賍物牙保
棄却
本件上告を棄却する。
その判決をした裁判所の公判廷における被告人の自白は、憲法第三八条第三項にいわゆる「本人の自白」にあたらない。
【判決理由】
弁護人田中幾三郎の上告趣意について。
-
原判決が、被告人の原審公判廷における自白を唯一の証拠として、本件贓物牙保の事実を認定したことは、所論のとおりであるけれども、右のごとき自白は、憲法第三八条第三項にいわゆる自白にあたらないことは、当裁判所の判例として示すところである。(昭和二三年七月二九日、同年(れ)第一六八号大法廷判決)
- よつて、論旨は理由がない。以上の理由により旧刑訴法第四四六条に従い主文のとおり判決する。
- 右は真野、斎藤各裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷、穂積各裁判官の少数意見を除き裁判官の一致した意見である。
- 斎藤裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷各裁判官の少数意見については前掲大法廷判決に記載のとおりである。
穂積裁判官の少数意見は次のとおりである。
- 憲法第38条第3項の「本人の自白」には公判廷における自白を含まない、というのが本裁判所の判例になつてるのであつて、その判決理由は昭和23年(れ)第168号同年7月29日言渡大法廷判決に詳細に説き示されているが、右の判決については塚崎、沢田、井上、栗山、小谷諸判事の少数意見があつたのであつて、右判決にそれぞれ記載されている。
- 右の判決は私の就任前であつて、その後同趣旨の判例が繰り返されたのであるが、
- 今昭和二三年(れ)一五四四号事件の判決に当り、
- 前判決の判決理由補足意見及び少数意見を対照検討して、私は少数意見に参加すべく決意したのである。
- その結論の理由は大体において前記各判事の意見と符合するから、こゝにそれを援用するが、
- しかし、私の結論はたまたま本事件に遭つて初めて思いついたものではなく、実は私のかねての持論だつたのである。
- 12年前、すなわち昭和12年8月20日、私はいわゆるA事件の特別弁護人として、東京地方裁判所の刑事法廷においてこの議論を主張したのであつて、
- その際は、被告人がわの弁護人としての議論であつたが、私としては被告人のためにする我田引水論でない学者としての純理論のつもりであつた。
- 又、A事件における当面の問題は検事及予審判事に対する自白についてであつたが、
- 私は、公判廷における自白をも含めて、自白そのものの問題として議論したのである。
- 私はまず、ハンス・グロースの「犯罪心理学」に
『刑事家は自白をもつて最終と為せども、裁判官はさらにそこより出発せざるべからず。』『自白は証拠の手段にして証拠にはあらず。』
とあるのから、議論を起して、
- ステフアンの「証拠法論」(Stephen,Digest of Law of Evidence,12,ed,1936,p.26)、
- ウイリアムスの「自白の現代的考察」(Ernest E.Williams,The Modern View of Confessions,Law
Quarterly Rerview,vol.30,p.299)等の文献における、同趣旨の議論を指適したが、
-
私が特に力を入れて詳細に引用したのは、A事件起訴当時の検事総長であり引続き司法大臣になつた法学博士林頼三郎氏の著書「刑事訴訟法講義」総則下巻一頁以下であつた。
- 右は、大正11年公布の当時における新刑事訴訟法の註釈書であつて、翌大正12年の出版であつたが、
- 林博士はその書中に、
『 被告人の刑事訴訟法上の地位に付ては幾多の変遷あり、
- 其の第一期、は単に事実上取調の物体と認むるのみにして、何等法律上の地位を認めず、
- 第二期は、被告人を証拠方法と認め、被告人を追究推訊し、以て被告人の口より証拠を得んことを期したり、
-
