これ以上、新たな訴追を行わないこと、
などであった。

そして、この7原則の線にそって、対日講和条約と日米安保条約の2本立てからなる、サンフランシスコ体制の骨子ができあがった。
 ダレスは、その後、フィリピンや英連邦諸国の厳しい対日見解の調整につとめ、ソ連その他(東側諸国)の反対意見にもかかわらず対日講和条約の草案をまとめ、トルーマン大統領の賛成をえて、3カ月後の26年4月16日に来日し、この草案を示した。
 日本政府も、与党の自由党や民主党などの保守・中道政党や財界の支持を得て、全面講和を非とし、多数講和(政府は単独講和を締結国の数から、こう呼んだ)を是とする吉田首相の意向を伝える。

なお、社会党、日本共産党などの革新政党、日本労働組合総評議会(総評)などの労働組合、文化人グループなどは非武装、中立の立場から、例え時間がかかっても社会主義諸国も含め全面講和を行うべきと主張した。(1950年9月、朝日新聞実施の世論調査では、全面講和支持21.4%、単独講和支持45.6%、わからない33.0%となっている)

 同年5月9日、吉田首相はダレスとの会談の結果を国会に報告、その際にダレス特使の前回日本訪問以来、わが国の一般情勢、特に国民の間に早期講和に対する強い希望が起こってきたこと、また、米国政府の寛大にして公正なる講和方針に感謝しているとさえ付言している。

 このような経過をたどって、1951年(昭和26年)9月4日のサンフランシスコ会議開催の運びとなる。そして、今日もなお日本がその支配下から完全に脱却していないサンフランシスコ体制(講和条約)が成立したのである。

(2)サンフランシスコ講和会議

 米国政府から、サンフランシスコ講和会議への参加を求める正式招請状が日本政府に届いたのは、1951年7月20日である。政府は24日付で、これを受託する旨の回答を発した。そして、吉田首相自身が首席全権として出席する方針を決めるとともに、全権団は挙国一致の構成とするべく、閣僚から池田勇人蔵相、衆議院から自由党の星島二郎(にろう)、国民民主党の苫米地義三、参議院から緑風会の徳川宗敬、日銀総裁の一万田尚登の参加を得たが、当然のことながら、社会主義国家を含めた全面講和を主張している社会党の参加は残念なことに得られなかった。

 平和条約調印会議はサンフランシスコ・オペラハウスを会場に、同年9月4日から8日まで開催された。ここは6年前(1945年)国際連合創立総会が開かれ、連合憲章の生まれたゆかりの場所である。参加国は52カ国、議事は米国国務長官アチソン議長のもとで進められた。冒頭のトルーマン大統領の名文句が歴史に残されているが、ここでは割愛し、北海道・郷土にとってもっとも身近な北方領土について、ソ連の主張、それにかかわる吉田首席全権の演説について記述したい。

 ソ連は北方領土問題について、日本の侵略主義を非難攻撃し、南樺太や千島列島までが、日本の侵略を被ったごとき意味を含めてこれらの領域に対し、我が国(ソ連)が領土権を有することは議論の余地なしとして、条約文の修正を要求した。

 9月7日、各国全権の演説終了後、最後に吉田首席全権の受諾演説が行われた。

その演説のもっとも重要な箇所は、ソ連その他から修正要求のあった領土の処分の問題に関する部分で、次のようなものであった。  
『北方領土に関する吉田茂首席全権の演説』
 奄美大島、琉球諸島、小笠原群島、その他平和条約第三条によって、国際連合の信託統治のもとにおかるることあるべき北緯二九度以南の諸島の主権が、日本に残されるという米全権及び英全権の発言を、私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。私は、世界、特にアジアの平和と安定が速やかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本国の行政のもとにもどることを期待するものであります。千島列島並びに南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉(えとろふ)・国後(くなしり)両島が日本領土であることについては、帝政ロシアも何ら異議を差しはさまなかったものであります。ただウルッブ以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人の混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領として、その代償として千島諸島は日本領とすることに話し合いをつけたものであります。名は代償でありますが、実は樺太南部を譲渡して交渉の妥協をはかったものであります。その後、樺太南部は一九〇五年九月五日、ルーズベルト米合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で、日本領土となったものであります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍によって占領されたまでであります

