大赦は、三権分立の原則に対して例外的に行政権の作用を以て、司法権の作用に干与することを認めた場合である。
すなわち大赦は、刑の言渡を受けた者については、判決の確定力を消滅させ、又末だ刑の言渡を受けない者については、裁判の審理を終了させる行政行為である。
憲法が司法権の作用に対して、かような重大な行政措置を認めた所以は、裁判所が刑罰法規を適用した結果が又は適用しようとすることが、却て国の内外の情勢と相容れない事由がある場合に、(大赦は条約上の義務として行はれることもある。)行政権をして司法権の作用を是正せしめる必要があるからである。
明治憲法第十六条は、天皇は大赦を命ずと規定する。
元来大赦は、その都度勅令で条件を定めてよいものであるが(恩赦令第三条)勅令に別段条件の定がなければ、恩赦令第三条所定の原則によるのである。
本件について見れば、昭和二一年一一月三日公布された勅令第五百十一号大赦令は、同日前に同令所掲の罪を犯した者は、これを赦免すると規定しただけであるから、その効果については、恩赦令第三条に従い、未だ刑の言渡を受けない者については、公訴権が消滅するのである。
即ち、公訴という行政行為の権原が消滅するから公訴が消滅するのである。
訴訟の主体は訴訟物体を処分できないものである。
公訴が提起された以上、公訴機関も裁判機関も自己の裁量で既成の訴訟関係を変更できない。
従て、この原則が厳格に維持されると、公訴が提起された以上は、旧刑事訴訟法や独仏の刑事訴訟法のように、第一審でも公訴機関は訴訟物体を処分しえないものとなる。
そこで国家としては、公の必要上公訴機関でも裁判機関でも自ら為しえない訴訟物体の処分を、大赦の制度によつてするのである。
現行刑事訴訟法では、第一審の判決前では、公訴機関による公訴の取消が認められておるから、大赦の事由があれば、訴訟関係は第一審の段階では公訴の取消によつて終了され、上訴審の段階では、大赦によつて終了されるのである。
結局現行法では、大赦は公訴の取消と同一視すべきものである。
すなわち大赦は公訴を取消すかわりに、公訴を消滅させることによつて訴訟関係を消滅せしめるものである。
裁判権は自動的には発動しないものであり、公訴があつて初めて発動が促されるものであるから、弾劾する者がなければ、裁判する者がない
という諺の通り、公訴が消滅すれば裁判権の活動が停止するのは当然である。
従て、大赦があれば裁判所は公訴事実につき実体的審理をすることができなくなり、又する必要もないものである。
ただし、裁判所としては訴訟手続は裁判によらなければ終結しえないものであるから、形式的に免訴の判決をして訴訟手続の結末をつけるのである。
実質的には大赦令が効力を発生した時に、法律関係は消滅したものであること、被告人の死亡の場合と異るところがない。
けだし、何れも訴訟主体の一つが消滅した場合であるからである。
たゞ大赦による免訴判決は刑事訴訟法第三百六十三条に、公訴の取消、被告人の死亡は同第三百六十五条に規定されておるに過ぎぬ。
別個に規定されておるからといつて、訴訟法の条項に基いて大赦の本質を誤つてならないことは言うをまたぬ。
然るに、本件大赦令第一条が昭和二一年一一月三日前に左に掲げる罪を犯した者は、これを赦免する
と規定するから、大赦を以て天皇の仁恤
の恩典なりとし、その罪を赦免するのであるとの意見がある。
従て、無罪判決は大赦による免訴判決に比し、被告人に有利であるとの意見があり、
又、大赦は罪の種類を定めて行うものであるから、大赦は当該犯罪につき国家刑罰権を消滅せしめるものであるとし、而てその前提の下に、裁判所が大赦のあつたことを理由として、免訴の判決をする場合には、公訴事実が大赦のあつた罪に該当するや否やを判断して、それが該当する場合に限り免訴の判決を為すべしとの意見がある。
なる程、明治以前にも罪を赦免した制度はあり、欧州封建時代にも同様の制度はあつたが、何れも三権を手中に混用していた王侯の恩恵に過ぎなかつた。
けれども、三権を分立する憲法政治の制度としての大赦は、成文憲法と共に我国固有のものではない。
大赦は公の必要がある場合に、天皇が国務大臣の輔弼
によつて、国務として命じなければならない憲法上の制度である。
御下賜金のような仁恤又は恩恵の行為ではありえない。
従て、裁判所は大赦令の恩恵的措辞を文理解釈することを許されない。
大赦は罪の種類を定めて行うものであるが、特定数人の犯人及び被告人が存在しなければ、大赦を行う理由がない
大赦令が左に掲げる罪を犯した者
というのもこの為である。
公訴も特定人に対するものである。
すなわち大赦は大赦令の適用ある特定数人に対する公訴事実から罪となる性質(犯罪)性を滅却させるものである。
公判請求書の犯罪事実がなかつたと同じ結果となるものであり又それが大赦の目的であり特赦とも異つた所以である。
大赦によつて公訴が消滅したにもかかわらず、公訴事実だけが残存したり裁判所は消滅しておる公訴事実につき判断しうる権限がありえない。
公訴事実が大赦のあつた罪に該当するや否やを判断すべしとする説は、裁判権が発動していないのに、まだ発動していると錯覚するものであり、憲法が定めた大赦の制度を無視して裁判権を発動するものである。
そこで本件について見ると、原審は本案の審理をした後以上の説明に依つて被告人の行為は刑法第七十四条第一項に該当する
と判断して、昭和二一年一一月三日勅令第五一一号大赦令第一条第一号刑事訴訟法第三百六十三条第三号に則つて、被告人に対して免訴の判決を言渡したものである。
原審は以上述べた理由によつて、明治憲法第十六条の恩赦の制度を実施するために制定せられた、大正元年勅令第二十三号恩赦令第三条の解釈を誤つたものである。
尤も、大赦の受益者も無罪を争つて実体的審理を求めえないのは裁判所と同様であるが、原判決が大赦の本質を誤つて違法な判決をしたのに対しては上告は適法である。
而て、裁判に理由を附すべきことは、ただに訴訟法上の問題でなく憲法上の原則である(刑訴第四九条、憲法第三四条、第三一条)原判決は大赦に則つて、免訴の判決を言渡したのではあるが、理由の根本が誤つておるのであるから、原判決は破毀すべきである。
されば、原判決を破毀して当最高裁判所自ら被告人に対して免訴の判決をなすのを適法とする。