第三期は、被告人に証拠方法たる地位と訴訟当事者たる地位とを認め、一方に於ては被告人を証拠を得るの手段に供することを認めて、此の目的を以て被告人を訊問し、被告人に真実を供述するの義務を認め、他方に於ては被告人に防禦権を認めて、其の権利利益を保護せしむる為訴訟行為を為すことを得せしむ、而して同地位中、漸次訴訟当事者たる地位に重きを置き、証拠方法たる地位は僅に認めらるゝに至る、
-
第四期は、被告人に訴訟当事者たる地位のみを認めて、証拠方法たる地位を認めず、即ち被告人訊問は公訴事実に対する弁解を為さしむるを目的とし、証拠を得るの目的を以て陳述を求むることを為さざるものとす。
之を被告人の地位に対する進化史の大要とす。
而して、旧法に於ては、被告人に証拠方法たる地位と訴訟当事者たる地位とを認めたりと雖、本法は専ら、訴訟当事者たる地位を認め、証拠方法たる地位は之を認めざることと為し、被告人の地位に対し一大革新を施したり 』
と論じたのである。
- しかし、林博士のこの議論は、当時にあつては、著名刑事訴訟法学者中、ほとんど唯一の少数説だつたのであつて、
- 他のすべての学者は、被告人は訴訟当事者にして同時に証拠方法なり、と論じた。
- たとえば、小野清一郎教授著「刑事訴訟法講義」(三〇二頁)には、直接に林博士の説を指摘し、それが現行法論として採るべからざる旨を力説してある。
- これに対して私は、林博士の議論は現行制度の説明としては行き過ぎているとしても、正に刑事訴訟法の進むべき方向を指し示すものである、と論じたのである。
- そして私のこの予言が適中したと申しては過言かも知れぬが、今回の新刑事訴訟法第319条第2項は、果然「公判廷における自白であると否とを問わず」と明言するに至つたのである。
- そして、私は元来がその意見なのであるから、右の新規定は憲法第38条第3項及び刑事訴訟応急措置法第一〇条第三項の変更とは考えずして、その解釈と見るのであり、従つて、新刑事訴訟法施行前の事件についても、公判廷における本人の自白を唯一の証拠とすべきでないと信ずるのである。
- なお、法律の解釈が文字解釈のみを事とすべきでないことはもちろんであるが、憲法民法刑法というごとき、国民直接の行為規範たる根本法にあつては、出来得る限り読んで字のごとく解釈すること、すなわち軽々に拡張解釈又は縮小解釈をしないことが、国民の法律生活を安定せしめるゆえんであるから、その意味からも、憲法の文面には無条件に「自白」とあるがそれは公判廷における自白を除外する意味である、というごとき縮小解釈は、そう解釈せねばならぬ特に有力な理由のない限り、避けたいものと考える、ということをも申し添えたい。
- 多数意見を補足する意味において、いささか穂積裁判官の少数意見について考えてみたい。
- 同裁判官は、「その結論の理由は大体において前記各判事の意見と符合するから、ここにそれを援用する」と言つて、互に矛盾をも含み異つた内容をもつ各意見を鵜飲みに援用されただけでは、真の理拠がどこにあるか、全く不明であることは甚だ物足りなく感じた。
- さらについで物語つておられるところは、相当言葉数も多く博引ではあるが盛られている中味は乏しく、しかもその真意はやや捕捉し難い。
- ハンスグロースに従つて「自白は証拠の手段にして証拠にはあらず」とするのであれば、それは旧刑訴法にも新刑訴法にも憲法にも反することは、言うまでもない。
- 自白が、処罰の必須要件であつた時代から、自白強制の弊を除くため自白を要件としない時代に移り、さらに自白の証拠価値としての評価が低下して来たのは歴史の実証するところであるが、「証拠にはあらず」として軽く排斥し去るわけには仲々ゆくまい。
- 米国の各州でも、現に公判廷における自白と類似の有罪答弁だけで80パーセントないし90パーセント位の事件が、処罰されている実情を直視するがよい。
- そして、穂積裁判官が特に力を入れて引用したと自らいわれる林氏の著書の中にも、「刑事訴訟の大眼目は実質的真実の発見に在り。而して真実を知る者は被告人を第一とするを以て、被告人にしてこれを告白することは、刑事訴訟の大眼目に適応するものなり」と述べている。