 このような北方領土問題に関する克明な反駁的説明にもかかわらず、ついにソ連の了解が得られなかった。ただ単に領土問題だけではなく、冷戦下で、沖縄や本土に米軍基地が存在する以上、ソ連が戦略的均衡を確保する時代であるならばともかく、今日もなお未解決な理由は理解ができない。

 それはともかくとして、吉田全権の受諾演説をもって各国全権全部の演説は終了した。そして、翌日午後の調印式において48カ国80名の各国全権の調印を行ったが、ソ連・ポーランド・チェコの3国は条約の調印を拒否し、インド・ビルマ・ユーゴは会議に不参加を表明した。

 最後に日本全権団の調印が行われた。昭和26年9月8日午前11時44分のことである。  この、サンフランシスコ平和条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効、連合国の日本占領は終り、日本は主権を回復し、自由主義陣営の一員として国際社会に復帰することとなった。

『サンフランシスコ平和条約の要点』
 1951(昭和26)年9月8日、日本と48国との間に調印、全権は首相吉田茂、11月28日批准。前文と7章27条より成る膨大なものなので、まずは各章の内容を簡単に示すこととする。〈 〉は、その章に含まれる箇条を示す。
第一章 平和〈一条〉戦争状態の終結と日本の主権の承認
>
第二章 領域〈一~四条〉第二条で領土権の放棄、第三条で信託統治、第四条で日本の財産の処理を規定する。第二条で領土権を放棄したのは、朝鮮、台湾と澎湖諸島、千島と樺太南半、南洋委任統治地、南極、新南諸島と西沙諸島であった。
第三章 安全〈五~六条〉第五条で国連の集団保障と自衛権の承認、第六条で占領の終了(条約発効後九〇日以内)を定める。

第四章 政治及び経済条項〈七~一三条〉日本と外国との条約の効力、漁業協定、中国における権益放棄、戦犯処罰、通商条約締
結、国際民間航空などの事項を定める。

第五章 請求権及び財産〈一四~二一条〉日本の賠償支払と在外財産の処分、連合国財産の返還、裁判の再審査、戦前からの債務
の責任、戦争請求権の放棄、中国・朝鮮の受益権など。

第六章 紛争の解決〈二二条〉国際司法裁判所に付託する。

第七章 最終条項〈二三~二七条〉批准の手続きと効力発生、連合国の定義、この条約の署名国でない国との平和条約締結、条約文の保管などについて定める。

なお、次の重要条項(条文)につい全文を記し、若干の解説を加えることとする。

第一条(a註一)日本国と連合国との戦争状態は、第二三条(註二)の定めるところにより、この条約が日本国と当該連合国との間に
効力を生ずる日(註三)に終了する。

註一 (b)では日本の完全な主権を承認している。
註二 第七章 最終条項の批准規定。
註三 一九五二年(昭和二七年)四月二八日に発効した。
第三条 日本国は北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む 註一)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む 註二)、並びに沖の鳥島及び南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度(註三)の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで(註四)、合衆国は、領水(註五)を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。    註一 現在の沖縄県・一九七二年(昭和四七年)五月返還。    註二 現在の東京都小笠原村・一九六八年(昭和四三年)六月返還。    註三 国際連盟時代の委任統治地域と第二次大戦の日・伊から分離された地域との行政を国連が一定の国に信託する制度。    註四 アメリカは結局このような提案をしなかった。    註五 領海・当時は三カイリであった。
>第六条(a 註一)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九〇日以内に、日本国から撤退しなければならない。(註二)    註一 第三章 安全(b)は日本軍兵士の復員、(c)は占領軍使用の日本財産の返還を定める。    註二 省略部分で、『日米安保条約』による米軍駐留を認めている。(後述)

(3)日米安全保障条約(安保条約)