- 林氏が、被告人に証拠方法たる地位を認めないというのは、被告人は供述の義務がなくすなわち駄秘の権利があるという程度の意義を有するに過ぎない。
- だから、林氏は、「被告人は証拠方法として認められざること前述の如しと雖も、被告人が訊問に対して為したる供述及び之を記載したる書類は証拠と為るものなり」と言い、
- また、はつきりと「証拠方法たらずとの故を以て、其の供述が証拠と為らざるものと誤解すること勿らんことを要す」とまで断言している。
- それはさておき、最後にしかしながら実は私をして卑見を述べしむる動機となつた点は、同裁判官が
「憲法民法刑法というごとき国民直接の行為規範たる根本法にあつては、出来得る限り読んで字のごとく解釈する」をよいとしている法律解釈の根本問題についてである。そして、これはわれわれ裁判官にとつて日常の行住坐臥において最も緊要な問題であり、これを詳しく論じたら、立どころに優に一巻の書をなす程であろうが、今ここには極めて荒削りに大綱だけを述べるに止めたいと思う。
- まず、刑法の領域では、1789年のフランスの人権宣言、
- この方、一般に諸国において罪刑法定主義が行われており、或る犯罪行為に対する刑罰を法律に定めていない他の行為に科することは、これらの二つの行為の間に類似性がある場合においても許されないとされている。
- すなわち、刑罰法規の解釈に当つては、罪刑法定主義の鉄則のために、その類推適用は許されないと一般に解せられている。
- それでも、この領域においても、或る限度の自由法論の主張は常に存するのである。
- しかのみならず、この領域でも一とたび罪刑法定主義が放棄されると、刑罰法規の類推適用は、当り前のこととして行われるのである。
- その最も適切な事例は、ナチスの刑法改正に現われている。
- すなわち、1935年6月28日のナチス刑法第2条は、
「法律が処罰し得べきものと宣言した行為、又は刑法の根本精神及び健全な国民感情によれば処罰に値いする行為を犯した者は、処罰せられる。この行為に対して一定の刑法規定が直接適用せられない場合においては、この行為は、その根本精神が最もよくこれに該当する法律に従つて処罰せらる」
と規定し、独裁強化のため罪刑法定主義を一擲し刑罰法規の類推適用による法の創設を認めたのである。
- さらに、刑事訴訟法を改めて、
「健全な国民感情によれば処罰に値いする行為が、法律において処罰し得べきものと宣言されていないときは、検事は、刑法規定の根本精神が当該行為に該当するや否や、並びにこの刑法規定を類推適用することによつて正義の貫徹に資することを得るや否やを審査することを要する」(刑訴第一七〇条a)
と規定し、検事に対して刑罰法規の類推適用を審査すべき義務を課したのである。
- またさらに、
「被告人が、健全な国民感情によれば処罰を受けるに値いするが、しかも法律において処罰し得べきものと宣言されていない行為を犯したことが、公判の結果判明するときは、裁判所は、刑法規定の根本精神が当該行為に該当するや否や、並びにこの刑法規定を類推適用することによつて正義の貫徹に資することを得るや否やを審査することを要する」(刑訴第二六七条a)
と規定し、裁判所に対しても刑罰法規の類推適用を審査すべき義務を課したのである。
- かくて、刑罰法規の類推適用は、検事に対しても、裁判官に対しても義務としての一面が積極的に強調せられているのである。
- そして、さらに、
「ライヒスゲリヒトは、最高のドイツ裁判所として、法律の解釈に当つては、国政を革新することによつて生じた人生観及び法律観の変動が斟酌せられるように貢献する任務を有する」
とされたのである。
- 由来、苛政は、虎よりも猛けしと言われる。
- 人類多年の苦闘によつてかち得た貴重な罪刑法定主義の財宝は、鼻緒の切れた破れ草履のように、いともた易く打ち棄てられて、
- 「刑罰法規の根本精神」とか「正義の貫徹」とかいう、大きいがしかし甚だ空漠たる、しかも、実際の適用に当つては何れにでも決め得るような観念で、ナチ一色にすべては塗りつぶされていつたのである。
- 独裁の弊、ここに到つて極まると言うべきではないか。
- ともかく、かかる事例に徴しても、刑事の領域において一般に類推適用が許されないのは、罪刑法定主義の堅牢な城壁があるからに過ぎないことが、知られるのである。
- これに反して他の法律の領域においては、
- それが「国民直接の行為規範たる根本法」であろうとなかろうと、否むしろ根本法であればある程、
- 法文の字句の末に捉われることなく、(それは法律の解釈に理由なく字句を無視又は軽視してよいという意味ではない)、深い思索と広い実証に基ずく真の合理的な法律解釈が必要とせられる。
- >
「法律は言葉ではなく実体である。法律は単なる形式の法理において発見会得せらるゝものではなく、その真の実質の探究にいて把握理解せらるべきものである。そして、法制全体を広く体系的に究明することによつて、はじめて事態の実情に合致する正しき法律解釈は生れ出ずるのである」
。
- これは、昨夏、私が起草した富山県知事当選訴訟事件の判決(昭和二三年(オ)第九号同年九月二四日大法廷判決)の冒頭において、述べておいた一節である。
- 民法の分野においては、自由法論が広く最も活撥に展開せられ、
- 固定した法文を流動変転する社会情勢に適合せしめるためには、法の類推解釈ないし合理的解釈が必要とせられ、かつ日常普ねく用いられていることは、何も今更多言を費すを必要としない。
- さて次に、最も重要なのは国の最高法規である憲法の解釈の問題である。
- >そして、これこそは実に最高裁判所の使命の中核に触れるかりそめにできない切実な問題である。
- 同裁判官は、憲法は出来得る限り読んで字のごとく解釈するがよいと主張する。
- これは、あるいは俗耳には入り易い、たとえば甘い薬のようなものであるかもしれない。
- しかし、これは決して良薬ではあり得ないと私は信ずる。
- 憲法は、決して固定したものではなく、一定不動のものでもない。
- それは、常に時代と社会情勢に応じて変化しつゝある、高度の柔軟性と弾力性をもつた道具であり、又しかあらねばならない。
- だから、憲法を形式的・文字的・抽象論理的・静態的に解釈するは甚だ危険である。
- すべからく歴史的・社会的・現実的・動態的・価値論的に把握して解釈すべきものである。
- 米国憲法が、国情の幾多の変転にもかかわらず、長きに亘り今日においてなお脈々として活きて行われているのは、かかる実証的な解釈を主調とする判例憲法に負うところが、甚だ多いのである。
- されば、つきつめると、裁判官の智識・経験・教養・能力・才幹・識見・感覚・等々の統一した総合、言いかえれば裁判官その人の法律観・人生観・世界観・社会哲学をとおした価値判断によつてのみ、現実に憲法解釈は行われていくべきものである。
- *オリバー・ウエンデル・ホームズが、深い学識と長い司法的経験を集約帰納して、憲法の解釈は、結局直観・インテユイシヨン〔intuition(直感)〕であると喝破しているのは、まことに達人の至言であり、げに世に類なき偉大な法曹の偉大な言葉といわねばならない。(参考:オリバー・ウエンデル・ホームズ)
- 憲法は、その文字を読むことによつて会得されるものではなく、実に人生を読むことによつてはじめて真に体得されるものではあるまいか。
- 思わず長談義となつたが、要するに私は、罪刑法定主義の行われる刑法は別として、憲法・民法の
ごとき根本法を根本法たるが故に、出来る限り読んで字のごとく解釈すべしとする見解には、到底賛同することができない。
- 私は却つて憲法・民法のごとき根本法は根本法たるが故に一層文字の末に捉われることなく、前述したような厳しい実証的な態度をもつて解釈をするのが正当でありかつ必要であると信ずる。
検察官 岡本梅次郎関与
昭和二四年四月二〇日
最高裁判所大法廷
裁判長裁判官 塚 崎 直 義
裁判官 長 谷 川 太 一 郎
裁判官 沢 田 竹 治 郎
裁判官 霜 山 精 一
裁判官 栗 山 茂
裁判官 真 野 毅
裁判官 小 谷 勝 重
裁判官 島 保
裁判官 斎 藤 悠 輔
裁判官 藤 田 八 郎
裁判官 岩 松 三 郎
裁判官 河 村 又 介