講和条約といえば日本人はすぐ安保条約を想起する。講和条約と安保条約の関係については、講和条約第3章(安全)において、わずか次の2カ条を規定しているにすぎない。第一は、『国連憲章』との関係である。

第5条(c)に、連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する

 この規定からすれば、日本の安全保障は国連憲章の枠内において考案されたものと考えられる。事実としても、朝鮮事変(戦争)勃発の翌年の年頭のメッセージにおいて、マッカーサー元帥は国際的無法状態に対しては、日本国憲法の理想も自己保全の原則に道を譲らねばならない。国連の枠内で力を持つことが義務となると声明した。おそらくマ元帥も日本国民も、なお国連による日本の安全保障に希望を繋いでいたのである。しかし、朝鮮戦争によって国連の機能がまひ状態におかされている時、ダレス・吉田会談を通じて国連依存方針に代わるべきものが考案されねばならない。まして朝鮮戦争の続くかぎり、日本は国連軍の軍事基地として手放せない。したがって対日講和の条件として、安保条約が締結される以外に方途はないの合意が成立した。

 そのうえ、米国には国連憲章第51条の規定に従って、他国と集団的安全保障条約を締結する場合には、条約の相手国が経済的かつ効果的な自助及び相互援助のできる場合に限るとのバンデンバーグ決議(1948年6月11日上院)なるものがある。ところが、日本は憲法によってこうした相互援助のための軍事力を持つことが制限されており、特に占領下の当時においては、全く自衛力をもっていなかった。そうしたときに、日本の防衛と安全のための現実的な方策としては、日本を基地とする米軍の駐屯を認める以外に方法はない。

 そこで、第二に、『講和条約』に、特に次の規定を設けた。

第6条(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、1または2以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される2国間若しくは多数国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない
 

この但書きを受けて日米安保条約は講和条約との関係を保っている。

 そして、その理由を、安保条約は次のごとく積極的に述べている。その前文において、暫定的措置としてと規定され、特に条約の有効期限を明記しておらず、日本は直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待するとある。  安保条約の本文そのものは5カ条からなる比較的簡単なものである。以下、その条文。

   第1条には、
平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、…中略… 外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる
 と、駐留軍の目的及び性格を明らかにしている。
   第2条は、
第1条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは機能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第3国に許与しないと、駐留軍の権利を明示し、
さらに、第3条において、
アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する……。
 と、米軍の日本駐留に関しての駐兵数、軍事基地、裁判権の帰属、課税の方法、日本側の財政負担、便益供与その他細目はそれによることとした。

 すなわち、日米安全保障条約は講和条約と不離一体の関係において成立し、国際的には日米関係の枢軸となり、国内的には幾多の対立と紛糾の原因ともなった。

(4)国際連合への加盟

サンフランシスコ平和条約の発効後、日本が国際社会へ復帰するためには国際連合への加盟が認められることであった。

 国際連合は1945年(昭和20年)10月、新しい国際平和機構として発足した。加盟国は51カ国で、もちろん敗戦国である日本やドイツは参加していなかった。国際連合の中心機関は常設の安全保障理事会で、第2次世界大戦において連合国側の中心となった、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国)の5カ国がその常任理事国となり、同理事会の決定は、常任理事国の一致を必要とした。

 日本は1952年(昭和27年)サンフランシスコ平和条約の発効によって国際社会へ復帰し、同年、国際連合への加盟を申請したが、社会主義諸国とはまだ国交をもっていなかったため,ソ連の反対で日本の加盟は認められなかった。しかし、1956年(昭和31年)の、日ソ共同宣言により両国間の国交回復が実現し、ソ連が日本の国連加盟を支持することを約したので、1956年12月18日、国際連合総会は満場一致で日本の加盟を承認した。講和条約の発効・国際連合加盟により、ようやく、国際社会への復帰を果たしたのである。敗戦・占領から11年目のことである。

日ソ共同宣言

1954年(昭和29年)、吉田内閣から鳩山内閣へ交代したのを機とし、日ソ交渉を開始。この交渉は(サンフランシスコ講和会議で双方の主張した)領土問題で難航し、平和条約にまでに至らなかったが、1956年(昭和31年)1月19日、鳩山一郎全権(首相)は、戦争状態の終結・平和及び友好善隣関係を主軸とする10項目から成る、日ソ共同宣言を、モスクワで調印し、日ソ国交正常化へ1歩踏み出した。