裁判官 穂 積 重 遠
棄却
本件上告を棄却する。
その判決をした裁判所の公判廷における被告人の自白は、憲法第三八条第三項にいわゆる「本人の自白」にあたらない。
弁護人田中幾三郎の上告趣意について。
- 原判決が、被告人の原審公判廷における自白を唯一の証拠として、本件贓物牙保の事実を認定したことは、所論のとおりであるけれども、右のごとき自白は、憲法第三八条第三項にいわゆる自白にあたらないことは、当裁判所の判例として示すところである。(昭和二三年七月二九日、同年(れ)第一六八号大法廷判決)
- よつて、論旨は理由がない。以上の理由により旧刑訴法第四四六条に従い主文のとおり判決する。
- 右は真野、斎藤各裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷、穂積各裁判官の少数意見を除き裁判官の一致した意見である。
- 斎藤裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷各裁判官の少数意見については前掲大法廷判決に記載のとおりである。
穂積裁判官の少数意見は次のとおりである。
- 憲法第38条第3項の「本人の自白」には公判廷における自白を含まない、というのが本裁判所の判例になつてるのであつて、その判決理由は昭和23年(れ)第168号同年7月29日言渡大法廷判決に詳細に説き示されているが、右の判決については塚崎、沢田、井上、栗山、小谷諸判事の少数意見があつたのであつて、右判決にそれぞれ記載されている。
- 右の判決は私の就任前であつて、その後同趣旨の判例が繰り返されたのであるが、
- 今昭和二三年(れ)一五四四号事件の判決に当り、
- 前判決の判決理由補足意見及び少数意見を対照検討して、私は少数意見に参加すべく決意したのである。
- その結論の理由は大体において前記各判事の意見と符合するから、こゝにそれを援用するが、
- しかし、私の結論はたまたま本事件に遭つて初めて思いついたものではなく、実は私のかねての持論だつたのである。
- 12年前、すなわち昭和12年8月20日、私はいわゆるA事件の特別弁護人として、東京地方裁判所の刑事法廷においてこの議論を主張したのであつて、
- その際は、被告人がわの弁護人としての議論であつたが、私としては被告人のためにする我田引水論でない学者としての純理論のつもりであつた。
- 又、A事件における当面の問題は検事及予審判事に対する自白についてであつたが、
- 私は、公判廷における自白をも含めて、自白そのものの問題として議論したのである。
- 私はまず、ハンス・グロースの「犯罪心理学」に
『刑事家は自白をもつて最終と為せども、裁判官はさらにそこより出発せざるべからず。』『自白は証拠の手段にして証拠にはあらず。』
とあるのから、議論を起して、 - ステフアンの「証拠法論」(Stephen,Digest of Law of Evidence,12,ed,1936,p.26)、
- ウイリアムスの「自白の現代的考察」(Ernest E.Williams,The Modern View of Confessions,Law Quarterly Rerview,vol.30,p.299)等の文献における、同趣旨の議論を指適したが、
- 私が特に力を入れて詳細に引用したのは、A事件起訴当時の検事総長であり引続き司法大臣になつた法学博士林頼三郎氏の著書「刑事訴訟法講義」総則下巻一頁以下であつた。
- 右は、大正11年公布の当時における新刑事訴訟法の註釈書であつて、翌大正12年の出版であつたが、
- 林博士はその書中に、
『 被告人の刑事訴訟法上の地位に付ては幾多の変遷あり、
と論じたのである。- 其の第一期、は単に事実上取調の物体と認むるのみにして、何等法律上の地位を認めず、
- 第二期は、被告人を証拠方法と認め、被告人を追究推訊し、以て被告人の口より証拠を得んことを期したり、
- 第三期は、被告人に証拠方法たる地位と訴訟当事者たる地位とを認め、一方に於ては被告人を証拠を得るの手段に供することを認めて、此の目的を以て被告人を訊問し、被告人に真実を供述するの義務を認め、他方に於ては被告人に防禦権を認めて、其の権利利益を保護せしむる為訴訟行為を為すことを得せしむ、而して同地位中、漸次訴訟当事者たる地位に重きを置き、証拠方法たる地位は僅に認めらるゝに至る、
- 第四期は、被告人に訴訟当事者たる地位のみを認めて、証拠方法たる地位を認めず、即ち被告人訊問は公訴事実に対する弁解を為さしむるを目的とし、証拠を得るの目的を以て陳述を求むることを為さざるものとす。
之を被告人の地位に対する進化史の大要とす。
而して、旧法に於ては、被告人に証拠方法たる地位と訴訟当事者たる地位とを認めたりと雖、本法は専ら、訴訟当事者たる地位を認め、証拠方法たる地位は之を認めざることと為し、被告人の地位に対し一大革新を施したり 』
- しかし、林博士のこの議論は、当時にあつては、著名刑事訴訟法学者中、ほとんど唯一の少数説だつたのであつて、
- 他のすべての学者は、被告人は訴訟当事者にして同時に証拠方法なり、と論じた。
- たとえば、小野清一郎教授著「刑事訴訟法講義」(三〇二頁)には、直接に林博士の説を指摘し、それが現行法論として採るべからざる旨を力説してある。
- これに対して私は、林博士の議論は現行制度の説明としては行き過ぎているとしても、正に刑事訴訟法の進むべき方向を指し示すものである、と論じたのである。
- そして私のこの予言が適中したと申しては過言かも知れぬが、今回の新刑事訴訟法第319条第2項は、果然「公判廷における自白であると否とを問わず」と明言するに至つたのである。
- そして、私は元来がその意見なのであるから、右の新規定は憲法第38条第3項及び刑事訴訟応急措置法第一〇条第三項の変更とは考えずして、その解釈と見るのであり、従つて、新刑事訴訟法施行前の事件についても、公判廷における本人の自白を唯一の証拠とすべきでないと信ずるのである。
- なお、法律の解釈が文字解釈のみを事とすべきでないことはもちろんであるが、憲法民法刑法というごとき、国民直接の行為規範たる根本法にあつては、出来得る限り読んで字のごとく解釈すること、すなわち軽々に拡張解釈又は縮小解釈をしないことが、国民の法律生活を安定せしめるゆえんであるから、その意味からも、憲法の文面には無条件に「自白」とあるがそれは公判廷における自白を除外する意味である、というごとき縮小解釈は、そう解釈せねばならぬ特に有力な理由のない限り、避けたいものと考える、ということをも申し添えたい。
- 多数意見を補足する意味において、いささか穂積裁判官の少数意見について考えてみたい。
- 同裁判官は、「その結論の理由は大体において前記各判事の意見と符合するから、ここにそれを援用する」と言つて、互に矛盾をも含み異つた内容をもつ各意見を鵜飲みに援用されただけでは、真の理拠がどこにあるか、全く不明であることは甚だ物足りなく感じた。
- さらについで物語つておられるところは、相当言葉数も多く博引ではあるが盛られている中味は乏しく、しかもその真意はやや捕捉し難い。
- ハンスグロースに従つて「自白は証拠の手段にして証拠にはあらず」とするのであれば、それは旧刑訴法にも新刑訴法にも憲法にも反することは、言うまでもない。
- 自白が、処罰の必須要件であつた時代から、自白強制の弊を除くため自白を要件としない時代に移り、さらに自白の証拠価値としての評価が低下して来たのは歴史の実証するところであるが、「証拠にはあらず」として軽く排斥し去るわけには仲々ゆくまい。
- 米国の各州でも、現に公判廷における自白と類似の有罪答弁だけで80パーセントないし90パーセント位の事件が、処罰されている実情を直視するがよい。
- そして、穂積裁判官が特に力を入れて引用したと自らいわれる林氏の著書の中にも、「刑事訴訟の大眼目は実質的真実の発見に在り。而して真実を知る者は被告人を第一とするを以て、被告人にしてこれを告白することは、刑事訴訟の大眼目に適応するものなり」と述べている。
- 林氏が、被告人に証拠方法たる地位を認めないというのは、被告人は供述の義務がなくすなわち駄秘の権利があるという程度の意義を有するに過ぎない。