〈以下に、1・9項についての全文を記す〉

一、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日(一九五六年十二月十二日)に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。
九、日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。

 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする(註)。

註 1960年(昭和35年)1月、日米新安保条約が調印されると、ソ連は、米軍の日本撤退と日ソ平和条約調印後に返還すると通告してきた。

〈各項の要点〉
 1、日ソの戦争状態は終了し、平和友好関係が回復される。  2、日ソの外交・領事関係が回復され、大使の交換をする。  3、国際連合憲章の諸原則特に平和原則・内政干渉しないことを守る。  4、ソ連は日本の国際連合加盟の申請を支持する。  5、日本人戦犯をソ連は釈放し、日本へ送還する。  6、ソ連は対日賠償請求権を放棄し、日本も請求権を放棄する。  7、貿易・海運など通商関係の条約・協定を締結する。  8、すでに結ばれた日ソの漁業条約は発効する。  9、正常外交関係の回復後、平和条約締結交渉をつづける。    条約締結後、ソ連は歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す。  10、批准書交換は東京で行い、その日に共同宣言を発効する。
       なお以下に、領土復帰と国際社会への復帰に関連する主な事項について列挙する。
       
      ・日本領土の復帰
      1951年(昭和26年)北海道・本州・九州・四国・対馬・種子島
      1953年(昭和28年)奄美諸島
      1968年(昭和43年)小笠原諸島・硫黄諸島
      1972年(昭和47年)沖縄・琉球諸島
      ・復帰未定 北方地域、色丹島・歯舞諸島・国後島・択捉島

      沖縄の祖国復帰
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       1945年(昭和20年)4月、米軍が沖縄本島に上陸してから3カ月にも及ぶ激しい戦闘で、沖縄県民は多大の犠牲を強いられた。県民の死者は日本軍の死者10万人をはるかにこえ20万人近くに達するといわれている。
       1952年(昭和27年)4月28日は、日本の独立が実現した日であった。しかし、沖縄県民にとっては祖国から切り離された屈辱の日であり、米国の軍政下にあって、政治の自由もなく、米軍の土地収用・人権侵害に苦難の日々を送ることとなったのである。
       しかし、1960年代における『日米新時代』の到来とともに沖縄の祖国復帰運動がようやく本格的になった。県民は1960年(昭和35年)に沖縄県祖国復帰協議会を結成して復帰運動を盛りあげ、政府は米国との間に沖縄返還交渉を進めた。
       1968年(昭和43年)米民政府は琉球政府主席の公選を認め、翌69年に佐藤・ニクソンの日米共同声明で、1972年・核抜き・本土なみの返還が約束された。
       こうして、1971年(昭和46年)6月、沖縄返還協定が調印され、翌72年5月15日、沖縄の祖国復帰が実現した。しかし、米軍基地は依然として多く存在し、基地を巡る諸々の問題が生じている現状である。
       
      ・国際復帰関連
      1949年10月 1日 中華人民共和国成立
      1950年 6月 6日 日本共産党中央委員追放
      1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発
       〃  7月28日 GHQ、警察予備隊創設を指令
      1951年 4月11日 米政府GHQ最高司令官マッカーサー解任
       〃  4月18日 米国務省顧問ダレス・吉田首相会談
       〃  9月 8日 サンフランシスコ平和条約・安保条約調印
      1952年 2月28日 日米行政協定調印
       〃  4月28日 サンフランシスコ平和条約・安保条約発効
       〃  4月28日 日華平和条約(日台条約)調印
       〃  6月 9日 日印平和条約調印
      1953年 7月27日 朝鮮休戦協定調印
      1954年 3月 8日 M・S・A(相互安全保障)協定調印
       〃  7月 1日 防衛庁・自衛隊発足
      1956年10月19日 日ソ共同宣言
       〃 12月18日 国連、日本の加盟を承認