- だから、林氏は、「被告人は証拠方法として認められざること前述の如しと雖も、被告人が訊問に対して為したる供述及び之を記載したる書類は証拠と為るものなり」と言い、
- また、はつきりと「証拠方法たらずとの故を以て、其の供述が証拠と為らざるものと誤解すること勿らんことを要す」とまで断言している。
- それはさておき、最後にしかしながら実は私をして卑見を述べしむる動機となつた点は、同裁判官が 「憲法民法刑法というごとき国民直接の行為規範たる根本法にあつては、出来得る限り読んで字のごとく解釈する」をよいとしている法律解釈の根本問題についてである。そして、これはわれわれ裁判官にとつて日常の行住坐臥において最も緊要な問題であり、これを詳しく論じたら、立どころに優に一巻の書をなす程であろうが、今ここには極めて荒削りに大綱だけを述べるに止めたいと思う。
- まず、刑法の領域では、1789年のフランスの人権宣言、
- この方、一般に諸国において罪刑法定主義が行われており、或る犯罪行為に対する刑罰を法律に定めていない他の行為に科することは、これらの二つの行為の間に類似性がある場合においても許されないとされている。
- すなわち、刑罰法規の解釈に当つては、罪刑法定主義の鉄則のために、その類推適用は許されないと一般に解せられている。
- それでも、この領域においても、或る限度の自由法論の主張は常に存するのである。
- しかのみならず、この領域でも一とたび罪刑法定主義が放棄されると、刑罰法規の類推適用は、当り前のこととして行われるのである。
- その最も適切な事例は、ナチスの刑法改正に現われている。
- すなわち、1935年6月28日のナチス刑法第2条は、
「法律が処罰し得べきものと宣言した行為、又は刑法の根本精神及び健全な国民感情によれば処罰に値いする行為を犯した者は、処罰せられる。この行為に対して一定の刑法規定が直接適用せられない場合においては、この行為は、その根本精神が最もよくこれに該当する法律に従つて処罰せらる」
と規定し、独裁強化のため罪刑法定主義を一擲し刑罰法規の類推適用による法の創設を認めたのである。 - さらに、刑事訴訟法を改めて、
「健全な国民感情によれば処罰に値いする行為が、法律において処罰し得べきものと宣言されていないときは、検事は、刑法規定の根本精神が当該行為に該当するや否や、並びにこの刑法規定を類推適用することによつて正義の貫徹に資することを得るや否やを審査することを要する」(刑訴第一七〇条a)
と規定し、検事に対して刑罰法規の類推適用を審査すべき義務を課したのである。 - またさらに、
「被告人が、健全な国民感情によれば処罰を受けるに値いするが、しかも法律において処罰し得べきものと宣言されていない行為を犯したことが、公判の結果判明するときは、裁判所は、刑法規定の根本精神が当該行為に該当するや否や、並びにこの刑法規定を類推適用することによつて正義の貫徹に資することを得るや否やを審査することを要する」(刑訴第二六七条a)
と規定し、裁判所に対しても刑罰法規の類推適用を審査すべき義務を課したのである。 - かくて、刑罰法規の類推適用は、検事に対しても、裁判官に対しても義務としての一面が積極的に強調せられているのである。
- そして、さらに、
「ライヒスゲリヒトは、最高のドイツ裁判所として、法律の解釈に当つては、国政を革新することによつて生じた人生観及び法律観の変動が斟酌せられるように貢献する任務を有する」
とされたのである。 - 由来、苛政は、虎よりも猛けしと言われる。
- 人類多年の苦闘によつてかち得た貴重な罪刑法定主義の財宝は、鼻緒の切れた破れ草履のように、いともた易く打ち棄てられて、
- 「刑罰法規の根本精神」とか「正義の貫徹」とかいう、大きいがしかし甚だ空漠たる、しかも、実際の適用に当つては何れにでも決め得るような観念で、ナチ一色にすべては塗りつぶされていつたのである。
- 独裁の弊、ここに到つて極まると言うべきではないか。
- ともかく、かかる事例に徴しても、刑事の領域において一般に類推適用が許されないのは、罪刑法定主義の堅牢な城壁があるからに過ぎないことが、知られるのである。
- これに反して他の法律の領域においては、
- それが「国民直接の行為規範たる根本法」であろうとなかろうと、否むしろ根本法であればある程、
- 法文の字句の末に捉われることなく、(それは法律の解釈に理由なく字句を無視又は軽視してよいという意味ではない)、深い思索と広い実証に基ずく真の合理的な法律解釈が必要とせられる。
- >
「法律は言葉ではなく実体である。法律は単なる形式の法理において発見会得せらるゝものではなく、その真の実質の探究にいて把握理解せらるべきものである。そして、法制全体を広く体系的に究明することによつて、はじめて事態の実情に合致する正しき法律解釈は生れ出ずるのである」
。 - これは、昨夏、私が起草した富山県知事当選訴訟事件の判決(昭和二三年(オ)第九号同年九月二四日大法廷判決)の冒頭において、述べておいた一節である。
- 民法の分野においては、自由法論が広く最も活撥に展開せられ、
- 固定した法文を流動変転する社会情勢に適合せしめるためには、法の類推解釈ないし合理的解釈が必要とせられ、かつ日常普ねく用いられていることは、何も今更多言を費すを必要としない。
- さて次に、最も重要なのは国の最高法規である憲法の解釈の問題である。
- >そして、これこそは実に最高裁判所の使命の中核に触れるかりそめにできない切実な問題である。
- 同裁判官は、憲法は出来得る限り読んで字のごとく解釈するがよいと主張する。
- これは、あるいは俗耳には入り易い、たとえば甘い薬のようなものであるかもしれない。
- しかし、これは決して良薬ではあり得ないと私は信ずる。
- 憲法は、決して固定したものではなく、一定不動のものでもない。
- それは、常に時代と社会情勢に応じて変化しつゝある、高度の柔軟性と弾力性をもつた道具であり、又しかあらねばならない。
- だから、憲法を形式的・文字的・抽象論理的・静態的に解釈するは甚だ危険である。
- すべからく歴史的・社会的・現実的・動態的・価値論的に把握して解釈すべきものである。
- 米国憲法が、国情の幾多の変転にもかかわらず、長きに亘り今日においてなお脈々として活きて行われているのは、かかる実証的な解釈を主調とする判例憲法に負うところが、甚だ多いのである。
- されば、つきつめると、裁判官の智識・経験・教養・能力・才幹・識見・感覚・等々の統一した総合、言いかえれば裁判官その人の法律観・人生観・世界観・社会哲学をとおした価値判断によつてのみ、現実に憲法解釈は行われていくべきものである。
- *オリバー・ウエンデル・ホームズが、深い学識と長い司法的経験を集約帰納して、憲法の解釈は、結局直観・インテユイシヨン〔intuition(直感)〕であると喝破しているのは、まことに達人の至言であり、げに世に類なき偉大な法曹の偉大な言葉といわねばならない。(参考:オリバー・ウエンデル・ホームズ)
- 憲法は、その文字を読むことによつて会得されるものではなく、実に人生を読むことによつてはじめて真に体得されるものではあるまいか。
- 思わず長談義となつたが、要するに私は、罪刑法定主義の行われる刑法は別として、憲法・民法の ごとき根本法を根本法たるが故に、出来る限り読んで字のごとく解釈すべしとする見解には、到底賛同することができない。
- 私は却つて憲法・民法のごとき根本法は根本法たるが故に一層文字の末に捉われることなく、前述したような厳しい実証的な態度をもつて解釈をするのが正当でありかつ必要であると信ずる。
検察官 岡本梅次郎関与
昭和二四年四月二〇日
最高裁判所大法廷
裁判長裁判官 塚 崎 直 義
裁判官 長 谷 川 太 一 郎裁判官 沢 田 竹 治 郎
裁判官 霜 山 精 一 裁判官 栗 山 茂 裁判官 真 野 毅 裁判官 小 谷 勝 重 裁判官 島 保 裁判官 斎 藤 悠 輔 裁判官 藤 田 八 郎 裁判官 岩 松 三 郎 裁判官 河 村 又 介 裁判官 穂 積 重 遠